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鹿児島からの帰り道、芦北インターのすぐ手前にある「佐敷城」を
訪れてみた。
道路は整備されているのだが、昨日とは打って変わって寒い!
寒さと運動不足の体を痛感しながら登っていく
本丸に通じる石段
城跡から見える芦北の街並み
城主は加藤清正の重臣、加藤与左衛門重次
築城は天正17年とある
豊臣秀吉の命で、朝鮮に出陣した際に一時期薩摩の梅北国兼に乗っ取られたことがあるそうだ。その後も関ヶ原の戦いに関連して、薩摩の島津軍に包囲されたことも。
実は、昨日鹿児島にて居酒屋のマスターと島津の殿様と西郷隆盛・大久保利光について大いに議論したところであった。
一時期、九州は殆どが島津藩に支配されていた時期があり、また鹿児島一国で
外国と戦争したり、琉球王国もまたしかりである。
この様なお国柄、(任侠の世界も一本であった=要らぬ余談だけど)
薩摩人はまとまりがあるような気がする
比べて熊本は、俺が、俺がのつぶしあい。(苦笑い)
しかし、熊本は美人が多いですね!
ファッションセンスもものすごくいいし、速いしとお褒めの言葉も頂いた
ヘルス関連も全国的に有名ですし?と
私はその方面にはいかないから(マジで)よくわからないが、話は耳にする
話が完全にお城とは違う方向に向かってしまったな
(4〜5件、はしごしたもので、、、気分はまだスナック?)
(この石垣の下部は当時のまま)
この城は、幕府の一国一城により、破壊され、その後の天草島原の乱でも
壊されたと期してあった。
何よりこの城が最近で有名なのは、芦北の鉄砲隊
当時の火縄銃で鎧武者たちが一斉に放つ勇壮な行事が今に伝えられていることだろう
私が城巡りするには一つの理由がある。
何かを行なおうとする場合によく訪れる。戦国の時代に生きた武士たちを
天守に上り、同じ気持ちになってみること。
物凄く心が落ち着き、やらねばならぬと決意新たになる場所でもある。
つらいから辞めたとか、面倒くさいからとかは一切まかり通らぬ
命も自分のものではない世界。失敗は即切腹。
この境地に自分がいたらどうする?と追い込んでも見る。
そんな気分にさせてくれるのが、私にとっての城巡りである。
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城
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コメント(2)
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熊本県菊池市、ここに古代の山城がある。名を「鞠智城」(きくちじょう)。 655年,朝鮮半島北部で,かねてより対立していた唐と高句麗が戦いを始めた。 南部では,百済が新羅(シルラ,しらぎ)へ侵攻したため,新羅は唐に救援を求めた 倭国と友好関係にあった百済が新羅と唐の連合軍に責められ、660年百済は滅んでしまう。 しかし、百済の反乱分子が倭国に助けを求めてきたので、「中大兄皇子」=天智天皇率いる 大和朝廷軍(27000人)を率いて援助に向かうが「白村江の戦い」において全滅。 自体は急変、我が国が攻め入られる危険に晒されてしまう。 朝廷は港の「難波宮」から内陸部「大津宮」へと遷都。 九州には大宰府(朝廷の出先機関・全九州の外交と貿易の要所)を守るために、大野城(福岡県) 基肄城(佐賀県)・金田城(長崎県)が作られた。 熊本の鞠智城」はこれらの城に少量や武器、防人(兵士)を補給する支援基地として作られた。 我が国最初の海外派兵、最初の敗北かも・・・・。 ※注 これは侵略ではなく、友好国からの要請による派兵である。 八角鼓楼 柱があり、屋根の重みで建物本体を支えている。 目的=最上階に置いた太鼓で城内に合図したり、時間を知らせる役目をしていたものらしい。 この八角形の建物跡は、国内の古代山城では他に類例がなく、中国や朝鮮半島の文化の影響を受けている ものと思われるとの記述がしてあった。 つまりは、戦に敗れて、百済から倭国に移住避難してきた人達によりの協力に沿って建立されたものか。 (この時から、日本に百済からの大量の渡来人が移り住んでいるとの文献もあった) 我が国最初の耐震構造物? 韓国を観光した時に、ガイドさんが「朝鮮半島は地震の心配はほとんどない国です だから遺跡も当時のままの姿を見ることが出来ます」と聞いたような・・・・・ そんな国が、日本に来て急きょ地震対策の為にこの様な構造を作り上げたのか? 少し疑問が生じた。 素人がいらぬ解説をと言われそうだが・・・(笑い) 米倉 板倉 <<<倭国から日本へ>>> 唐との戦いで敗れた倭国は,天武天皇の時代になって「日本」と呼ぶようになり, 政治の方針を大きく変えていく。 日本は唐の優れた政治制度を学び,律令国家を目指した。 この歴史からも,強い国に学び,優れた文化,政治制度,技術などを導入して独自のものに 替えていく日本の姿を見ることができる。 <<この時代の少し前後を見てみると、実に面白い>> 中学時代に習った歴史がよみがえって来る時代でもあるのである。 豪族の権力争い、{曽我氏と物部氏} やがて戦となり,物部氏を倒すことでその地位は確固たるものになっていく。こうして, 蘇我稲目−馬子−蝦夷−入鹿の4代直系一族による独占体制を築いていった。 仏教の伝来 645年 乙巳の変 (蘇我入鹿の暗殺) 中臣鎌足は曽我氏と物部氏との戦いで、物部氏についていたが、曽我氏が反逆を企んでいると 次期天皇候補として「中大兄皇子」に近づき、曽我氏を暗殺を持ちかけ、曽我氏を暗殺。 ここに、絶大なる権力を誇った曽我氏は滅びてゆく事になる。 「大化の改新」 660年 中大兄皇子、天智天皇を即位 663年 白村江の戦い 671年 天智天皇死去 大王(大君)の跡目相続争いの始まり=壬生の乱 <<父子直径相続の皇位継承と天皇>> 当時は、同母の兄弟で皇位を継承していたが、天智天皇は我が子(大友皇子)に継承させるべく 父子直径相続という皇位継承を新たに定めた。 これにより弟の大海人皇子は、自ら出家して、都を去ってゆく。 しかし、皇位を継承した大友皇子は、大海人皇子に戦を仕掛けんとばかりに食糧等の断絶をしてゆく。 大海人皇子は、決心して迎え撃つことに。大友軍に勝利した大海人皇子は 673年2月,大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に入り,ここで 「天武天皇」として即位します。 ※今迄の大王を改め、「天武天皇」から天皇と呼ぶようになりました。 後述 大宰府天満宮=学問の神様で知られる、藤原道真公は実は都より左遷され大宰府に赴任させられた 落ちこぼれでもあった(これは中学時代に先生から聞いて、だから頑張れ・・・と何のこっちゃ) と聞かされていたが、一時平清盛も赴任していたらしい事は初耳であった。 当初「鞠智城」があることは知っていたが、小さな城跡くらいにしか思っていなかった。 偶然菊池方面に用件があり、立ち寄った。 調べてみると実に面白い。前回「建国」という記事をアップしたが、それに関連して大和朝廷 神武天皇から38代目にあたる天智天皇が関連する城であった。 この小さな変わった古代山城から、新羅・高句麗・唐・百済の朝鮮の覇権時代。 歴史に出てくる有名人、聖徳太子・中大兄皇子・曽我入鹿・物部氏・・・・・。 歴代天皇の継承の様子。日本国の名称の登場。地元熊本の地に、各地から有事に際して集まった防人達の 住む(当時3年間の、いわば兵役の義務があったらしい)山城があったとはつゆ知らず。 少し興奮ぎみの自分を覚えた。 我が家から30〜40分で行けるこの地で、一大ロマンを味わえた。再び感動。 現在、この地 「鞠智城」を国営公園に!!! とう運動があっております。 小さな城だけど、広々とした公園になっており、現在も発掘作業が行われております。 まずは熊本県民がこの歴史ロマンを感じ取って、各地に発信しなければと思い、 長文の記事になってしまいました。 読みにくい感、多々あるかと思いますが、最後まで読んで、歴史ロマンを感じ取っていただければ 幸いです。 合掌
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綾城 時代が違うせいもあるだろうが、天正という年号が出て来たからと思ったら、やはり鹿児島の島津家 が・・・。九州のお城を巡っていると、ほとんど島津家が絡んでくる。 当時の模様をあらわす会議の様子が人形で表わされていた。 鹿児島に「島津」、大分に「大友宗麟」その間に挟まれている宮崎は幾度となく戦に巻き込まれ、 その度に、両者からどちらに着くかの判断を迫られたであろう事は想像できる。 この城の隣に、城を模った展示室がもうけられていた。焼き物から藍染・木工類等相当力を入れてい るみたいである。私が気に入ったのはガラス細工.mewo奪うような綺麗さ。繊細さ。 に、大好きなお酒の「泉酒の杜」へと。 ここは大いに賑わっていた。貸し切りのバスまで来るほどのスポットである。 新発売の「大地の香輝」を。集めると言っても、人が来たら出してしまうのでほとんど残ってはい ない(苦笑い)。 一応の場所を巡り帰路に就く事に。帰り道、Uターン会議があっていたので参加することに。 ドライブにはちょっと遠かったかな。 |
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初代は大友氏二代親秀の六男親重・以来地名の木付を氏として名乗る。 木付氏十六代鎮直(しげなお)の時代、木付城は島津藩の猛攻を受け たが、これを撃退。 しかし、宗家大友家が朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りに触れ、宗家大友氏 は滅亡、これを知った城主、木付氏は朝鮮からの帰り、自刀入水・ 城中にいた父・母ともに自害をした。 これにより、木付氏17代、三百四十五年に渡る、統治の幕は下りた。 後、細川忠興(肥後の国)。小笠原忠和(確か唐津?)と藩主の交代が 相次ぎ、1645年(正保二年)には、能見松平秀親が、城主となった 十六代までの二百二十七年間城主として治藩したが、明治の廃藩により 杵築城は姿を消した。 ※木付が本来の名であるが、徳川六代将軍家の朱印文に木付が杵築と 書き換えられていた、そこで幕府に伺いを立てた後、木付を杵築と 書く事になった。 この城には、松平公の鎧・冑等沢山の物が展示されていたが、写真撮影 okと言う事で(珍しい事)男は大好きな甲冑等沢山取らせてもらった。 中々他所では取らしてくれない。以下松平公が着用していた鎧・冑。 杵築城
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