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荒川静香選手の金メダル一個で終わったトリノ・オリンピック。恐らく今年の流行語大賞の有力候補となる荒川選手の「イナバウワー」、正式名称は「レイドバック・イナバウワー」であるという。「イナバウワー」は、左右の足を180度開き横に滑る下半身の演技。それに背面を反るスタイルは荒川選手のオリジナルで、演技名が公募中とか。
ところで、この演技中のバックで流れるのが、プッチーニの「トゥーランドット」中の「誰も寝てはならぬ」という曲だという。また他の選手もプッチーニの「トスカ」を使っている。「トゥーランドット」と「トスカ」とはどのような曲なのか。「フリー百科事典」を見る。
ジャコモ・プッチーニは「1858年12月22日イタリアのルッカに生まれ、1924年11月ベルギーのブリュッセルで没したイタリアの作曲家である。第3作の『マノン・レスコー』は大成功ばかりか、優れた台本作家ルイージ・イリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲」が書かれている。
「『トゥーランドット』はヴェネツィアの劇作家、カルロ・ゴッツィが1762年にした中国を舞台にした戯曲、およびこの戯曲に基づいて作曲された音楽作品である。オペラだけでも少なくとも12人の作曲家の作品が存在することが確認されているが、ジャコモ・プッチーニが作曲、その1924年の没後、遺された未完部分にフランコ・アルファーノの補作を経て、1926年にイタリア・ミラノで初演された3幕物のオペラが最も有名」。
「1918年にいわゆる『三部作』を発表して以来、第一次世界大戦後の混乱も影響して新作の途絶えていたプッチーニであったが、1919年の中頃からは新作の題材検討を精力的に行っていた。はじめ有力な候補だったのが、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を下敷きに、ジョヴァッキーノ・フォルツァーノが書いた『スライ』であった。プッチーニは実際、ロンドン訪問時にトーマス・ビーチャムにエリザベス女王時代の歌曲の収集を依頼したりもしているのだが、結局のところ同作のオペラ化は放棄される」。
「『トスカ』はジャコモ・プッチーニのオペラである。全三幕で、台本作家はルイージ・イルリカとジュゼッペ・ジャコーサの二人が書いた。初演は1900年1月14日、ローマのテアトロ・コスタンツィで行われた。台本は1889年パリで上演されていたヴィクトリアン・サルドゥの戯曲に基づく。プッチーニは同年ミラノでサラ・ベルナール演ずるこの劇に接し、直ちに馴染みの編集者リコルディにサルドゥから権利を買うよう依頼したが、1893年に作曲家アルベルト・フランケッティのものとなってしまう」。
「イルリカが台本を書き、1894年10月、フランケッティ、リコルディとヴェルディはサルドゥに会い、台本を贈った。ヴェルディはこの悲劇作品にいたく魅せられていたが、この作品の結末を変更しない限り作曲するつもりはなかった。数ヵ月たって、とうとうフランケッティは自分ではこの作品に作曲することは不可能と認めたため、ジュリオ・リコルディはプッチーニに作曲を依頼した。彼は感情を害していたのでヴェルディの仲介により、ようやくこれを受け入れさせることが出来た」。
「プッチーニはボエームの作曲を終えた後の1896年から作曲に取り掛かった。リコルディは台本作成のためジュゼッペ・ジャコーサにルイージ・イルリカの共同執筆者に配した。しかしジャコーサはこの作品が気に入なかったため、彼の韻文の実力を発揮することが出来ず、サルドゥと何度か論争を起こした。プッチーニのほうでも、二人の台本作家にリコルディまで巻き込んだ議論の末、彼らが第3幕に取り入れようとした『ラテン聖歌』をわずか18小節の二重唱『新しい希望に魂は勝ち誇って』にまで短縮させたりした」。
「3年に渡る困難な共同作業のすえ、1899年10月、作品が完成した。ローマ市を舞台にした作品だったので、初演はこの永遠の都のテアトロ・コスタンツィで行われることに決まった。準備は長期間でトラブルもあり、多くの好奇心をひきつけた」。
「作品は簡単に言うと、画家カヴァラドッシと恋人で有名な歌手トスカの物語である。画家は脱獄した政治囚の逃亡を助けたために死刑宣告される。トスカは彼を救おうと警視総監スカルピアを殺すが、スカルピアの計略で画家は処刑され、トスカも彼の後を追って自殺する」という物語。
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