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一昨日のNHK「迷宮美術館」の本題だったパウル・クレー。彼は幼い頃からバイオリンを学びながら絵画の道を選んだ。そして、音楽の美しさを絵画で表現するという試みに挑戦するした。その集大成が「パルナッソス山」。この「パルナッソス山」については「mariのページ」(http://www.asahi-net.or.jp/~rv3m-stu/oshirase.htm)という優れたサイトから引用する。
「クレーの絵を見ると心が落ち着く、クレーの絵の前に立つと、自分が苦しかった時に心の救いになってくれたのを思い出す・・・。そんなふうに話す人が多いことに驚きます。クレー自身、音楽や詩に造詣が深く、絵画に音楽や詩の世界を投影させて描くことが多かったようです。そうした、絵画だけにとどまらない総合芸術の力が、人々の心に独特な安らぎを与えるのかも知れません」。
「この『パルナッソス山』というタイトルは、18世紀の音楽書『パルナッソス山への道』に由来すると言われています。パルナッソスはギリシャの山で、古代神話ではアポロ神が祭られた場所とされ、音楽と詩の聖地とされていて、いかにもクレー好みの題材と言えると思います」。
「大胆な三角形はこの山を表し、赤い円は太陽、下のアーチの形は神殿の門なのだそうです。クレーは、ここでポリフォニー(多重音楽)と対位法(異なる旋律を組み合わせる技法)という音楽のアイディアを絵画的に表現しようと試みているようです」。
「太陽やアーチを形成している小さな矩形はそれぞれきれいなブルーやオレンジやイエローに色分けされ、水平に速いリズムを刻んでいます。そして、その下塗りの部分はより大きな矩形に色分けされて、それぞれが微妙に調和し、また互いに火花を散らしながら美しい共鳴音を奏でているのが感じられます。整然としているのに暖かい、抽象画でありながら誰も突き放さない、クレーならではの世界です」。
「他の流派の技法ではなく、自分の素直な想像力と直感力によって、単なる抽象画ではない、独自な世界に挑戦しつづけたクレーは、視覚のハーモニーの天才的表現者だったのだとあらためて実感させられます」。
「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は、通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどさまざまな支持体に、油彩、水彩、テンペラ、糊絵具などさまざまな画材を用いて描いている。サイズの小さい作品が多いことも特色で、タテ・ヨコともに1メートルを超える「パルナッソス山」のような作品は例外的であるという。晩年の作品を見ると、ジョン・レノンはクレーに影響されたのではないかと思わせる。
以下、フリー百科事典から彼の生涯を辿る。
1879年、スイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれたクレー。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家。クレー自身もプロ級のバイオリン奏者であり、1906年に結婚した妻もピアニスト。彼は音楽ではなく絵の道を選び、1900年、ミュンヘンの美術学校で象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。シュトゥックはカンディンスキーの恩師。
クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、また、アカデミックな手法の油絵を残している。1906年以降、ミュンヘン分離派展に銅版画を出品。1910年にはベルン等で個展を開く。カンディンスキー、マルクらの「青騎士」展には第2回展から参加している。
クレーの画業において転機となったのは1914年春から夏にかけてのチュニジア(北アフリカ)旅行であった。この旅行に感銘を受けたクレーは鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変する。クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のもの。
クレーは1916年から1918年まで第一次世界大戦に従軍。1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとった。彼は芸術理論にも通じ、多くの理論的著作を残している。 1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校の教授を務める。ヒットラーから危険絵画と指摘され多くの作品を没収された。晩年の数年間は故郷ベルンで過ごしている。2005年6月には故郷ベルンに彼の偉業を集大成した「ツェントルム・パウル・クレー(パウル・クレー・センター)」がオープンした。
最晩年は手がうまく動かない難病にかかるが、背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返したという。 なお、その天使の絵に心を打たれた詩人谷川俊太郎は「クレーの天使」という詩集を出している。
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