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シンセサイザー、今では電子楽器として当たり前になり、あえてこの名前が取りざたされることは多くありません。それほどコンピュータ音楽は普通の存在になりました。そして、コンピュータを使って音楽の演奏についての様々な情報を操作し、音楽を創ったり、コンピュータに自動演奏させたり、楽譜を印刷したりすることのできるシステムである「DTM(デスクトップ・ミュージック)」の世界となりました。
このDTM革命は、これまでの音楽が「作曲者と演奏者(指揮者も含む)と聴く人」の三者があってはじめて意味を持つことができたのに対し、「自分で創り、自分の欲するように演奏情報を操作し、コンピュータに演奏させ、自分で聴いて確かめたり楽しんだり」することを可能にしました。まさに三者の立場を一個人内で実現することができるという音楽革命となりました。(参考;大阪府教育センターHP)
このDTMの世界を切り開いたのが、アメリカの電子工学博士、ロバート・モーグ (Robert Moog)〈1934年5月23日-2005年8月21日〉が1964年に開発した「モーグ・シンセサイザー」でした。これまで、シンセサーザーを最初に使用したミュージシャンはジョージ・ハリスンだと思っていましたが、実は違っていたようです。
「ポピュラー音楽界では、1967年にザ・モンキーズがアルバム『Pisces Aquarius Capricorn & Jones Ltd』(邦題:『スター・コレクター』)で初めて使用し、ついで1969年にビートルズがアルバム『アビイ・ロード』で取り上げるに至って広く使われるようになった」。ビートルズの亜流として後塵を拝したモンキーズがここでは先陣を切ったのですね。
「シンセサイザーの音そのものが作品の主な話題になったのは、クラシック音楽ではウォルター・カーロス=ウェンディ・カーロスの「スウィッチト・オン・バッハ」、ポピュラー音楽では1970年代前半のELPの作品が挙げられる。ELPのキース・エマーソンは、本来ライブ演奏向けでは無かったモジュラー式のモーグ・シンセサイザーをステージに持ち込み、演奏中に設定を変えて音を作っていた」。(ウィキペディア)
そして日本での第一人者で、世界で認められたのが冨田勲(1932年4月22日生れ)です。「医師の長男として東京に生まれ、まもなく中国へ渡り幼少時代は青島や北京で過ごす。慶應義塾大学文学部卒業の異色の作曲家といえる」。
「作曲は独学であったが、高校2年からは平尾貴四男、小船幸次郎に師事。大学では文学部で美学美術史を専攻、その傍らで弘田龍太郎に音楽理論を学ぶ。大学2年の時に、朝日新聞社主催の全日本合唱連盟のコンクール用課題曲募集に、合唱曲『風車(ふうしゃ)』を応募し一位となる。これにより作曲家の道を歩む決心を固め、在学中よりNHKの音楽番組の仕事をはじめ作曲活動に入る。1955年に大学を卒業する」。
「1956年のメルボルンオリンピックに参加した日本女子体操選手のための伴奏音楽の作曲や、日本コロムビアでの学校教材用のレコード、森永製菓などコマーシャル音楽の編曲を手掛け、プロの音楽家として活動を始める。NHKのテレビ番組『新日本紀行』、『きょうの料理』や大河ドラマの音楽の作曲、手塚治虫原作のTVアニメ『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』など、放送・映画・アニメ・ドキュメンタリー・イベント・舞台・学校教材・コマーシャルソングなど、膨大な数の作品を世に送り出す」。
「1969年、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため大阪滞在中に、訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-P) を全面的に用いて作成されたワルター・カーロス(現在はウェンディ・カーロスWendy Carlos)の『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、これこそ求めているものだと直感し、当時で1,000万円もしたというシンセサイザーの購入を決意した」。
「1971年秋頃、ロバート・モーグ(Robert Moog)が開発した、アナログ・シンセサイザーの草分けと言えるシステムモーグ・シンセサイザーを日本で初めて個人輸入した。当時、『楽器』として輸入しようとしたところ、日本にはまだシンセサイザーというものがなく、税関から軍事機器と疑われたことがあり、数ヶ月間税関に輸入を止められたというエピソードがある」。
「1974年、1年4カ月の期間を費やしたシンセサイザーによる本格的デビュー・アルバム『月の光』を制作。当時このアルバムを日本の各レコード会社に持ちかけたが、『クラシックでもないし、レコード店に置く場所がない』などという理由ですべて断られた。そのため、米RCAレコードよりリリースされ、米ビルボード・クラシカル・チャートの第1位となる」。
「翌年、日本人として初めてグラミー賞にノミネートされた。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、いずれも世界的なヒットを記録した。冨田のシンセサイザー作品群は、すべての音色づくりはもちろん、全パートの演奏と録音も冨田自身が一人で制作したもので、現在主流となるパーソナルスタジオでの音楽制作の先駆けと言える」。
「ここで教えを受け、助手として働いた松武秀樹は、後にイエロー・マジック・オーケストラにおいて、第四のメンバーとして、シンセサイザー・マニピュレーターという役割に就いた。また、大阪万博で冨田の手掛けた東芝IHIパビリオンの音楽(この頃はシンセサイザーはまだ使用していない)を聴いた若き小室哲哉にも大きな影響を与え、将来を決定づけた」。
「海外ではスティービー・ワンダーが来日した時、最も尊敬している音楽家として冨田の名前を挙げている。マイケル・ジャクソンも来日した際、冨田のスタジオを訪問したことがあった。また、『惑星』の立体音響に深く感銘したフランシス・フォード・コッポラ監督は、映画『地獄の黙示録』の音楽を冨田に要請したが、契約の関係で実現には至らなかった経緯がある」。
「1998年には、伝統楽器とオーケストラ、シンセサイザーによる『源氏物語幻想交響絵巻』を作曲。東京、ロサンゼルス、ロンドンにて初演、自ら棒を振った。2001年には、東映50周年記念作品『千年の恋 ひかる源氏物語』を作曲。同年3月には、放送事業の発展や放送文化に貢献した功績により第52回日本放送協会放送文化賞を受賞。また、東京ディズニーシー・アクア・スフィアのための3面立体音響シンフォニーを手掛ける」。
「2002年には作曲活動50周年、シンセサイザーでの音楽制作30周年の節目の年を迎えた。第26回日本アカデミー賞では、山田洋次監督の時代劇『たそがれ清兵衛』で最優秀音楽賞を受賞。2003年4月、春の叙勲では芸術・文化の分野で勲四等旭日小綬章を受章。2005年3月開催の愛・地球博(愛知万博)の公式催事である前夜祭セレモニーをプロデュースした」。
「近年はこれまでのシンセサイザー・アルバムを5.1サラウンドで製作し、完結することに主眼を置いている。映画では手塚治虫原作の『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』、山田洋次監督による藤沢周平作品の第三弾『武士の一分』の音楽を手がける」。(同上)
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初めまして。
私も冨田を好んで聞いています。
特に、源氏物語幻想交響絵巻は本当に感動です。
(トラックバックよろしくお願いいたします。)
2011/1/12(水) 午前 5:58
Mr.Kさん、コメントありがとうございます。TB喜んで。
2011/1/13(木) 午前 3:17 [ aso**otoh ]