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テレビで「永遠のカンパネラ フジコ・へミング 愛と魂の200日」という番組を観ました。10年ほど前から話題になっていたので彼女のことは知っていましたが、正直言って過去の人だと思っていました。映像を見て、そのパフォーマンスに驚きました。海外のコンサートでは和服を羽織って聴衆を魅了します。彼女の演奏をオーケストラの一員として聞いて思わず涙した演奏家がいたといます。その話をした後の彼女のことばが印象的です。「私は自分のピアノでは泣かないわ」。
ニューヨーク・ハーレムにある「ABC」という孤児救済センターを訪れた彼女が、置き去りにされた古びたピアノで子どもたちのために弾いたが曲が、フランツ・リストの「カンパネラ」(ラ・カンパネッラ/鐘)でした。私は彼らのためにもっと簡単な曲を弾くのかと思っていました。しかもその演奏振りは多くの聴衆を前にコンサートホールで弾くかのようにシリアスでした。
私はこの一場面でフジコ・ヘミングというピアニストの人となりを知った思いがします。例え調律されていない楽器であっても、どんな人の前でもあっても、そのときの最善を尽くす。子どもたちは60年以上もピアノ一筋にかけてきた音楽家の最高のパフォーマンスを間近で聞いたのです。それは、フランス社交界のセレブの昼食に招待されたときも同じでした。
人間にとって最も大切なことは寛容さである、と彼女はいいます。世界中に同じ人は一人としていない。その違う人を受け入れる寛容さが大事なのだと。彼女の最も好きな国はイタリア、フランス、ラテン系の国だといいます。理由は床に落ちたタバコの灰を気にしない寛容力を持っているからだそうです。嫌煙家の人は眉を顰めそうなコメントですが、私には理解できます。昔の日本はそうでした。
フジコ・ヘミング(本名イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング、1932年12月5日 - )は、「ピアニストである。ロシア系スウェーデン人の画家・建築家のジョスタ・ジョルジ・へミングと、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優大月ウルフは実弟」。
「『リストとショパンを弾くために生まれたピアニスト』『リストの申し子』と評される通り、リストやショパンを得意とする。その他、ドビュッシーやラヴェル、シューベルトなどの名立たる作品をコンサート用に選曲することが多い。なお、本人が最も得意とする代表曲が、かの有名なリストの『ラ・カンパネッラ』であり、譜面にのみ忠実な、単調且つ機械的演奏を嫌って、繊細で情熱的、情味豊かに奏でる。苦難の人生を生き抜いてきた証しとも言える、真実味の滲み出た血の通った音色から、『魂のピアニスト』とも評される」。
「その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドウラ・スコダに師事。今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われる、ブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。この契約に際しては、フジ子の演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタインからの支持、及び援助があった(実際は仕事を探していたフジ子にバーンスタインがたまたま仲介をしただけで、演奏に感銘を受けたということはない)。しかし、『一流の証』となるはずのリサイタル直前に、風邪をこじらせ(貧しさの為、真冬の部屋に暖房をつけることができなかった為)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目をみた」。
「既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時、左耳の聴力も失ってしまい、耳の病のためフジ子は演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、ストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後は、ピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。現在は左耳のみが多少(約40%)回復している」。
「母の死後、1995年に日本に帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。1999年2月11日にNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』が放映され、大反響を巻き起こし、フジ子ブームが起こった。その後、発売されたデビューCD「奇蹟のカンパネラ」は、発売後三ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した」。(ウィキペディア)
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