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昨日、取り上げた〜キューバが生んだ「サルサの女王」セリア・クルース〜に引き続き、今日は「マンボも王様」を取り上げましょうね。この「マンボの王様」には二人の王様がいました。一人は、キューバ生まれのペレス・プラード、そしてもう一人は「ティンバレスの王様」とも言われるニューヨーク生まれのティト・プエンテ。
・・・と言っても、マンボとは何かさえ覚束ない私です。まずは、いつものように常套手段のウィキペディアに頼ります。
マンボ(mambo)は、「ラテン音楽の一つ。キューバの音楽形式でダンスのスタイル。mamboという言葉とはハイチの土着宗教ヴードゥーの女司祭の名前で『神との対話』の意味を持つ。この言葉が音楽ジャンルとして知られるようになったのは、1938年にOrestesとCachao Lópezにより作られたダンソンの楽曲、マンボに由来する」。
「マンボは1930年代後半にキューバで流行していたルンバにジャズの要素を加える形で作られ、1940年代後半にペレス・プラードにより、ダンスのためのマンボとして世界的に知られた。ビッグバンド形態をとり、ホーン・セクションをリズム楽器として用いる。楽器の構成はコンガ、ボンゴ、ティンバレス、クラベス、ベース、ピアノ、トロンボーン、トランペット、サックス等による。代表曲に『マンボNo.5』が挙げられる」。(ウィキペディア)
<Damaso Perez Prado..."MAMBO No. 5">
http://jp.youtube.com/watch?v=71ccPegibAI
<Celia Cruz, Tito Puente, and Poncho Sanchez: Quimbara>
http://jp.youtube.com/watch?v=8Y06BvtWjrg&feature=related
ダマソ・ペレス・プラード(Dámaso Pérez Prado, 1916年12月11日 - 1989年9月14日)は、「キューバのバンドリーダー、指揮者、ピアニスト。マンボ王(マンボキング)とも呼ばれる。1916年(1922年説もある)にキューバのマタンサス (Matanzas) に生まれる。父親は新聞記者で母親は教師。幼少時からクラシックピアノを学び、後にポピュラーに転向して地元のクラブ等でピアノやオルガンを演奏していた」。
「1940年代キューバの首都ハバナで働いていた頃、当時流行していたルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を積極的に演奏し始める(「マンボの王様」という異名から、ペレス・プラードにより作られたと語弊する者も多いが、彼がマンボの発明者ではない)。しかしこの新しいリズムはキューバ国内では受け入れられず、1948年にメキシコシティへ移住。そこでペレス・プラード楽団を結成、一躍人気アーティストとなった」。
「その後、代表曲となる『マンボ No.5 (Mambo No. 5)』や『マンボ No.8 (Mambo No. 8)』を発表するとマンボは世界的なムーブメントとなり、アメリカに進出後発表した「セレソローサ(Cerezo Rosa (Cherry Pink and Apple Blossom White))」はアメリカのヒットチャートで26週連続チャートインするといった快挙を成し遂げた」。
「彼のスタイルは指揮をしながらステージ上で所狭しと踊り、飛び跳ね、激しく動き回りながら独特の掛け声で楽団を煽るというもので、マンボの強烈なリズムと共にそのステージは当時の若者を熱狂させた。アメリカでの人気が下火となってきた1964年にメキシコシティに本拠地を移す」。
「日本には1956年に初来日、以後17回日本で講演している。その際パラダイス山元に掛け声の指導をしたとされる。1989年メキシコシティの自宅にて各種の病気の併発により死去。カストロ政権下でのキューバでは、その死はわずか数行の記事で片付けられたものの、メキシコシティで行われた葬儀は世界中からペレス・プラードのファンが集まり、『史上最も陽気な葬儀』と形容されるほど華々しい葬儀であった」。
<New Arrival ... Tito Puente>
http://jp.youtube.com/watch?v=6SffU1yeQnU
ティト・プエンテ(Tito Puente,本名:エルネスト・アントニオ・プエンテ,Jr. 1923年4月20日 - 2000年5月31日)は、「『ティンバレスの王様』、『マンボの王様』とも呼ばれるラテン音楽を代表する米国ニューヨーク出身のミュージシャン。類まれな才能に恵まれ、ティンバレス、ヴィブラフォン、キーボードの奏者として、また、作曲家・編曲家・バンドリーダーとして偉大な足跡を残した」。
「1940年代から活躍し、1950年代の世界的マンボブームの立役者の一人でもある。プレイヤーおよびバンドリーダーとしての足跡はもちろん超一級であるが、ラテンジャズやサルサの発展にも大きく寄与し、また、自らのバンドから多くの後進を輩出するなど、ラテン音楽を形作ってきた功績も見逃せない。スペイン語では息子のことを"-ito"(―ィート)と呼び、プエンテは『エルネスティート』の『ティート』から『ティト』の愛称で呼ばれるようになった」。(以上ウィキペディア)
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