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天正遣欧少年使節は「1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた」。(ウィキペディア)
使節団の4名は、以下。
伊東マンショ(正使);大友宗麟の名代。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル(正使);大村純忠の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟。後に棄教。
中浦ジュリアン(副使);後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
原マルティノ(副使);後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
この記述だけを見て、彼らが西洋音楽を聞いたどうかを判断することはできませんが、使節団の次のスケジュールを見れば、その土地土地で歓迎式典が行われ、その際に音楽が奏でられたであろうことは推測できますね。それにしても、420年も前のことです。
1584年8月10日;ポルトガルの首都リスボンに到着。サン・ロッケ教会が宿舎となる。リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の妹マリアと神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の男子)の王宮に招かれる。
1584年11月25日;スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年3月7日;フィレンツェに到着。メディチ家による舞踏会に参加。
1585年3月1日;ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
1585年5月1日;グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。
1585年6月3日;ローマを出発。以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問。
1586年4月13日;リスボンを出発。帰路につく。
1587年5月29日;インドのゴアに到着。ヴァリニャーノに再会。
で、ネットで検索してみると、やはりありました。永田斉子さんのブログ<天正遣欧少年使節プログラム:永田斉子の『リュートと過ごす日々』:So>http://seiko24.blog.so-net.ne.jp/2008-09-26-1
彼らが持ち帰ったのは、グーテンベルグ印刷機だけではなく、アルパ(ハープの一種)、クラヴォ、レベック、リュートなどの古楽器もありました。そして、彼らは帰国後の翌年、1591年3月3日、聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽を演奏したのだそうです。そのときに豊臣秀吉が聞いたその中の一曲は、永田さんによれば、ジョスカン・デ・プレの「皇帝の歌」と呼ばれる「千々の悲しみ」だということです。それはこんな曲でした。
<Cancion del Empeardor by Luys de Narvaez>
http://jp.youtube.com/watch?v=03PlOsiaUrk&feature=related
ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez。1450/55年 - 1521年8月27日は、「盛期ルネサンス時代の作曲家、声楽家。本名はジョスカン・ルブロアット(Jossequin Lebloitte )。当時の全ての作曲技法を見事なまでに意のままに操っており、存命中既に著名な作曲家であり、現在ではその時代の最も優れた代表者であったと看做されている」。(ウィキペディア)
近代音楽の父、バッハが世に出たのは1770年代の前半。ジョスカン・デ・プレは、それよりはるか250年も前の作曲家です。天正遣欧少年使節は彼の死後60年経った時代に異国でこの曲を聞いていたのです。それを、豊臣秀吉が聞いていた。このとき、秀吉がどんな感想を漏らしたのか、叶うことであれば、是非聞いてみたいものですね。
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