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ギタリスト。恐らくプロのミュージシャンの中で最も弾き手が多いパートだと思います。それだけしのぎを削る、厳しい世界。技術的にレベルが高いギタリストはきっと日本にもたくさんいるんでょうね。そして恐らく独学が最も多いのもギタリストではないでしょうか?ギターを抱えて寝るくらいの人でないとプロにはなれない。プロになったからといってそこからがまた険しい世界。
そんなギタリストの中にあって、知る人ぞ知るというのが、スティーヴィー・レイ・ヴォーンではないでしょうか?実は私、知りませんでした。事故によって36歳で亡くなったので今はその勇士を残された作品からしか知ることはできません。彼の生涯について、いつものようにウィキペディアからの長い引用です。
スティーヴィー・レイ・ヴォーン(Stevie Ray Vaughan,1954年10月3日-1990年8月27日)は、「アメリカのブルース・ギタリスト、作曲家、歌手。その演奏スタイルはエレクトリック・ブルースの一つの頂点と考えられており、後進の音楽家に巨大な影響を与え続けている」。
「テキサス州ダラス近郊のオーク・クリフに生まれる。高校を中退した後、音楽家の道を志してオースティンに向かい、そこで同じく白人のエレクトリック・ブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンターの目にとまる。彼の紹介でクラブに出演出来るようになったスティーヴィーは、『ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス』というバンドで活動を開始し、1970年代中盤までにシングルを3枚発売している」。
「1975年、スティーヴィーは新しいバンド『トリプル・スレット・レヴュー』を結成。結成時のメンバーは、その後兄ジミー・ヴォーンと来日もするルー・アン・バートン(ヴォーカル)、W.C.クラーク(ベース)、マイク・キンドレッド(キーボード)らであった。因みにクラークとキンドレッドは、後にスティーヴィーの持ち歌として知られるようになる"Cold Shot"の作者である」。
「このバンドの2代目ドラマーとして加入したのが後々までスティーヴィーと行動をともにしたクリス・レイトンであった。1978年にバートンがバンドから脱退。残されたメンバー、スティーヴィー、クリス、ジャッキー・ニューハウス(ベース)は『ダブル・トラブル』と名乗り活動を続行する。スティーヴィーがリード・シンガーも兼任するようになったのはこの時からである。ちなみにバンド名はオーティス・ラッシュの曲から採られている」。
「1981年にベーシストが元ジョニー・ウィンター・バンドのトミー・シャノンに交替。『ダブル・トラブル』の陣容は完成する。この頃までにはオースティンを代表するエレクトリック・ブルース・バンドになっていた『ダブル・トラブル』の中心人物であるスティーヴィーには、ジャクソン・ブラウンら大物音楽家からの共演依頼が届くようになる。中でも最も重要な転機をスティーヴィーに与えたのがデヴィッド・ボウイである」。
「ボウイはまず1982年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのバックにダブル・トラブルを起用。ここでは観客の趣味の傾向もあってさほど好評ではなかったが、ボウイは1983年のアルバム『レッツ・ダンス』にスティーヴィーを起用することを決める。また同年、『スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル』名義で最初のアルバム『Texas Flood(ブルースの洪水)』を発表。ブルースのアルバムとしては異例の大ヒット(50万枚を売り上げてゴールド・ディスク獲得)となる。またシングル『プライド・アンド・ジョイ』はシングルチャートでも上昇し、トップ20入りを果たす」。
「1984年には2作目となる『Couldn't Stand the Weather』を発表。1985年1月に来日。これは彼にとって唯一の日本ツアーとなってしまった。ここでは、発表を間近に控えていた『Soul to Soul』から"Say What!"も演奏される。このツアーで前座を務めたのはギタリストの鈴木賢司だった。同年キーボードにリース・ワイナンズが加入し、3作目『Soul to Soul』を発表。同作のジャケットには来日時に購入したものと思われるお守りが写っている」。
「2作目、3作目ともにゴールド・ディスクを獲得するが、この後スティーヴィーは麻薬とアルコールに侵されはじめる。結局スティーヴィーは本格的な麻薬中毒とアルコール中毒の治療の為、入院しなければならなくなるのである。麻薬中毒の治療はジョージア州アトランタで行われた」。
「1989年、復帰したスティーヴィーはアルバム『In Step』を制作。グラミー賞を獲得する。またこの年、ジェフ・ベックとともに全米ツアーを行っている(当時の『ギター・マガジン』誌によれば、ヘッドライナーはスティーヴィーで、観客の反応も圧倒的にスティーヴィーの方が良かったとされている)」。
「いよいよスティーヴィーの全盛期が始まったかと思われた矢先、悲劇が起こる。1990年8月26日、スティーヴィーはウィスコンシン州イースト・トロイのアルパイン・ヴァレイ・ミュージック・シアターで行われたブルース・フェスティバルに出演。エリック・クラプトン、バディ・ガイ、ロバート・クレイ、ジミー・ヴォーンらと共演した後、彼はシカゴ行きのヘリコプターに乗り込む」。
「実はこのヘリコプターは本来彼が乗る予定ではなかったのであるが、一人分だけ席が空いたので、急遽乗れることとなったのである。しかしこれが運命の分かれ道となった。濃霧の中飛び立ったヘリコプターは、8月27日未明にアルパイン・ヴァレイ・リゾートの空中電線に接触して墜落。スティーヴィーは帰らぬ人となる」。(ウィペディア 『ギター・マガジン』誌の追悼記事による)。
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