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今日は「日本の児童文化運動の父」とされる鈴木三重吉氏が126年前に生まれた日です。彼が行った児童文化運動のひとつに童謡がありますが、この童謡と呼ばれる歌が初めて登場したのは大正時代でした。そんな訳で、今日は童謡について取り上げたいと思います。まず童謡について、ウィキペディアでは次のように解説されています。
〜「童謡」は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したいえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて掲載された。これが童謡の嚆矢である。
これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。
『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの名曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。〜
昭和に入ると、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになります。現在『汽車ぽっぽ』(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は『兵隊さんの汽車』という題名の出征兵士を歌ったものであったそうです。
そして、太平洋戦争の終戦後は、ベビーブームもあり、再び子供の歌への関心が高まります。この時代には次のような童謡が生まれました。
『ぞうさん』(1948年(昭和23年)、作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨)
『いぬのおまわりさん』(1960年(昭和35年)、作詞:佐藤義美、作曲:大中恩)
『おもちゃのチャチャチャ』(1963年(昭和38年)、作詞:野坂昭如、作曲:越部信義)
その後、歌われる内容は時代と共に変わり、『およげ!たいやきくん』(1975年、作詞:高田ひろお、作曲:佐瀬寿一)や『山口さんちのツトム君』(1976年、作詞・作曲:みなみらんぼう)、『だんご3兄弟』(1999年、作詞:佐藤雅彦、作曲:内野真澄)が生まれ、今では、NHKの「みんなのうた」が新しい童謡を生み出していますね。
以前、松岡正剛さんの「『日本流』-なぜカナリヤは歌を忘れたか」という本を読みました。本書を読むと、童謡の歌詞が、「難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌」とは思えないものであることが指摘されています。<『日本流-なぜカナリアは歌を忘れたか』番外書評>に次のようなコメントもあります。
〜「童謡のベースであり背景である「幼な心」や子供文化が日本古来の伝統文化そのものであることや「大人たちはわが子の童心の本体にうろたえているのです」という指摘に代表される童謡への洞察は日本の近代化そのもののコンフリクトをも明らかにしている。〜
それは、童謡第一号である1919年「かなりあ」(西條八十作詞、成田為三作曲)にすでに表れています。
<かなりあ>
唄を忘れたかなりやは 後の山に棄てましょか いえいえそれはなりませぬ
唄を忘れたかなりやは 背戸の小薮に埋めましょか いえいえそれはなりませぬ
唄を忘れたかなりやは 柳の鞭でぶちましょか いえいえそれはかわいそう
唄を忘れたかなりやは 象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす
この「かなりあ」について、「童謡と唱歌」というサイトに、次のような解説がありました。
〜この歌は、大正7年11月「赤い鳥」に詞が掲載され、大正8年5月に「赤い鳥曲譜集その一」で紹介された。大正9年には赤い鳥童謡最初のレコードを成田の伴奏で、日本蓄音器商会から発売された。八十は東京帝大の国文科と早大の英文科に籍を置いていたが、突然の兄の放蕩から一家没落の悲運に見舞われ、しかも学生の身で老母と弟妹を抱えている苦しさから帝大は2年までで断念し、早大は試験だけを受けてどうやら卒業だけはしたものの働くすべとてなく、闇雲に兜町通いをはじめ・・・その焦慮が少し落ち着くとしばらく中絶していた文学への愛情が激しく燃え上がって来・・・・たある朝、意外な客が彼を訪れた。それが鈴木三重吉本人で、雑誌「赤い鳥」に新しい童謡を書くよう依頼に来たのだった。「カナリヤ」は八十が「赤い鳥」に書いた2番目の童謡である。これについて彼はこう回想している
「・・・この歌詞のモーティフは、幼いとき誰かに連れられていった・・麹町のある教会のクリスマスの夜の光景から生まれた。・・・その会堂内の電灯は残らず華やかに灯されていたが、そのうちにただ1個、ちょうど私の頭の真上にあるのだけが・・ぽつんと消えていた。それが幼い私に、百鳥が揃って楽しげにさえずっている中に、ただ1羽だけさえずることを忘れた小鳥・・・のような印象を与えた。
その遠い回想から偶然に筆を起こしてこの童謡を書き進めるうちに、私はいつしか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。そうではないか。詩人たらんと志し・・・たわたしは・・・兜町通いをしたり・・している・・・まさに歌を忘れたかなりやである・・・・・わたしは幼児のための童謡を書こうとして、いつの間にか自分の現在の生活の苦悶を滲ませていた。
そうして、この歌の末尾の聯は、当時、わたしの心に夜明けていたかすかな希望であった。・・・・・わたしをその象牙の船にのせて静かな海に浮かべ、もう一度詩人の本道に連れ戻してくれた恩人は鈴木三重吉氏と解すべきか、それよりももっと大きな運命の手と解すべきか、わたしは知らない。しかし、・・・この歌がひろく津々浦々にうたわれると同時に、わたしの詩人としての行く道がはっきりしてきたことは事実であった。
後年、・・・ある小学校へ童謡の講演をしに出かけたことがあり、講演の後で、可愛い子供たちが揃って「かなりや」の歌を合唱してくれた。それを聴いているうちに・・・なんともいえぬ感傷的な気持ちになっていつか涙がポロポロこぼれてきた」と。〜(http://www.yukai.jp/~tamumd01/myweb1_051.htm)
「大人たちはわが子の童心の本体にうろたえている」、大人たちの動揺であり、大人が自分の童心への動揺を歌ったのが日本の童謡のはじまりであったといえるのです。
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