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'70年代ロック

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まずは、この曲とアルバムの解説から。

<Ziggy Stardust David Bowie>
http://www.youtube.com/watch?v=c5nL1AUPGr0

「ジギー・スターダスト(The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars)はイギリスのミュージシャン、デヴィッド・ボウイの5thアルバム。1972年6月6日にRCAよりリリースされた。このアルバムタイトルは、後述の解説にあるとおり『ジギー・スターダスト&ザ・スパイダーズ・フロム・マーズの栄枯盛衰』とでも訳すべきものであるが、発売当時は、そのコンセプトの理解に時間がかかったためか、『屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群』と、固有名詞を直訳する珍妙な邦題で発売された。(現在は、「ジギー・スターダスト」として発売されている)」

「その名“ジギー”はイギー・ポップから、“スターダスト”は、テキサスのロックバンド、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイが由来となっている。自らが異星からやってきた架空のスーパースター『ジギー』となり、ロック・スターとしての成功からその没落までを描く、という前代未聞の芸当を成し遂げた怪作である」。

「それまでにボウイ自身が体験してきた音楽、俳優、絵画やパントマイム、果ては日本の歌舞伎といった大衆芸能を網羅し、自らの作品へと結実している。聴衆は『デヴィッド・ボウイ』ではなく、『ジギー』として彼を讃え、『ジギー』は虚像のスターとしてロック界の頂点に立った」。

「妖艶さと狂気を兼ね備えた『ジギー』のキャラクターは、ボウイ自身の『バイセクシャル』であるという公言や、ステージでの宇宙人を思わせる奇抜な衣装やメイク、パフォーマンスによって神格化されていく。その頂点に達した時、突如ボウイは『ジギー』を否定し引退宣言をしてステージから姿を消すことになる。『ジギー』としてのパフォーマンスは、1973年7月3日のハマースミス・オデオンが名目上最後とされているが、その後にもう一度だけ行われている」。(ウィキペディア)

そして、1971年、イギリス・ロンドンにおいて日本人として初めてのファッションショー
“KANSAI IN LONDON”を開催し、歌舞伎からインスパイアされたデザイン、演出を大胆に取り入れ、ファッションデザイナーとして一躍世界の舞台に躍り出たのが山本寛斎さん。1973年にはデヴィッド・ボウイからたっての依頼を受け、ジギー・スターダスト&アラディン・セインツアーのステージ衣装を手掛けることにとりました。

昨年の「KANSAI SUPER SHOW 太陽の船」に続いて、今年山本寛斎さんがしかけるのは、江戸東京博物館15周年記念企画「熱き心展〜寛斎元気主義〜」。山本寛斎の作品を通して、次の世代へ、日本文化の、日本人の美意識を改めて問いかけ、伝えようとするものだそうです。

開催期間 2008年4月15日(火)〜7月6日(日)
会場:江戸東京博物館 6階常設展示室/5階企画展示室

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先程までFMでドゥービー・ブラザーズの特集をやっていたので、今日はそれに乗っかります。

「ドゥービーと言えば、トム・ジョンストン(G&Vo)が在籍している時の“豪快なアメリカン・ロック”と、'70年代後半のマイケル・マクドナルド(Key&Vo)が加入してからの“緻密な大人のポップ・サウンドの二つの顔があると言えるのぉ。どちらも味わい深く高い評価を受けているので、自分はどちらが好きか?あるいは、どちらも好き派か?いろいろアルバムを聴き比べてみることをオススメしますぞ。ちなみに王様は“トム・ジョンストン派”じゃ〜!」

「それでは最後に、王様流ドゥービー曲名直訳で締めくくりますぞ。『長い電車、走る(LONG TRAIN RUNNIN')』、『中華街(CHINA GROVE)』、『神様は御機嫌(JESUS IS JUST ALRIGHT)』、『黒水=ミシシッピ川(BLACK WATER)』、『隊長と私(CAPTAIN&ME)』。以上!」

・・・と語る「王様」。彼については別途取り上げてみたいと思いますが、私も王様と同感です。「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」の軽快で華やかなアレンジワークにしびれたものです。とは言え、今日まで私はメンバーが誰なのか全く興味がありませんでした。調べると、オリジナルメンバーで最後までいたのがパトリック・シモンズ(Guitar, Vocals)だけなんですね。

ドゥービー・ブラザーズ (The Doobie Brothers)は「アメリカのバンド。1970年代に人気を博したウエストコースト・ロックを代表するバンドのひとつ。1970年にトム・ジョンストン(Guitar, Vocals)を中心に結成、翌1971年にデビュー。1972年に『リッスン・トゥ・ザ・ミュージック』のヒットを放つ。この後のメンバーチェンジでリズムセクションはファンキーさを増し、サザン・ロック色の濃い音楽性を確立する」。

「1973年のアルバム『キャプテン・アンド・ミー』からは『ロング・トレイン・ランニング』、『チャイナ・グローブ』、1974年のアルバム『ドゥービー天国』からは『ブラック・ウォーター』といったヒット曲が生まれ、一躍アメリカン・ロックを代表する人気バンドの一つとなった」。

「1974年、スティーリー・ダンを脱退したジェフ・バクスター(Guitar)が加入する。ところが、その頃からバンドの顔であるジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介で加入したのが、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルド(Keyboards, Vocals)だった」。

「マクドナルドはその個性的な歌声とともに、バンドに洗練されたAORの強い影響をもたらす。それまで野性味あふれる快活なギターロックを奏でていたドゥービーの音楽性は一変した。AOR路線への転向はファンの間で大きく賛否が分かれたが、商業的には大成功を収める」。

「1978年のアルバム『ミニット・バイ・ミニット』とシングルカットされた『ホワット・ア・フール・ビリーブス』はともに全米1位を獲得、その年のグラミー賞でアルバムタイトル曲は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、『ホワット〜』は最優秀楽曲に輝いた」。

「もはやマクドナルドのワンマンバンドとなったドゥービーにかつてのロックバンドの面影はなく、メンバーは次々と脱退。キース・ヌードセン(Drums)、ジョン・マクフィー(Guitar, Vocals)ら一部のメンバーはアメリカに活動の場を移した矢沢永吉のバックミュージシャンを務めるなどしていた。マクドナルドにとってもドゥービーの看板は不要となり、1983年に初期のメンバーが集まって『フェアウェル・ツアー』と銘打ったライブを行なった後、解散した」。

「1987年にチャリティーコンサートのために一時再結成したドゥービーは、1989年に復活作となる『サイクルズ』を発表。初期のロックサウンドを蘇らせた。その後もマクドナルドが参加したライブアルバムを発表するなど、近年はメジャーレーベルからのリリースはないものの地道に活動を続けている。なお2005年2月10日に死去した主要メンバーのキース・ヌードセンら、かつてバンドに在籍したメンバーのうち四人がすでに死去している」。(ウィキペディア)

ドゥービー・ブラザーズを語る上で忘れてはならないのがテッド・テンプルマンというプロデューサーです。彼については、「M_FACTORY」さんによる非公式ファンサイトから引用します。

「1964〜65年にThe Tikisとして活動し66年にレニー・ワロンカーに見い出されるが、レニーのプロデュースによりかつてのビート・サウンドはヴォーカル・グループのように変化した。このサウンドの変化のためバンド名をHarpers Bizarreと変えデビューし、1969年までに59th Street Bridge Song(Feelin' Groovy)等のヒットを放った」。

「Harpers Bizarre解散後、ワーナーのスタッフとして迎えられた彼はレニーと共にドウービー・ブラザーズを見い出し共同でファーストアルバムをプロデュースした。以降Farewell Tourまでのアルバムをフル・プロデュース、Cyclesの数曲も担当した。プロデュースに加え曲によってはバック・ヴォーカルおよびパーカッションでもレコーディングに参加している。またメンバーのソロ、他のアーティストでは、Little Feet、Nicolette Larson、Van Halen等の数多くのアーティストをプロデュースしてきている」。

「ドウービーズ・デビューからの一連のヒット・アルバムを担当してきた名プロデューサー。彼は決してオーバー・プロデュースはせず、第一にメンバーの意見を尊重しバンドのカラーを崩さずまとめ上げていった。彼とそして名エンジニアのドン・ランディー、後期のエンジニアであるジム・イサクソン、そしてメンバーが一体となり素晴らしい作品を生み出してきた。ドウービーズのメンバーにとってはもう1人のドウービー、まさに信頼のおけるプロデューサーと言える。いつかまた彼のフル・プロデュースでのドウービーズの新作を期待したいと願う」。(http://www1.nisiq.net/~doobies/)

*参考:日本の「ABロックス」というバンドによる「CHINA GROVE」(http://youtube.com/watch?v=HHcSvT3vc_k)

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1971年の「ゲット・イット・オン」、これが、私が彼らのことを知ったきっかけでした。友人が既にはまっていて、LP「電気の武者」を聞かせてくれたのです。特にマーク・ボランが弾いていたギブソンの「フライングV(Flying V)」が衝撃的でした。そのサウンドは、ビートルズのメンバー(特にリンゴ・スター)は、ビートルズの後継者とまで賞賛した程でした。

<T - Rex Get It On>
http://www.youtube.com/watch?v=19IqwU3itFk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=jHkdPMNwbEU&feature=related

「T.REX」(1970〜1977)は、1968年、マーク・ボランとスティーヴ・ペレグリン・トゥックの2人が結成したアコースティック・デュオの「ティラノサウルス・レックス」がその前身。スティーヴが脱退した後、ミッキー・フィンと組んで2人で2枚アルバムを出します。その後、バックにベース(スティーヴ・カーリー)とドラムス(ビル・レジェンド)を迎え、UKチャート1位となる「電気の武者」をリリースしました。

私の敬愛する松岡正剛さんがブログ「千夜千冊」の「第二百十六夜/2001年1月25日」の中で「ロックの伝導者」(ミュージック・ライフ編、1992年/シンコー・ミュージック刊)を取り上げて、マーク・ボランのことについて次ぎのように述べています。松岡さんはミック・ジャガーと同じ歳だそうですが、よっぽどの通でないと、このような文章は書けません。

「マーク・ボランは『電気の武者』である。エレクトリック・ウォーリアーだ。これはマーク・ボランが自分で書いたSFの主人公の名前でもあった。そいつはいつも渋いブギーのために楽器をもった男で、それが彼の心臓に接続されていて、その楽器をひくたびに瞬間的に殺人がおこるというプロットになっている」。

「マーク・ボランはこの伝でゲット・イット・オンをして、つまりはバング・ア・ゴングを鳴動させて、聴く者すべてを皆殺しにしていった。インタビューで答えているのだが、この電気の武者は『自分が経験したことであろうと経験していないことであろうと、すべては経験したことに見える』という性格の持ち主なのである」。

「どうやら少年時代から、読めるもののすべてを読むという活字人間でもあったらしい。だからアメリカをけっして理解しようとはしなかった。アメリカは歴史のリテラシーとは縁遠い。個人が文脈から切り離されている。レッド・ツェッペリンがそうであり、デヴィッド・ボウイがそうであったように、マーク・ボランもイギリスの血と音をたぎらせた言霊妖怪なのである」。

「こういう男は自分で着るものは自分でデザインをする。そしてそれが済めば、マーク・ボランのなんでもが色気に満ちた自動機械人形になる。その変化が衆道のごとくに残忍で、稚児のごとくに優美なのである」。

「おそらくマーク・ボランのような男はもう出ない。実際にも、マーク・ボランが見えなくなったとき、すべてを席捲していたのはピンク・フロイドだった。すでに『原子心母』や『狂気』でロック心理学の底辺を塗り替えていたが、それがロック症状の全面にまで及んだのは1977年前後のことである。入れ替わるようにマーク・ボランがミニクーパーで樹に激突して1977年9月17日に死んだのだ」。

グラム・ロックの「グラム」とはグラマラスGlamorousの略で、「女性的な魅惑」「幻惑的な魅力」であるとともに「魔法のような」という意味だそうです。マーク・ボランが「ティラノサウルス・レックス」時代、1969年にリリースしたアルバム「ユニコーン(Unicorn)」。ヨーロッパの伝説上の動物である一角獣のことですが、奥田民夫さんはこのアルバムから命名したバンドを結成したんですね。

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「ハードロック」は、レッド・ツェッペリンがそれを生み出し、ディープ・パープルが定型を完成させといわれます。その起源とされるのは、1963年にデビューしたヤードバーズや1966年にデビューしたクリーム、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが挙げらますが、彼らはブルーズとロックを融合し新しいスタイルを呈示してみせたことが画期的なことではありました。

「68年にはジェフ・ベック・グループ(第一期)、レッド・ツェッペリンがデビューし世界に衝撃を与える。70年には後にヘヴィメタルの教祖的存在となるブラック・サバスがデビュー。ディープ・パープルがハードロックに転向。73年には世界初の本格的女性ロッカースージー・クアトロがデビュー。ハードロックが世界を席巻するようになる」。(ウィキペディア)

ジミー・ペイジがロバート・プランと出会ったことがレッド・ツェッペリンの成功の原点でありました。類まれな声を持つロバート・プラントを活かすためのメロディをジミー・ペイジは書き続けました。日本で言えばX JAPANのYOSHIKIとTOSHIの関係に似ています。楽器の大音響とヴォーカルあの激しいシャウトと高音が魅力なのですが、メロディ自体は美しいものです。かつて聖飢魔II のデーモン小暮閣下が、ヘビメタのメロディは美しくなければならないと仰っておりました。

ロバート・プラントについてウィキペディアでは次ぎのように解説しています。

「レッド・ツェッペリンのフロントマンとして、プラントはまさに理想的な人物であった。ジャニス・ジョプリンからハウリン・ウルフ、ウィリー・ディクソンまで歌いこなす広い声域に、ボンゾのへヴィなドラムス、ペイジの大音量ギターにも負けない声量、更に金髪・長身痩躯の恵まれたルックスを併せ持ち、ステージ・パフォーマンスにも華があるプラントは、ペイジの期待した『まったく新しいロックの姿』を彼の思い描いた以上に体現していたと言っても過言ではない。長い金髪を振り乱して歌う姿はロックンロールにおけるフロントマンの概念を変えてしまった」。

私は数年前まで、レッド・ツェッペリンの「レッド」は「RED」だと思っていました。それほど、聞き込んでいなかった訳ですが、当時はかなり大人の音楽だと思っていたんだと思います。このレッド・ツェッペリンのバンド名の由来をウィキペディアから拾っておきます。

「1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のためジェフとジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーン(ドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の風船みたいに急降下だろうぜ、いや、鉛の飛行船(lead zeppelin)かな?」と発言したことによる。『going like lead Zeppelin』はムーンの口癖であったという」。

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