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'70年代ロック

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日本のロックシーンを語る上で「はっぴいえんど」(1969〜1973)「ティン・パン・アレー」(1975〜1977)「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」(1978〜1983、1993、2007)というバンド、ユニット名は欠かすことができません。この三つのバンドの牽引者が細野晴臣さんです。先日NHKで「YMOの再結集」版「ヒューマン・オーディオ・スポンジ(HOS」のライブを見ましたが今も健在ですね。

YMOとしての細野さんしか知らないという若い方も多くなったのではないしょうか?そんな人でも安田成美さんが歌った、1984年の「風の谷のナウシカ」は知っているぞという人は少なくないと思います。この曲は松本隆が作詞、細野晴臣が作曲をしています。これも古いですか?

細野 晴臣(1947年7月9日 - )は「東京都港区生まれのベーシスト、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。立教高等学校(現立教新座高等学校)、立教大学社会学部卒」。

「高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。大学在学中にベースを始め、数多くのバンドを経た1969年、『エイプリル・フール』のベーシストとしてメジャーデビュー。その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂と『はっぴいえんど』を結成し、日本語ロックの礎を築く(本人は当初反対していたという)」。

「1973年の『はっぴいえんど』解散後、ソロ活動と平行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆と『キャラメル・ママ』(のちに『ティン・パン・アレー』と改名)を結成。演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、荒井由実などのプロデュースも行う」。

「シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった坂本龍一と「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成。当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていた」。

「また、YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「\EN」の立ち上げなど個人としても精力的に活動を行う。また、ビデオ・ゲーム『ゼビウス』の音源をダンス・ミュージックにアレンジした『ビデオ・ゲーム・ミュージック』をプロデュース、ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけをつくった」。

「ちなみに細野晴臣の祖父である細野正文は、日本人で唯一豪華客船のタイタニック号に乗船し、事故に遭遇して生還している。人種的偏見も手伝い一部では『卑怯な日本人』とのレッテルを貼られてしまったが、卑怯な振る舞いをして生還したというような事実は全くなく、濡れ衣であった。このため細野自身もYMOのワールドツアーなどの際に祖父の名誉回復に努力している」。(ウィキペディア)

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昨年の今日、ピンク・フロイド設立メンバーの一人であるシド・バレットが、糖尿病に起因する合併症のため死去しました。本名、ロジャー・キース・バレット( 1946年1月6日 - 2006年7月7日)、享年60歳。

1967年にリリースしたファースト・アルバム「夜明けの口笛吹き」。ピンク・フロイドがこのアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を制作していました。ピンク・フロイドのレコーディングの様子を窺いに来たポール・マッカートニーは彼らの音楽を耳にし、「彼らにはノックアウトされた」と語ったという逸話があります。

ピンク・フロイドは、1965年、建築学校(リージェント・ストリート・ポリテクニック、現ウェストミンスター大学)の同級生であったロジャー・ウォーターズ(B・Vo)、リチャード・ライト(Kd・Vo)、ニック・メイスン(Dr)の3人に、ウォーターズの旧友であるシド・バレット(G・Vo)が加わり、ロンドンで結成されました。

バンド名の由来はバレットがピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルという二人のブルース・ミュージシャンから拝借したもので、最終的にマネージャーの進言によりピンク・フロイドというバンド名に落ち着いたものだそうです。

しかし、デビュー後にバンドのリーダー的存在だったバレットは重度の麻薬中毒に陥り、活動に支障をきたし始めます。翌1968年には、彼を補う形でデヴィッド・ギルモア(G・Vo)が加わり、セカンド・アルバム『神秘』をリリースしますが、このアルバムのレコーディング中にバレットは正式に脱退することになりました。実質一年の活動でした。

バレットはもともと画家志望でロンドン芸術大学のキャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツに進学しますが、音楽にも興味を持ち、同郷の友人であるロジャー・ウォーターズらと共にピンク・フロイドの母体となるバンド(シグマ6やメガデス)を結成します。バンドの中で作詞作曲・ギター・ヴォーカルを担当して、グループの牽引者でした。

その端正な容姿と斬新な音楽性で、1967年にバンドのメジャー・デビューを成功へと導きました。しかし、間もなくストレスや麻薬(LSD)中毒が原因で精神のバランスを崩し、録音中や公演中にも奇行を繰り返すなど、音楽活動に支障をきたし始めたのです。

その後、1970年にピンク・フロイドのメンバー達の協力も得て、ソロ・アルバム『帽子が笑う…不気味に』と『その名はバレット』の2枚を発表します。これらの作品から、彼は最初のサイケデリック・フォークのアーティストと見なされますが、いずれの作品も正常な精神状態で録音されたものではなく、危機的な雰囲気を漂わせるものです。

新作の製作も計画されましたが、精神の荒廃はそれを許さない所まで進行していました。1972年にスターズとして数回のライヴを行いますが、これが、シドが公衆の面前に現れた最後になりました。以後、精神病に苦しみながら、かつての作品からの印税収入と生活援助を糧に隠居生活を送ります。

死後、実姉がシドのケンブリッジでの生活について、シドの精神病は過度に強調されていると、サンデー・タイムズのインタヴューに答えています。また、美術史に関する研究書の執筆に傾注していたことや、地元住民と大変友好的な関係を築いていたことも語られています。

看護師である彼女は、シドには幼少時からアスペルガー症候群の兆候があったとしています。さらに、五感が未分化である共感覚の持ち主であったことも語られています。

「アスペルガー症候群」は発達障害の一種であり、一般的には「知的障害がない自閉症」とされています。「対人関係の障害や、他者の気持ちの推測力、すなわち心の理論の障害が特徴とされる。特定の分野への強いこだわりや、運動機能の軽度な障害も見られる。しかし、カナータイプ(低機能)自閉症に見られるような言語障害、知的障害は比較的少ない」ということです。

アスペルガー症候群であるとされた人の中には次の著名人がいます。

アイザック・ニュートン(自然哲学者・数学者)、アルバート・アインシュタイン(物理学者)、トーマス・ジェファーソン(政治家)、グレン・グールド(ピアニスト)、ジェレミ・ベンサム(経済学者)、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(哲学者)、バーノン・スミス(経済学者)
余談。ジェレミ・ベンサムは、B'zの松本孝弘に非常に似ていることが彼のファン(少数)から指摘されているそうです。もちろん風貌が、です。

*本文はウィキペディアの記事を筆者が編集したものです。

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7月1日、ダイアナ妃の誕生日にあたるこの日、没後10年追悼コンサートがテロ事件が相次ぐ英国内で厳戒態勢の中で行われました。ダイアナ妃に限らず、エリザベス女王の誕生日を祝う催しでロックコンサートが行われることは少なくありません。参加ミュージュシャンを観るにつけ、個人的に実感するのは、1960〜1970年代のイギリスのバンドを聞いて育ったんだなぁということです。

一方、アメリカのバンドはどうだったかといえばサザンロック系のクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ドゥービー・ブラザーズ、イーグルスやクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、シカゴ、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、グランド・ファンク・レイルロードなど70年代以降のバンドに影響を受けましたが、この程度です。

基本的に当時から浅く、狭くというのが私の守備範囲でした。特にビートルスを聴いていれば、その他のバンドは亜流だと思っていたようです。そんな折の80年代早々にフランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」(1979年)を観て、ベトナム戦争を象徴する兵器のナパーム弾で全てを焼き払うかのような映像シーンで流れた曲に衝撃を受けました。それがドアーズの「The End」でした。

ドアーズ(The Doors)は、「アメリカのロックバンド。ジム・モリスン(リード・ボーカル)、レイ・マンザレク(オルガン、キーボード)、ロビー・クリーガー(ギター)およびジョン・デンスモア(ドラム)の四人で1965年から1970年代初めまで活動した。バンドはジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドと並び1967年におけるアメリカのトップ・バンドの一つとなった」。

「オリバー・ストーン監督による1991年の映画『ドアーズ』(原題:The Doors)では、モリスンを演じたヴァル・キルマーの演技が評判となった。しかしながら映画は事実と異なる描写が多かった。また、メンバーはストーンがモリスン像を自制の効かない精神病患者のように描いたことに対し不快感を表した」。

バンドはオルダス・ハックスレーが18世紀の詩人ウィリアム・ブレークの詩の一節から取った書のタイトル『知覚の扉』を元に、ドアーズという名を付けた。

もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える。
If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.

ジム・モリソン(Jim Morrison, 本名 James Douglas Morrison, 1943年12月8日 - 1971年7月3日)は、「1960年代に活動したアメリカのロックバンド・ドアーズのボーカル、詩人。バンドの大部分の楽曲の作詞をし、またそれとは別に、数冊の詩集を発表した。ジェームズ・ダグラス・モリソンはアメリカ海軍の提督ジョージ・スティーヴン・モリソンおよびクララ・クラーク・モリソン夫妻の息子としてフロリダ州メルボルンで生まれた」。

「一家は父の職業柄、転居を重ねジムはそのため家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後フロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する。UCLAで彼はレイ・マンザレクに出会い、彼に自作の詩を読んで聞かせた」。

「マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。ジムはレイと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを録音する。リックがバンドを辞め、同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加してザ・ドアーズのラインナップが完成した」。

「彼は自らを「ミスター・モジョ・ライジン Mr. Mojo Risin'」とした。それは「ジム・モリソン Jim Morrison」のアナグラムである。そしてそれは彼の最後のアルバムに収録されている『L.A.ウーマン』のリフレインに用いられた。さらに彼は『トカゲの王 The Lizard King』と呼ばれた。それはアルバム『太陽を待ちながら』の中に現れる彼の有名な叙事詩「ザ・セレブレーション・オブ・ザ・リザード」から来ており、それは1990年代にミュージカルとして上演された」。

「ジム・モリソンは1971年7月3日にパリのアパートでバスタブの中で死体として発見された。多くのファンおよび伝記作家が死因を薬の過剰服用や、アメリカ政府による暗殺の可能性を推測した。モリソンの死はブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスに続く悲劇だった。(偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しており、ロック界におけるひとつのジンクスとなっている。20数年後にニルヴァーナのカート・コバーンも同じ年齢で自殺している。)」(ウィキペディア)

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<I'm Not in Love - 1975>
http://jp.youtube.com/watch?v=CIiWBPdhPH8

「アイム・ノット・イン・ラヴ」は、私のカラオケの数少ない十八番のひとつです。この曲は何度もCMに使われる程の名曲ですが、「10cc」自体を知っている人はそんなに多くはないと思います。この曲は「愛してはいない」と歌い継げることで「愛している」ということを表現する歌詞にも魅力がありますが、なんと言ってもメロディと絶妙のコーラスワークが際立っています。

このコーラスワークは後に、ビリー・ジョエルが「素顔のままで」(Just the way you are)の中で故意にかどうかはわかりませんが、同じようなコーラスをつけています。後述にあるように、この曲をライブで再現することは困難でしょうね。

よく話題になるのはこの「10cc」というバンド名の由来。私は、良く言われている「男性が一回に出す精液の量×4人分が、だいたい『10cc』という事でつけられたと言われている」という説ではなく、一人分相当だと思っていました。

真実は「10cc」の所属レコード会社の社長、ジョナサン・キングが、「こんな夢を見た。ハマースミス・オデオン(またはウェンブリー・スタジアム)のカンバンに『世界で最も偉大なバンド、10cc』と書いてあり、そこで彼は目を覚ました。『これは神のお告げかもしれない』と思った彼が縁起を担ぎ『10cc』と名付けた」ということです。

「10cc(テンシーシー)」は1970年代のイギリスはマンチェスター出身の4人組。1977年に初来日、1983年の解散を挟んで1993、1995年にも来日公演を行っている。現在、バンドとしての活動は休止しているようですが、2005年7月にはオリジナルメンバーの一人のグレアム・グールドマンがバンドを率いて来日公演を行ったそうですね。

「アイム・ノット・イン・ラヴ」;
「70年代不朽の名曲として彼らを代表する曲。日本のCMでもたびたび使用される。1991年にウィル・トゥ・パワーがカヴァーし、こちらもヒットしている。もともとは「架空の映画のサウンドトラック」というコンセプトでリリースされた名盤「オリジナル・サウンドトラック」中の1曲にしか過ぎなかった。しかし、アメリカのFMのDJ達は、こぞって、この曲を流した」。

「これに気を良くしたレコード会社はすぐにシングル・カットをメンバーに要求したが『ライヴであの楽曲のクオリティーを表現出来ない!』として最後までメンバーはシングルカットに難色を示していた。この曲はビルボード・週間シングルチャートで第2位まで上り詰めたが、そのまま3週連続第2位に泣かされた(1975年7月26日付〜8月9日付)」。

「その時、1位を阻んだのは、ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニーの『ザ・ハッスル』、次いでイーグルスの『呪われた夜』、最後に、当時4年ぶりの全米No.1獲得となった、ビー・ジーズの『ジャイヴ・トーキン』と全く異なる3曲によって全米No.1を阻まれた。なお全英No.1にはなっている。バックに流れる幻想的なコーラスはグレアム、ケヴィン、ロルの3人の声をテープ編集により624人分(3人×13音階×16トラック)に増幅して作成された(エリックはミキシングを担当)。またこの曲にはギズモは使用されていない」。(ウィキペディア)

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こんなブログを書きつつも、音楽に対してジャンルやミュージシャンにこだわりつつじっくり聞き込んだことはない。そういった意味でこれまで書いてきた記事は表層的なものでしかない。数年前から創る音楽を楽しみたいと思うようになり、これまでの音楽を改めてどう学んでいくかという手探りを始めた。このような記事を殊勝にも読んでくださる方々には、その点ご了承いただきたい。

さて、今回はフランク・ザッパとトミー・ボーリンというミュージシャンを取り上げてみた。ともにアメリカ人であり、今日がその命日にあたる。

フランク・ザッパは、「60年代、カウンター・カルチャーに反旗を翻したのを始め、生涯、反商業主義/アンチ・ドラッグを貫き、真のカウンターイズムを世に知らしめ、ただの精神主義倒れではない、フィジカルな面でも無類の強さを発揮」した人。

一方のトミー・ボーリンは、第四期ディープ・パープルのギタリストとして活躍しつつも、麻薬の過剰摂取のため25歳でその生涯を閉じた。その死に際しては半年前にリリースした「PRIVATE EYES (1976)」のジャケットに自らの名前を「富墓林」と当て字したことが災いしたのだと音楽情報誌などに書かれた。

更に、このザッパと、まだトミー・ボリングではなくリッチー・ブラックモアがギターを務めていた第二期のディープ・パープルに次のような有名なエピソードがある。

1971年、スイスはモントルーのとあるカジノをアルバム「マシン・ヘッド」の録音場所に選んだ彼ら。ちょうど演奏に来ていたフランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オヴ・インヴェンションの公演中に何者かが天井に向けてフレイヤー・ガンを打ち込み大火事になってしまった。八方塞がりの状況の中、地元市民の協力を得て彼らはなんとホテルの廊下でレコーディングすることに決めたのである。

こごえるような真冬の寒さの中、暗い廊下を少しでも暖かくするように室内灯を赤く塗った。ローリング・ストーンズから借りていたモービル・ユニット(移動録音スタジオ)をホテルの入り口に停め電源コードを窓から垂らしレコーディングが開始された。その大火事をレマン湖の対岸で見ていた光景がそのまま曲になったのが「スモーク・オン・ザ・ウォーター」。

フランク・ヴィンセント・ザッパ(Frank Vincent Zappa, 1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、「アメリカ合衆国の男性音楽家(ロック、ジャズ・フュージョン、現代音楽)。ピエール・ブーレーズに認められた現代音楽作家でありつつ、ロックギタリストとしても評価が高く、エイドリアン・ブリュー、テリー・ボジオ、ローウェル・ジョージ、ジョージ・デューク、スティーヴ・ヴァイ他を輩出したバンドのリーダーでもある。多作で知られ、一生涯で60枚以上のオリジナルアルバムを遺した」。(フリー百科事典)

1966年「マザーズ・オブ・インヴェンション」として『フリーク・アウト!』をリリースして以来、1993年遺作『ザッパ・ザ・イエロー・シャーク』のリリースまで27年間に60枚以上のアルバムを創るというパワーは凄い。年2〜3枚、多いときには2ヶ月サイクルでリリースしている年もある。彼の偉大な足跡については、鈴木創さんの音魂大全(http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/index.html)、ムーンさんのブログ(http://activa.blog33.fc2.com/blog-entry-261.html)に詳細が書かれている。

トミー・ボーリン(Tommy Bolin, 1951年8月1日 - 1976年12月4日)は「本名トーマス・リチャード・ボーリン。アメリカ合衆国アイオワ州で生まれる。12歳からドラムを始めその後ギターを弾き始めるがオルガンも経験していた。いくつかのアマチュア・バンドを経て1968年、ゼファーというバンドのギタリストとしてプロ・デビューを果たす。3年間在籍した後、エナジーというバンドに移る」。

「エナジー脱退後の1973年、フルート奏者のジェレミー・スタイグの紹介によりビリー・コブハムの『スペクトラム』というアルバムに参加し高い評価を得る。その後アメリカの人気バンド、ジェイムス・ギャングにジョー・ウォルシュ(その後、イーグルス)の後任として参加し彼の名前が広く知れ渡るようになる」。

「1975年6月、その高い才能を買われた彼はイギリスの著名なハード・ロックバンド、ディープ・パープルのメンバーであったリッチー・ブラックモアが脱退したためその後任ギタリストとして参加する機会を得る。アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』を発表しワールド・ツアーに向かうが麻薬常習者であった彼の身体はすで侵され始めていた」。

「1976年7月にディープ・パープルは解散。彼は自らのバンドを結成し2枚目のソロ・アルバム『プライベート・アイズ』を発表する。1976年12月4日、ジェフ・ベックのツアーの前座として参加していた矢先フロリダ州マイアミのホテルにて麻薬の過剰摂取 (いわゆるオーバードーズ) により死去した。享年25」。

*ディープ・パープル(Deep Purple, 1968年3月結成
第2期(1969年6月 〜 1973年6月)
ジョン・ロード(Keyboard)、リッチー・ブラックモア(Guitar)、イアン・ペイス(Drums)、ロジャー・グローヴァー(Bass)、イアン・ギラン(,Vocal)

第4期(1975年6月 〜 1976年7月)
ジョン・ロード、トミー・ボーリン(Guitar&Chorus)、イアン・ペイス、グレン・ヒューズ(Bass&Chorus)、デヴィッド・カヴァーディル(Vocal)

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