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'70年代ロック

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1970年初頭、日本語によるロックの是非を論じた「日本語ロック論争(別称に「はっぴいえんど論争)」なるものがあった。『新宿プレイマップ』1970年10月号、『ニュー・ミュージック・マガジン』1971年5月号の座談会「日本のロック情況はどこまで来たか」が発端。座談会参加者は以下の8人。

中村とうよう 内田裕也 ミッキー・カーチス 大滝詠一 松本隆 福田一郎 小倉エージ 折田育造

「この日本語ロック論争は、60年代末頃からニューロックという言葉が流行しており、つまりニューロック=新しいロック、これからのロックは、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが議論された。そのなかで「日本のこれからのロックは日本語で歌うべき」とする人々が、はっぴいえんどをニューロックの創始として支持する」。

「これがのちの再評価のなかで『すべての日本語のロックの創始ははっぴいえんど』という誤った見解が定着してしまったのである。実際にはザ・スパイダースがかまやつひろしのオリジナル曲に於いて『日本人の作曲による日本語のロックンロール』」(いわゆる「ニューロック」と言われるものとは別の方向性であることに注意)を展開し一応の成功を見ていたが、旧態の興業の世界から登場した出自故ここで言う『日本語ロック』論議の中では黙殺されていた」。

「しかし、スパイダースの直系の日本語ロックンロールと言えるキャロルが登場し商業的な成功を収めると、それまでの論争は影を潜めはじめ、ロックが様々なジャンルに多様化してしまった70年代中期以降で
は日本語ロック論争は無意味とされてきた」。(フリー百科事典)

ビートルズの登場以来、日本にもロックが波及するが、その牽引役を務めたのが、今では脱色ロン毛の「ロックよろしく」としか言わない変な爺さん内田裕也。

内田 裕也(本名:内田雄也、1939年11月17日 - )は「日本のミュージシャン(ロックンローラー)、俳優である。兵庫県西宮市出身。1959年に日劇「ウェスタン・カーニバル」にてデビュー。当時隆盛を誇っていたグループ・サウンズ・「内田裕也とタイガース」での活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活躍。以降、映画などへの出演・監督も行う。映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll。“ロッケンロール”、もしくは“ロケンロー”とも記述)」

「1960年代後半、ベンチャーズやビートルズの影響で日本にグループサウンズブームが起こると、自らもロック色を強めた活動に転換。またザ・タイガース(沢田研二などが所属)をスカウトし渡辺プロに所属させるなど、芸能界の裏面で有形無形の活動を行い、広く人脈を築く」。

「オノ・ヨーコから『マリファナ吸って、酒飲んで、女とばっか。そんな事が本物のロックだと思ったら大間違いだ』と説教され、『あんたたちが俺たちに教えて来たことじゃないか』とクソーッと思うものの、それがきっかけで映画を作るようになったとインタビューで語っている」。

「1973年より、年越しロックイベントニューイヤー・ロック・フェスティバルを毎年開催。日本のみならず、2004年から上海、2005年よりソウルと現在では三カ国で同時開催されている。安岡力也、ジョー山中、桑名正博、シーナ・アンド・ザ・ロケッツ、宇崎竜童、白竜、本木雅弘などがほぼ毎年参加しているほか、ビートたけし、原田芳雄、沢田研二が準レビュラー。過去にはRCサクセション、アナーキー、ルースターズ、PANTA、BOφWY、スターリンなどが参加したこともある」。

「短気な性格でも有名で、リハーサルで機材へクレームをつけるレイ・チャールズを殴ったり、ルー・リードに「日本人をナメるな」と啖呵を切ったり、「鏡に映った自分の顔が笑っていた」のが腹が立って鏡張りのホテルの部屋を破壊して拳を血まみれにするなど、エピソードには事欠かない」。(フリー百科事典)

とにかく人生がロック。変な爺さんだが、熱い。日本で真のロッカーといえば、内田裕也しか思い浮かばない。

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70年代を代表するロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマー「ボンゾ」。彼は32歳でこの世を去った。彼が亡くなった原因は深酒による吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死だという。なぜそこまで深酒していたのか?

「ボーナムは大変な愛妻家であり、良き父でもあった。余りにも家庭を愛していたが故に家や家族から離れて長いツアーを行うことを嫌っていた。彼はホームシックを紛らすために酒を飲んだが、その量は徐々に増加していた。また彼は重度の飛行機恐怖症でもあり、恐怖を紛らすために深酒をし、より状況は酷くなっていった」。

イギリスで最も大きな音を出すドラマー、ジョン・ヘンリー・ボーナム(John Henry Bonham,1948年5月31日 - 1980年9月25日)。彼のドラミングは、孤独に耐えられないほどの繊細さを紛らわすためのパフォーミングだったのか。彼の生涯をフリー百科事典から辿ってみる。

「ボーナムはウスターシャーのレディッチで生まれた。初めてドラムを学んだのは彼が五歳の時で、コンテナとコーヒー缶で作ったドラムセットを使い、彼のアイドルであったジーン・クルーパやバディ・リッチの様子を真似ていた。彼が本物のドラムセットを買ってもらったのは15歳の時であった」。

「ウィルトン・ハウス公立学校を卒業したボーナムは、建設業を営む父親ジャック・ボーナムの元で働きながら合間にバンドでドラムを叩いていた。1964年に彼は初めてのバンド、テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダースに加わる。その時に後の妻となるパット・フィリップスとキダーミンスターで開かれたダンスパーティで出会っている」。

「さらに彼はバーミンガムのローカルバンド、ザ・ブルー・スター・トリオや『シーズ・ア・モッド』のヒットシングルをリリースしたザ・セネターズなどでドラムを叩いた。ボーナムは様々なバンドで経験を積みながら、ドラムを本業にすることを決意する」。

「二年後、彼はア・ウェイ・オブ・ライフに加入するが、バンドの活動は停止し収入も途絶えがちとなり、別のブルース・バンド、クローリング・キング・スネークに加入する。ボーナムはそこでロバート・プラントと出会う。この期間に彼はイギリスで最も大きな音を出すドラマーとして評判となり、しばしばドラムを打ち破りクラブからは演奏を止めるように頼まれた」。

「1967年、ア・ウェイ・オブ・ライフはボーナムにバンドに戻るよう頼むが、彼はプラントと定期的に連絡を取り合い、結局バンド・オブ・ジョイに参加することを決意する。バンド・オブ・ジョイは多くのデモを録音したが、アルバムをリリースすることはなかった」。

「1968年には、アメリカの歌手ティム・ローズがイギリス・ツアーを行い、バンド・オブ・ジョイを前座に起用した。ティム・ローズは別のツアーのため一ヶ月後に帰国することとなるが、その時ボーナムはローズに正式にバンドに誘われる。また、ジョー・コッカーやクリス・ファーロウもボーナムを自らのツアーバンドに勧誘することを考えていた」。

「ジミー・ペイジが、ヤードバーズの分解後バンドを継続しようとしたとき、ヴォーカリストの第一候補に考えていたのはテリー・リードであった。しかしながらリードはミッキー・モストとすでにソロ・シンガーとしての契約を済ませており、リードはペイジにロバート・プラントを紹介した」。

「ペイジはドラムスにプロコル・ハルムのB・J・ウィルソンや、セッション・ドラマーのクレム・カッティーニ、エインズレー・ダンバーを考えていた。ジンジャー・ベイカーもペイジのリストにあったという噂もある。しかしながら、プラントの紹介で1968年7月に北ロンドンのハムステッドにおけるティム・ローズのステージでドラムを叩くボーナムに会ったペイジとピーター・グラントは、彼をバンドに加えることを即座に決め、契約書にサインをさせた」。

「ニュー・ヤードバーズとして1968年の9月に北欧を回り、その後レッド・ツェッペリンとしての最初のアメリカ・ツアーは12月に始まる。同ツアーでボーナムはバニラ・ファッジのカーマイン・アピスと友人となり、アピスはボーナムにラディックのドラムを紹介する。ボーナムはその経歴を通してラディックのドラムを愛用した」。

「また彼は市販される最も重くて長いスティックを愛用し、彼はそれを『木 "trees"』と呼んだ。彼の特徴的なドラムスタイルは『移民の歌』や『レヴィー・ブレイク』『オーシャン』などで顕著に見られる。『カシミール』や『アウト・オン・タイルズ』では特徴的なリフで彼はクレジットされた」。

「後期のアルバムではファンクやラテンの影響を受けたドラミングも見られた。彼のドラムスタイルは以降のハードロック、ヘビーメタルバンドのドラマーには無論のこと、その他のジャンル、ポピュラー、ソウル、ファンク、ジャズのドラマーにも大きな影響を及ぼし続けている」。

「82年大ヒットしTOTOの代表作となった"Rossana" でジェフ・ポーカロが提示したシャッフルリズム・パターンは、その独自のグルーヴ感から "Toto Shuffle" または"Porcaro Shuffle" と呼ばれたのだが、後年教則ビデオ内でポーカロ自身が『このリズム・パターンはレッド・ツェッペリンの<フール・イン・ザ・レイン>でジョン・ボーナムがプレイしていたものが元アイデアなんだ』と語っている事は、ツェッペリン・ファンの間では案外と知らていない」。

「1980年9月24日、ツェッペリンのアシスタント、レックス・キングはオールド・ハイド・ホテルでボーナムと落ち合い、近く行われるアメリカ・ツアーに向けてのリハーサルのためブライ・スタジオに向かおうとしていた。ボーナムとキングは途中でパブに立ち寄り、ボーナムはシングルの四倍のウォッカ四杯を飲み干し、スタジオに到着してからも酒を飲み続け酔いつぶれてしまった」。

「リハーサル終了後、ウインザーのペイジ宅でパーティが行われたがそこでもボーナムは飲み続け、酔いつぶれてベッドに寝かされた。翌朝ツアー・マネージャーのベンジ・レフェヴレがベッドで死んでいるボーナムを発見した。吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死であった。ジョン・ボーナムは1980年10月10日に彼の農場近くのラショック教区墓地に埋葬された」。

「ボンゾがバンドに加入した折、旧友のジェフ・ベックと会ったペイジは内心得意満面で『新入りのドラマー』の音が入ったテープを聴かせた。果たしてその凄まじいドラミングを聴いたベックは涙を流して悔しがったという」。

「ツアー中の乱暴狼藉、イタズラの武勇伝(?)はメンバー随一である。わけても器物損壊に関しては枚挙に暇がなく、窓からテレビを投棄するのを始め、「部屋が狭いから」壁を壊してつなげる、すべての家具調度を逆さにして接着剤で天井にくっつけるなどして以後出入り禁止になったホテルもあった」。

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元ピンク・フロイドのシド・バレットが先週7日亡くなった。ピンク・フロイドといえば、ロジャー・ウォーターズが先月22日、イスラエル中部でコンサートを開き、同国が建設を進めるパレスチナ側との「分離壁」撤廃を訴えたことも報じられた。

ウォーターズは1990年にも「ザ・ウォール」にちなみ、「ベルリンの壁」跡地で壁崩壊を記念するコンサートを開き、約20万人を動員している。ピンク・フロイドのアルバム「ザ・ウォール」(1979年)の曲「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」は、パレスチナ人の間で歌詞の一部が「占領はいらない。人種差別の壁はいらない」と変えられて、イスラエル政府が強硬に進めるパレスチナ分離壁建設への抵抗歌となっているという。

私にとっての彼らは『Animals』に集約される。このジャケットは「カメラマンと映画人たちが、ヘリウムガスで膨らませた巨大なピンクの豚を飛ばすところを撮影するために、早朝、バターシー・パワー・ステーションに集結した。この豚は、有名な飛行船、ツェッペリンを製作したドイツの会社、Ballon Fabrikによってドイツで製作された」という。

「ロジャー・キース・バレット(Roger Keith Barrett, 1946年1月6日 - 2006年7月7日 )は、シド・バレット(Syd Barrett)の名でよく知られたイギリスの伝説的ロック・ミュージシャン。プログレッシブ・ロック・グループ、ピンク・フロイドの設立メンバーの一人」。

「早い時期に脱退・引退するが、ポール・ウェラーやロビン・ヒッチコックなど数多くのアーティストに大きな影響を与える。ピンク・フロイドの残されたメンバーにとっても、(天才的な才能で自分達を導いてくれたのに、業界や社会に馴染めず、精神を病んで去っていった)バレットの存在自体が、心に重く残り続け、全盛期の彼らの作品が、圧倒的に深いテーマ性を持つ一因となった。2006年7月、糖尿病に起因する合併症のため60歳で死去」。

ピンク・フロイド自体は「1967年、シングル『アーノルド・レーン』でデビューし、セカンド・シングル『シー・エミリー・プレイ』(当初の邦題は『エミリーはプレイガール』)がベスト10入りするヒットを記録する。同年にファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』(当初の邦題は『サイケデリックの新鋭』)をリリース」。

「このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた。ピンク・フロイドのレコーディングの様子を窺いに来たポール・マッカートニーはバンドの音楽を耳にし、『彼らにはノックアウトされた』と語ったという逸話が残っている」。

「2005年7月2日に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント『LIVE 8』では、ウォーターズを含めた全盛期の4人によるラインナップで突如再結成を果たし、復活ライブを披露。演奏そのものは、ややタイトさに欠けブランクを感じさせる内容だったものの、ウォーターズの存在感はそれを埋めて余あるものがあり、同イベントでも屈指の反響を得た」。

「その後しばらくして、ウォーターズを加えた形で再始動するとの報道も流れていたが、デヴィッド・ギルモアはこれをキッパリと否定している」。(以上、フリー百科事典)

34年目の「紫」

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1970年代の後半だったと思うが、夏に地元でロック野外コンサートがあった。野外でのロックライブは、ビートルズのコピーバンド「バッド・ボーズ」、浜田省吾がいた「AIDO」のライブ以来二度目だった思う。そのライブでは、キャロルのギタリスト内海利勝率いる「内海バンド」、「カルメン・マキとOZ」、そして沖縄のバンド「紫」が出演。

我々の目当てはカルメンマキとOZだったが当日は最初から雨天で、内海バンドの演奏
途中から激しくなり、次の出番のカルメンマキとOZの時ライブは一時中断となった。結局彼らの演奏は行われなった。天候が回復して登場したのが当時全く知らなかった紫だった。
そして最初の曲のツインギターの出だしのリフから度肝を抜かされた。

そのときは知らなかったが、その曲はディープ・パープルの「バーン」。紫というバンドが頭に焼きついた日だった。「リーダーでキーボーディストのジョージ紫が双子の城間兄弟とともに、72年に結成。原因はマサチューセッツ工科大学在学中に聴いたディープ・パープル、である。それは、大学を中退させるほどの衝撃を与えた。その後、下地行男(g)、比嘉清正、宮永英一(ds)が加わり75年に「紫」でデビュー。そのまんまのバンドだった。

1972年の今日、沖縄の施政権が日本に返還され、日本へ復帰された。第二次大戦の敗北から34年前まで沖縄はアメリカであった。いや、最近の普天間基地移転が示すように未だアメリカなのかもしれない。沖縄へは十数回訪れているが、国道57号線沿いに走らせる車の上空を軍用機が低空で飛ぶのを見るにつけ、そう感じる。

その後、オリジナルメンバーでは1983年と1997年に再結成してライヴアルバムを発表している紫。現在、「New紫」の名前でジョージ紫と宮永英一を中心に活動中。沖縄市にあるライヴハウス「7TH HEAVEN」(TEL. 098-929-3309)で定期的にライヴを行っているという。

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