「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

THE BEATLES

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私とビートルズの出会いは、1971年、ケンウッドのステレオTRIOのCM(記憶違いかもしれませんが)に登場した「レット・イット・ビー」だったと記憶しています。そのわずかのOn Airで衝撃を受け、アルバムを購入し、一気にのめり込むことに。しかし、このバンドは既に解散しており、彼らの音楽を遡っていくことになるわけですが、彼らのアルバムを買っては「えっ、この曲もビートルズ?」という連続でした。

そんな訳で、最初ビートルズのプロデューサーといえば、私の場合、ジョージ・マーチンではなく、フィル・スペクターだったんですね。しかしながら、彼について、顔を見たのはつい最近。映画「ミスター・アーサー」などに主演したダドリー・ムーアに似ているという印象です。「レット・イット・ビー」(1970)以来、ジョンの「イマジン」(1971)、ジョージの「オール・シングス・マスト・パス」(1970)、「バングラデシュ・コンサート」(1971)などを手がけているんですね。

<ミュージシャンが初めて貧困問題に立ち向かった、ロック史上に輝く1971年の伝説のコンサート>
2008/11/29

〜スペクターは早い時期からビートルズと親交があり、1970年発表のアルバム『レット・イット・ビー』のプロデュースを手がけた。ビートルズ解散寸前の散漫なセッション録音集を一作品として短期間のうちにまとめ上げた手腕にジョン・レノンとジョージ・ハリスンは感銘を受け、それぞれのソロ・アルバムでスペクターをプロデューサーとして起用している。しかしポール・マッカートニーはスペクターの制作をオーヴァー・プロデュースとして非常に不満を持っていた(特にスペクターが「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にストリングスやコーラスをオーヴァー・ダブしたことに対し激怒したと言われる。)。〜(ウィキペディア)

今日はクリスマスなんで、できればどちらかと言えば「レット・イット・ビー」を取り上げたかったのですが、そんな訳で、アメリカ合衆国と日本ではビートルズのラスト・シングルとなった、その「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の聴き比べを。

<The Long And Winding Road- The Beatles + lyrics>(フィル・スペクターヴァージョン)
http://jp.youtube.com/watch?v=z6ZegjrEIGQ&feature=related

<The Beatles - The Long and Winding Road>(オリジナルヴァージョン)
http://jp.youtube.com/watch?v=COMsKPeWAsw

この曲について、中山康樹さんが名著「これがビートルズだ」(講談社現代新書)で次のように書いています。

〜ポールが怒ったのは当然だ。勝手にいじくりまわされたあげく、自分が描いていたイメージとまったく正反対のアレンジにされてしまったのだ。ポールはこの曲をシンプルに料理をしようと考えていた、イメージとしてはピアノの弾き語りだ。だが紆余曲折だったこともあるとはいえ、その曲はあられもない姿となって返ってきた。それが、これだ。〜

また、「レット・イット・ビー」についても次のように書いています。

〜極論すれば、これはビートルズの音楽でもサウンドでもない。いわば“ポール・マッカートニーとその楽団”の音楽であり、サウンドだ。おそらくスペクターはこの曲を“曲”としてしか捉えていない、そこに“ビートルズの”という意識はほとんどないように映る。当然だろう。スペクターとはそういうタイプのプロデューサーであり、ミュージシャンは自分(つまりはスペクター自身)を表現する素材にすぎない。〜

いかがでしょうか?「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、十数年前に会社のメンバーの結婚披露パーティで弾き語りで歌ったことがあります。個人的には、耳に馴染んでいるということもあるのでしょうが、私はスペクターヴァージョンに何の違和感も感じませんし、確かに“ポール・マッカートニーとその楽団”と言われればその通りですが、原曲をここまで換骨奪胎したスペクターの手腕を少しは認めてもいいと思うのです。

ビートルズの解散後の活動を見ると、スペクターの手腕にジョン・レノンとジョージ・ハリスンは感銘を受け、ポール・マッカートニーはオーヴァー・プロデュースとして非常に不満を持ったということがわるような気もします。

また、この曲については、バンドヴァージョンを主張するポールに対し、ストリングスを入れたほうが良いというジョンの間で諍いになり、殴り合いにまでになってジョンがポールを打ちのめして勝ったという話を聞いたことがありますが、これは眉唾ものですね。ちなみに、チューリップ財津和夫さんが、この曲をモチーフにしているのがこの一曲。

<チューリップ - 青春の影>
http://jp.youtube.com/watch?v=myBdO9VhDxo

ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード - Wikipedia

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今日はクリスマス・イブ。日本では特に、恋人のために、到るところでクリスマスソングが奏でられると思いますが、4年目を迎えたこのブログでも過去三年に次のような記事を書いています。

<クリスマスソング>2005/12/5
<世界で最も売れたシングル「ホワイト・クリスマス」(1942年)>2006/12/25
<「クリスマス・キャロルが流れる頃」に「キャロル」の意味を知りました・・・・。>2007/12/17
<「オン・ザ・ビーチ」(夏)と「ドライヴィング・ホーム・フォー・クリスマス」(冬)で季節を奏でる男>2007/12/24
<世界中で一番サンタに訪れてほしい国へのクリスマスソング>2008/12/3

昨日の地元のFMで取り上げていたのが、「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」で一世を風靡したプロデューサー、フィル・スペクターの1963年のアルバム「ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター(A Christmas Gift for You from Phil Spector)」でした。そんな訳で、今日はこのアルバムの中から2曲を取り上げます。

まずは、アルバムのトップに収録されたこの一曲。
<Darlene Love - White Christmas>
http://jp.youtube.com/watch?v=GhQqcm4d9X0

私はこの番組を通して初めて聞きましたが、今でこそそのサウンドに真新しさは感じませんが、このアルバムがリリースされた45年前にリアルタイムの耳で聞いた方には衝撃だったと思います。後に「レット・イット・ビー」のプロデュースを手がけることになるザ・ビートルズのデビューが1962年。ザ・ビーチ・ボーイズがデビューアルバムとなる「サーフィン・サファリ」を発表したのも1962年。そんな時代にこのサウンドですから、当時のリスナーの驚きはどれほどのものだったか推測できます。

このアルバムにはDarlene Love、The Ronettes、The Crystals、Bob B. Soxx & the Blue Jeansといったミュージシャンが起用され、それぞれ数曲を演奏しています。収録曲はクリスマスソングのスタンダードがほとんどですが、唯一のオリジナル曲が次ぎの一曲。リリース当初は注目されませんでしたが、その後、数多くのミュージシャンによってカヴァーされ、映画「グレムリン」(1984年)でも挿入歌になっています。

<Darlene Love - Christmas (Baby please come home)>
http://jp.youtube.com/watch?v=UV8x7H3DD8Y

これまでザ・ビートルズについては数多く記事にしてきましたが、このプロデューサーについては触れていませんでしたので、この機会に今日から三回にわたってフィル・スペクターを取り上げたいと思います。デーブ・スペクターではありませんよ。それでは、メリー・クリスマス。良い一日を。

ガイドライン違反のため、Yahoo! JAPANによって記事が削除されました。

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今日はジョージ・ハリスンの七回忌。法要用語を使うことはいかがなものかとも思いますが、彼がインド音楽への傾倒し、ヒンドゥー教に興味を持ち、その遺体は荼毘に付され、ガンジス川に散骨されたといいますから、あながち間違ってはいないでしょう。ビートルズのメンバーの中でも、私はジョージ・ハリスンに最も関心があり、これまでこのブログでも、次ぎようのよな記事を書いてきました。

<「ヒア・カムズ・サン」に思う>(2005/12/3付記事)
<哀愁のジョージ・ハリスン>(2006/2/25付記事)
<「I've Got My Mind Set On You」と「ジョージ・ハリスン」>(2006/3/12付記事)
<「最も長い間ヒットを飛ばし続けた男」ジョージ・ハリスン>(2006/12/1付記事)
<25歳のジョージ・ハリスンの覚醒〜「SOMETHING」を聴きながら〜>(2007/11/29付記事)
<「Layla」と呼ばれたファッション・モデル、パティ・ボイド>(2007/11/30付記事)

今週、ジョン・レジェンドのアフリカ貧困問題への取り組みからボノらによる支援運動、そして昨日、ポール・マッカートニーとジョン・レノンが1972年に作った曲、「アイルランドに平和を」(Give Ireland Back to the Irish)と「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」(The Luck Of The Irish)を取り上げました。こうしたミュージシャンによる途上国の支援活動は、若い方にとっては、ボブ・ゲルドフが発起人となった1984年のイギリスとアイルランドのロック、ポップス界のスーパースターが集まって結成されたチャリティー・プロジェクト「バンド・エイド(Band Aid)」。それに続く、1985年の「USAフォー・アフリカ」さえリアルタイムの出来事ではないでしょうね。

しかし、これらのミュージシャンたちの先駆けとなり、難民救済の手を差し伸べたのが、ジョージ・ハリスンでした。1971年8月1日、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)が開催されました。リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセル等が参加したイベントは大成功を収め20世紀最大のロック・イベントとも称され、その模様を収めたライヴ盤は1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いています。

バングラデシュ・コンサート(1971)
http://rock-cd.info/history/1971george.html

ビートルズの第二次世代である私にとって、当時、このコンサートのこうした意義の大きさより、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スター、それにエリック・クラプトンが同じステージに立ち、しかも「While My Guitar Gently Weeps」を演奏するする姿に興奮していたことを思い起こします。いずれにせよ、ジョージ・ハリりスンが28歳で成し遂げたこのプロジェクトは、内容や形こそ変えてはいるものの、多くの人々に受け継がれているのですね。

<George Harrison - Bangladesh (1971)>
http://jp.youtube.com/watch?v=qZBP9Iev16I

<While My Guitar Gently Weeps - George Harrison>
http://jp.youtube.com/watch?v=T7qpfGVUd8c&feature=related

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昨日、インドで死者100人以上を出した西部ムンバイでの同時テロが報じられました。低カースト層、キリスト教徒などに対する公的雇用での優遇措置が取られ、インド政治へのイスラム教徒の高まる不満。イスラム教徒は、約12億人の全人口の約13%を占めているにもかかわらず、ほかのマイノリティー(少数派)と同等に扱われるため、優遇措置の恩恵を与えられていないという反発が火種に。

9・11以来、テロが文明の衝突になりかねない昨今ですが、テロはもともと国内問題として生じるものでした。9・11以前、テロといえば、イギリスにおけるアイルランド紛争でのIRAが注目されていました。1969年の創設以来、アイルランド共和国軍暫定派 (Provisional Irish Republican Army)は、自身の存在目的をアイルランド全島を統治する単一統治国家としての「統一アイルランド」建国であると宣言しており、これは武装闘争によってのみ解決されると主張していたとされます。

しかし、1990年代になり北アイルランド紛争の政治的解決が進められるようになったことを受け、2005年7月28日にIRA軍事協議会から全面的な武装解除と平和的手段への転換が発表されました。そして、独立時の経緯によりアイルランド島の北東部北アイルランド6州は今もイギリスの統治下にあるものの、2005年の英エコノミスト誌の調査では最も住みやすい国に選出されているといいます。

そもそも、私たちがイギリスと簡単に呼ぶこの国は、ちょっと複雑です。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)いわゆるイギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成されている、イギリス連邦王国の中の一国なんですね。

このイギリス連邦王国(Commonwealth realm)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(英国)の王座にある者を自国の国王として戴く国家形式、また該当する16の国家を指していて、いずれも国家共同体(英連邦)に属するといいます。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、バハマ、ジャマイカなどの国家が含まれます。

「イギリス」という言葉自体、最早日本語でしかないんですね。安土桃山時代の南蛮貿易を通してイングランドを表すオランダ語のEngels(エンゲルス)またはポルトガル語のInglês(イングレス)の名称が日本に伝わり、それが訛って「エゲレス」または「イギリス」という読みと「英吉利」という当字が用いられるようになったそうです。はイングランド、スコットランド、ウェールズを含む場合が「グレート・ブリテン」、これにさらに北アイルランドが加える場合を「ユナイテッド・キングダム」。UKサウンドなどと簡単に言っていますが、実は厳密ば言い方なんですね。

前置きが長くなりましたが、今日取り上げるのは、昨日の続きでもあるボノ率いるU2の故郷でのあるアイルランドです。この北部を除くアイルランドはアイルランド島にある英連邦王国には含まれていない独立国です。1922年 アイルランド自由国が成立し、イギリスの自治領に。ただし、北部アルスター地方の6州(北アイルランド)はイギリスに留まったことによりアイルランド内戦へと発展しました。

冒頭で述べたIRAとUKの間で起こったアイルランド紛争が激化し、1972年1月30日に北アイルランドのロンドンデリー市で起きたのが、市民権行進に参加した非武装の13人の市民を英国軍が射殺した、いわゆる「血の日曜日」と呼ばれる事件が起きました。

この事件にインスパイアされて元ビートルズのアイルランド系のポール・マッカートニーとジョン・レノンが1972年に作った曲が、ポールとWingsの「アイルランドに平和を」(Give Ireland Back to the Irish)とジョンとヨーコの「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」(The Luck Of The Irish)ですね。ジョンにはさらに「血まみれの日曜日」(Sunday Bloody Sunday)、U2に同名の「Sunday Bloody Sunday」(アルバムWAR、1983年)がありますが、ここでは割愛します。

この二曲は、ウディ・ガスリー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどに代表される、いわゆるプロテストソングですが、ビートルズ解散後愛と平和を直截的に歌ったジョンに比べると、ポールがこうした曲を書いたのは希少ですし、当時イギリスではBBCをはじめ、多くのメディアで放送禁止処分を受けています。テロ行為は断じなければなりませんが、テロという手法を取るにいたる当事者の背景とプロセスに目を向けることが大切だと思えます。


<Paul McCartney - Give Ireland back to the Irish>
http://jp.youtube.com/watch?v=kaO4XeHhwo8&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=fZcxnHDEmDw&feature=related

<John Lennon- "Luck of the Irish">
http://jp.youtube.com/watch?v=bVp7lkH10Gc&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=Kpgataezz8M&feature=related

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