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どんな世界にも「生みの親」と「育ての親」というメンターがいます。そして、ビジネスの世界では一般的には「育ての親」にスポットライトが当てられます。ロック史上最大のエポックであったビートルズの誕生とその活躍において、そのプロデューサーとしてほぼ全楽曲に関わったのがジョージ・マーティンですが、彼がいなかったらこのバンドがどうなっていたかは言わずもがな、ですね。
「ビートルズ」という彼らのソングライティング能力を、その録音テクニック、アレンジ・センスを駆使し多彩な楽曲に仕立てた功績は、ロック史の新たな緞帳を引いたこのジョージ・マーティンにおいてしかありません。
もともとロイ・オービソン調のバラードだった「プリーズ・プリーズ・ミー」のテンポを速めるよう進言したのも、キーもテンポも異なる2つの曲を「つなげてくれ」というジョン・レノンの無理難題に応えて「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」という稀代の名曲を仕立て上げたのも彼だったといいます。
他にも「イエスタデイ」「エリナ・リグビー」でのストリングス導入や、プレイヤーとしてもメンバーも弾けない高度なテクニックを要するパートを弾きこなしたりと、ビートル・サウンドに対する貢献度は際立っています。また、テープを切り刻んでの編集、テープの逆回転などスタジオ機材の限界を超えたアイデアを絞り出し、レコーディング・テクノロジーを飛躍的に向上させたのもこのジョージ・マーティンでした。
今日で82歳の誕生日を迎える彼に敬意を表し、その生涯を辿っておきます。
サー・ジョージ・ヘンリー・マーティン CBE(Sir George Henry Martin CBE, 1926年1月3日 - )は、「英国の世界で最も有名な音楽プロデューサーの一人。ビートルズのほとんどの作品のプロデューサーを務めたことから"5人目のビートルズ"ともいわれる。音楽界への貢献から、1996年にナイトの称号を与えられている」。
「ロンドン生まれ。ギルドホール音楽院でクラシックの基礎を学んだ後、1950年にEMIへ入社。1955年に傘下レーベルの一つであったパーロフォンのマネージャーとなり、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品などコメディ色の強いレコードの制作を多く手がけ実績を積んだ。この頃の逸話として、『戦場にかける橋」のパロディ作品を作った際、収録曲の『クワイ河のマーチ』を、会社上層部からのクレームを受け、既に録音し終えていた曲中の『クワイ(Kwai)」というフレーズから『K』の部分だけ削除して『ワイ河のマーチ」に作り直したというエピソードがある」。
「マーティンとビートルズとの出会いであるが、ビートルズは1962年にデッカのオーディションに不合格となったものの、その後にマネージャーのブライアン・エプスタインがジョージ・マーティンへの売り込みに成功、マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請した」。
「同年6月6日、ビートルズをEMIスタジオに呼び、多くの曲を演奏させてビートルズの演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行った。彼のビートルズに対する第一印象は『彼らはだいぶひどかった(They were pretty awful)』というものであったが、彼はビートルズと契約した。それは長きにわたる関係の始まりであった」。
「ちなみに、そのとき緊張していた彼らにマーティンは『何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたが、ジョージ・ハリスンの回答は『あなたのネクタイが気に入らないね!』であった。また、マーティンは、最初のレコーディング時のドラマー、ピート・ベストの演奏が気に入らず、ライブはともかく、少なくともレコーディングには使えないことを指摘した。マーティンのこの指摘が直接的な引き金となってピート・ベストは解雇、あらたにリンゴを加入させるというメンバー再編となった』。
「マーティンの音楽的専門知識は、ビートルズの天賦の才能と達成しようと考えていたサウンドとのギャップを満たすことを助けた。ビートルズの楽曲におけるクラシック的アプローチやオーケストレーション、複雑なサウンド・エフェクトの多くは、マーティンとの共同作業によるものであった。代表的な例として『ペニー・レイン』におけるピッコロ・トランペットのソロがある」。
「『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』ではテンポもキーも違った二つの曲を一つの曲にするという離れ業を行うなど(注意して聞くと開始から1分ちょうどを境にテンポが違っているのが分かる)、マーティンはメンバーからの困難なリクエストに応え、その音楽的な成功に大きく貢献した。自身は『アレンジの際、ポールは音楽的に解り易く説明してくれたので、あとはそれに基づいて譜面を書けばよかったけど、ジョンは抽象的な表現だけで説明してくるので苦労した』と振り返っている」。
「1965年にEMIより独立。その後もジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリック、ポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がける。1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの『キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってはイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となった』。
「1998年、ビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルスと共にプロデュースし、自分の名義で発表。ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオン、ヴァネッサ・メイ、BONNIE PINK、フィル・コリンズ等の豪華メンバーが参加した」。(ウィキペディア)
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