「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

THE BEATLES

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

最期の一曲、自分が臨終を迎えるときに最後に聴くとしたら、私の場合、今のところそれはウィングスの「My Love」にしたいなと思っています。この曲は、1973年にポール・マッカートニー&ウイングスが発表した楽曲です。2枚目のアルバム「レッド・ローズ・スピードウェイ」収録。1972年3〜12月にレコーディングされ、一年後にウイングス4枚目のシングルとして翌1973年3月23日に発売されています。

1971年に活動を開始したウィングスは当初、その評価は低かったようです。この曲はその後紆余曲折しながらも10年余り続くウィングスのメルクマール的なヒットを生みました。過去の3曲が何だったかなと思い出そうとしても、すぐに浮かんで来ないほどです。それは「アイルランドに平和を」(1972年)、「メアリーの子羊」(1972年)、「ハイ・ハイ・ハイ/C・ムーン」(1972年)でした。

ちなみ今日は45年前にビートルズが「ラブ・ミー・ドゥー」でデビューした日です。B面は「P.S.アイ・ラヴ・ユー」でしたね。ビートルズの最初の日に、自分の最期を考えてみるというのも、中年を過ぎたものとしては、なかなか粋じゃないかと思っています。

最期に食べたいもの、観たいもの、会いたい人、といろいろ考えてみるのですが、やはり現実的には、どんな状態にあっても聴覚がしっかりさえしていれば、最期の一品としては音楽が一番身近なんだろうと思います。皆さんにとっての最期の一枚を今選ぶとすれば、それはどんな曲なんでしょうか?

ガイドライン違反のため、Yahoo! JAPANによって記事が削除されました。

イメージ 1

イメージ 2

1952年9月、イギリス・リバプールにあるグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した11歳の少年は、ケンカばかり日々を送っていました。自他共に認める不良少年の彼は1955年のある日、アメリカのロックンロールのスター、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受けます。少年の名はジョン・レノン。

1957年3月、16歳になった彼はまず、6歳の頃からの一番の親友ピート・ショットン(ウォッシュボード)を誘い「ザ・ブラック・ジャックス」を結成します。1週間後、同級生のロッド・デイビス(バンジョー)、ビル・スミス(ティーチェスト・ベース)、エリック・グリフィス(ギター)が加入し、バンド名を学校の名前からとって(クオリーは採石場の意味があり、石=ロックということから)「ザ・クオリーメン/The Quarry Men」に改名しました。同年8月にコリン・ハントン(ドラム)、レン・ギャリー(ティーチェスト・ベース)が加入し、ビル・スミスが抜けました。その後、ピート・ショットンが抜けました。

<「ティーチェスト・ベース」、耳慣れない楽器ですが、茶箱(tea chest)に棒を立てて弦を張って改造した手製のベースだそうですが、イメージはできますね。「ウォッシュボード」は文字通り、洗濯板です。当時イギリスで大流行だったスキッフル音楽をアマチュアバンドがやるには、こういう簡単な生活用品を加工した楽器を使うのが当たり前だったそうです>。

<スキッフル音楽は、アメリカ南部の貧しい白人が洗濯板とベースで演奏したブルースの一種で、50年代後半からイギリスの若者の間で流行ったそうです。代表的なアーティストはスコットランド・グラスゴー出身のロニー・ドネガン(1931年生まれ)という人です>。

そしてその間の同年7月6日、ウールトンという所にあるセントピーターズ教会の野外バザー会場で行ったコンサートで、ジョンの友人アイバン・ボーンが2歳年下の友人を紹介しました。ポール・マッカートニーという名の少年でした。数日後ポールはクオリーメンのメンバーになることを決め、10月にクオリーメンとしての初のステージを踏むことになります。

翌年の1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入し、前後してエリック、レン、ロッドというオリジナルメンバーが脱退します。3月にポールの友人だったジョン・“ダフ”・ロウが、ジェリー・リー・ルイスの「Mean Woman Blues」の出だしの難しいアルペジオ部分が弾けるということで加入することになりました。

1958年9月、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、コリン・ハントン、ジョン・“ダフ”・ロウの5人のメンバーで17シリング6ペンスのお金をかき集め、リバプールの貸しスタジオ「フィリップス・サウンド・レコーディング・サービス」で初レコーディングを行い、1枚の78回転レコードを自主制作しました。

A面に「That'll Be The Day」(オリジナルは1957年のバディ・ホリーの曲)、B面に「In Spite Of All The Danger」(ポールが書いた曲)が収録されました。(このレコードは現在ポールが所持。この音源は1995年にアルバム「ザ・ビートルズ・アンソロジー1」の収録曲としてリリース)

レコーディング後すぐにジョン・“ダフ”・ロウが抜け、ジョン、ポール、ジョージ、コリン・ハントンの4人で活動し、1959年1月にはコリン・ハントンが脱退します。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」と名乗るようになりました。その後ジョンのアートカレッジの友人の画家スチュアート・サトクリフがベーシストとして参加、バンド名を「シルバー・ビートルズ」としました。

<スチュアートの恋人でドイツ人の女性写真家アストリッド・キルヒヘルは、ビートルズのセカンドアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」で使用された通称「ハーフ・シャドウ」の手法を編み出しました。また、ビートルズのアルバム「リボルバー」のジャケットデザインを手がけたクラウス・フォアマンはアストリッドの元恋人でした。さらに、初期ビートルズの象徴のひとつとも言えるマッシュルームカットはアストリッドがスチュアートに施したのが始まりと言われています。スチュアートにまつわるこの辺の出来事は1994年に「バック・ビート」(イアン・ソフトリー監督)で映画化されています>

コリン・ハントン脱退後ドラマーが決まらず、ケン・ブラウン、トミー・ムーア、ノーマン・チャップマンなどメンバーが頻繁に入れ替わりましたが、1960年8月、「カスバ・コーヒー・クラブ」の経営者の息子ピート・ベストをドラマーに迎え、ジョン、ポール、ジョージ、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの5人となり、バンド名も「ザ・ビートルズ」となりました。

<グループ名を名づけたのは、ジョン・レノンだと言われています。夢のお告げがあったそうで、神様から「君達の名前はビートルズだ。カブトムシ(BEETLE)ではなく、音(BEAT)のBEATLESだ」と告げられたそうです。信じましょう。>

1960年4月1日、ビートルズは2度目のハンブルク巡業を行います。この巡業後、サトクリフは画家として専念するため正式にビートルズを脱退することになります。このため、ギターを担当していたポール・マッカートニーはベースへコンバートすることになりました。

そして、ビートルズは1962年6月にEMI傘下のレコード・レーベル、「パーロフォン(Parlophone)」とレコーディング契約を結びます。8月にピート・ベストが解雇され、ビートルズの面々とはハンブルグ巡業時に顔見知りであった、『ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ』というバンドのドラマーを務めていたリンゴ・スターが加入することになりました。

<パーロフォン・レコードは当初ジャズ・レーベルとして活動していましたが、その後コメディやナレーション等の企画モノに進出していましたが、このレーベルの専属プロデューサー・エンジニアで、お笑い路線から脱却し他のレーベルのように売れ筋のロック・バンドを擁してひと花咲かせたいと願っていたジョージ・マーティンと出会ったのです。>

<「これがビートルズだ」の著者中山康樹氏によれば、ピート・ベストが解雇された理由は次のようなものです。1962年6月6日、ピートのドラムで「ラブ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラブ・ユー」「アスク・ミー・ホワイ」「べサメ・ムーチョ」を録音していますが、このジョージ・マーティンが「ドラマーに難あり」と判断し、他の三人も不満があったからだといいます。以後、彼に代わるドラマーを探すことになります。>

リンゴ・スターが加入したものの、ジョージ・マーティンはまたしても「ドラムに難あり」と考えていました。当時セッション・ドラマーのアンディ・ホワイトとリンゴ・スターのどちらか迷っていたようです。実際、デビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」の「ラブ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラブ・ユー」ではアンディのバージョンが採用されています。

<ビートルズの名曲、「A Hard Day's Night」や「Eight Days A Week」、「Tomorrow Never Knows」などはリンゴの発言をタイトルにしたものだそうですが、どれも文法的には間違いだといいます。それもすべて、リンゴは病弱でまともに通学生活を送れなかったそうなんです。しかし前述の中山氏は「ビートルズに『ハートビート』を刻んだのはリンゴだった」と断言します>。

イギリスの港町リバプールで誕生したビートルズは紆余曲折の末、1962年10月5日に「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューし1970年に解散するまでのたった6年間で「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の核となって世界を席巻しました。そして「世界で最も成功を収めたロック・グループ」となりました。

*本文は「ウィキペディア」などの記事をもとに筆者が編集したものです。

追記;
「1965年、ピート・ショットンがお金が無くて困っている時に、ジョンとジョージがスーパーマーケットを彼の為に買って彼に経営を任せてくれた。後にジョンの個人秘書となり、1967年にはアップル・レコードのマネージャーとなった。アビー・ロード・スタジオでのビートルズのレコーディングに、マラカスやタンバリンで数曲参加している」。

「1997年に元メンバーのピート・ショットン、エリック・グリフィス、ロッド・デイビス、レン・ギャリー、コリン・ハントンが集まり、40年前にジョンとポールが出会った日である7月6日にセントピーターズ・チャーチで再結成ライブを行った」。

「1965年8月27日に、ロサンゼルスのエルヴィスの邸宅でエルヴィスとビートルズは一度きりの会見を果たす。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとエルヴィスのマネージャーであるパーカー大佐の間での極秘の打ち合わせという名目だったが、実際自宅周辺には野次馬が集まった」。

「対面の場では、登場したエルヴィスの姿に見惚れ放心し、無言で固まったままであったメンバーに対し、『そうして僕の顔を見ているだけと言うなら、僕はもう寝る』と言い放ち、席を立ちかけ、周りは一瞬緊張した空気が流れたが、『せっかくジャムセッションでもしようとギターを用意してたのに‥‥』という誘い水の言葉をきっかけに場は和み、即興演奏が始まった」。

「エルヴィスは習いたてのベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏してはいない。そしてその会見に実際に立ち会ったという、記者クリス・ハッチンスによればジョンはエルヴィスのベトナム戦争に賛同する姿勢と、彼のマンネリ気味であった映画を痛烈に批判したということらしい」。

「ジョン・レノンを快く思っていなかったエルヴィス(ジョンがアメリカに住むようになった頃、エルヴィスは大統領にジョンを追放してほしいと手紙を出したとも言われている)は激怒したとされる(ジョン・レノンは1970年代のエルヴィスのプロデュースをやりたかったらしい)。しかし、この証言は当時の他の同席者達がそれぞれ微妙に食い違った証言をしていることから真実であるかは疑わしい」。

「実際、この会見を最も楽しみにしていたのは実はジョン自身であり、知人にはエルヴィスに会ったことを興奮しながら嬉しそうに話している。そしてなにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことである」。(ウィキペディア)

イメージ 1

昨日、移動中の車内でFMからビートルズのカヴァー特集が流れてきました。「涙の乗車券」(カーペンターズ)から始まり、「イン・マイ・ライフ」(クロスビー・スティルス&ナッシュ)、「フォー・ノー・ワン」(リッキー・リー・ジョーンズ)、「ヘルプ」(ディープ・パープル)、「グッド・ナイト」(リンダ・ロンシュタット)、「ドント・レット・ミー・ダウン」(忌野清志郎)、そして最後がポールのセルフカヴァーによる「ロング・アンド・ワイディング・ロード」。

それぞれが名曲ですが、このカヴァーもそれぞれに味があります。特にリンダ・ロンシュタットが唄っている「グッド・ナイト」には癒されました。そして、ディープ・パープルの「HELP」は「サムシング」っぽいアレンジの上にバラード調に仕上げられていて、彼らのプログレとは違った一面を聞かせます。

ポールのセルフカヴァーによる「ロング・アンド・ワィンディング・ロード」は、一般的には評判の良くないフィル・スペクターによるアレンジが個人的にはいいと思います。ビートルズの「LET IT BE NAKED」もしかり。バンドヴァージョンを望んだポールに対し、ジョンはオーケストラを入れることを主張したといいます。ジョンの意見が正しかったと私は思います。

2001年の「I am Sam」(ジェシー・ネルソン監督)に使用されたカヴァーも素晴らしかったですね。こうして見ると、ビートルズの創った音楽はほんとうに20世紀の奇跡だと思えます。「イエスタディ」は全世界で千数百曲のカヴァーがあるといいます。ポールの最後の目標はこの「イエスタディ」を超える曲を書くことだそうです。是非、実現することを願っています。

イメージ 1

イメージ 2

もう20数年前のこと。取引先の方に紹介されて以来はまってしまったのがケントスグループの六本木キャバンクラブでした。ふと思い出し、検索してみると今も健在であることがわかりました。東京時代音楽と没交渉だった私が、唯一通っていた店です。HPを見て、懐かしかったのがポール役の永沼さんがまだ頑張っていることでした。

それは「THE SILVER BEATS」というバンド。「永沼ッカートニー」こと永沼忠明さんです。当時のバンド名は忘れましたが、とにかくビートルズの前期から後期まで完全コピーで聞かせてくれる彼らの実力には脱帽でした。

そのキャバンクラブで4月29日(日・祝)に「ABC Live at CAVERN CLUB!」というライブがあるそうです。バンド名は「ABC」、メンバーは清水仁、松尾一彦、大間ジロー。なんと一世を風靡したあの“オフコース”から3人のメンバーが出演するそうです。清水さんはその昔「Bad Boys」というビートルズの国内初プロ・コピーバンドのベースシストでした。

なんとか時間を作って行きたいと思います。


.
aso**otoh
aso**otoh
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新の画像つき記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事