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二人とも今日が誕生日。ブラームスが1833年ドイツ・ハンブルグで、チャイコフスキーが1840年ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで生まれている。ほぼ同時代に活躍した二人の大作曲家に親交はなかったようだ。いつものようにフリー百科事典からその足跡を引用する。チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は最も好きな曲だが、当初は酷評されたという。
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、「19世紀ドイツの作曲家であり、大バッハ、ベートーヴェンと並びドイツ音楽に於ける『三大B』と称される一人である。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。作風は概ねロマン派音楽の範疇にあるが、古典主義的色彩も濃い」。
「多くの人は、ブラームスをベートーヴェンの後継者であると信じており、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評し、その通称は未だに広く使われている。ブラームスの主要作品には、4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、合唱と管弦楽のための『ドイツ・レクイエム』などがある。これらの作品は世界各地のオーケストラで、現在でも主要な演奏レパートリーとして取り上げられている」。
「さらには、最大の声楽の作曲家の一人であるという意見もあり、実際に200の歌曲や合唱曲を書いている。ブラームスは歌劇を書かず、また、19世紀の音楽を特徴付ける交響詩にも手を染めなかった」。
「1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム、フランツ・リストとロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった」。
「シューマンは、「新しい道」と題された評論を発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララを知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。恋愛に近い関係になった時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった」。
「1862年からウィーンに永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲を書き上げるための自信になったと考えられる。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年に完成した」。
「1889年12月2日、ブラームスはトーマス・エジソンの代理人の依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音した。このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている。1897年4月3日、肝臓ガンによりウィーンで逝去し、中央墓地に埋葬された」。
「ブラームスはベートーヴェンを崇拝し、モーツァルトとハイドンを敬愛していた。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、『新古典派』という呼称で呼ばれることもある」。
「しかし、シェーンベルクのようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏 (developping variation)」と呼び、自らの作品において展開することになる」。
「ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、「ハンガリー舞曲集」で分かるように、レメーニイから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、「ピアノ四重奏曲第1番」などにその語法を取り込んでいる」。
「ブラームスは、彼の生きた時代にほぼ現在の形態に到達したベーゼンドルファーやスタインウェイに代表されるピアノの、技術的な発達の影響を非常に大きく受けている。彼のピアノ音楽と歌曲の多くは、豊かで力強い音を得るためにピアノの重低音とペダルを使用する」。
「同時代の作曲家ではヨハン・シュトラウス2世と親交があり、シュトラウスはブラームスとその作品のよき理解者であった。1860年代以降、作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、単純な3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。ブラームスは親戚たちへ金品を惜しみなく渡し、そのうえ匿名で多くの若い音楽家を支援した」。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は「ロシアの作曲家。バレエ音楽や6つの交響曲などで有名。ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフのロシア五人組の国民楽派に対し、チャイコフスキーは西欧派と呼ばれる」。
「作風はリズムの天才と言われ、一つのフレ−ズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚といわれる表情が見えたりする」。
「チャイコフスキーは同性愛者であったとされ、当時のロシアでは重大問題であったがための苦しみが作品にも反映しているとして、この方面から解釈する見方もある」。
「幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルグの法律学校に寄宿生として入学させた。1859年、法務省に勤務する。 1861年、アントン・ルービンシュタインが設立した音楽学校に入学。1863年、法務省の職を辞して音楽に専念」。
「1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。一説には、同性愛を疑われたための偽装結婚といわれる。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ「白鳥の湖」完成、オペラ「エフゲニ・オネーギン」完成」。
「1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ「眠りの森の美女」(作品66)完成。1891年、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲。アメリカに旅行。1893年、交響曲第6番「悲愴」(作品74)初演。それから9日後の11月6日に急死。死因には諸説がある」。
「チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどのポピュラー名曲だが、作曲された際にはニコライ・ルービンシュタインによって『演奏不可能』とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった」。
「同様に、現在では同ジャンルで超有名曲の座にあるヴァイオリン協奏曲も、名ヴァイオリニストのレオポルド・アウアーからやはり『演奏不可能』と烙印を押された。この曲はブロズキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮でヴィーン初演されたが、聴衆の反応は芳しくなく、このころ評論家として名を馳せていたエドゥアルト・ハンスリックは『悪臭を放つ音楽』とこっぴどく酷評した。ブロズキーはめげずにこの曲を演奏して各地をまわり、次第に人気が高まってくると、ようやくアウアーも評価を改めて自分も取り上げるようになったという」。
「最後の交響曲『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。しかし、これは曲のもつ虚無感と不吉さえ感じさせる結末のただならなさ故かもしれない。なお、周りの不評にいつも落ち込んでいたチャイコフスキーだったが、『悲愴』だけは『この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ』と自負するほどの自信作だったようだ」。
*5月7日にちなんだ音楽関係の出来事。
·1824年 - ベートーヴェンの交響曲第9番 ニ短調 「シラー『歓喜に寄す』による合唱終曲付き」初演。
·1825年 - アントニオ・サリエリ、音楽家(* 1750年)死去。
・1836年 - ノルベルト・ブルグミュラー、作曲家(* 1810年)死去。
·1942年 - フェリックス・ワインガルトナー、指揮者・作曲家(* 1863年)死去。
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