「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

作曲家の群像

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全13ページ

[10] [11] [12] [13]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

サルバドール・ダリ、フリードリヒ・ニーチェ、シャルル・ボードレールオーギュスト・ルノワール、トーマス・マン、アドルフ・ヒトラー石川啄木、三島由紀夫、松本零士、そして小泉純一郎。この一見、脈略もない人々はすべて「ワーグネリアン」だという。

個人的にヴァーグナーといえば、コッポラの映画「地獄の黙示録」で数千発のナパーム弾がベトコン村を襲う場面に鳴り響く“ワルキューレの騎行"の印象が強い。彼が反ユダヤ主義者の側面も持ち、その思想がのちにナチス・ドイツに利用されたることも含め、男性的なイメージが強い。

しかし、ヴァーグナーは「音楽は女だ」と語り、作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたヴァーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」だったという。親交のあった哲学者フリードリヒ・ニーチェとは後には決裂し、「ヴァーグナーの芸術は病んでいる」と言い放たれた。

彼を巡る賛否両論、いかにも芸術家らしい生き様だ。1813年の今日、リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner)は、ドイツのライプツィヒに生まれた。

イメージ 1

イメージ 2

二人とも今日が誕生日。ブラームスが1833年ドイツ・ハンブルグで、チャイコフスキーが1840年ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで生まれている。ほぼ同時代に活躍した二人の大作曲家に親交はなかったようだ。いつものようにフリー百科事典からその足跡を引用する。チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は最も好きな曲だが、当初は酷評されたという。

ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、「19世紀ドイツの作曲家であり、大バッハ、ベートーヴェンと並びドイツ音楽に於ける『三大B』と称される一人である。ハンブルクに生まれ、ウィーンに没した。作風は概ねロマン派音楽の範疇にあるが、古典主義的色彩も濃い」。

「多くの人は、ブラームスをベートーヴェンの後継者であると信じており、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評し、その通称は未だに広く使われている。ブラームスの主要作品には、4つの交響曲、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、合唱と管弦楽のための『ドイツ・レクイエム』などがある。これらの作品は世界各地のオーケストラで、現在でも主要な演奏レパートリーとして取り上げられている」。

「さらには、最大の声楽の作曲家の一人であるという意見もあり、実際に200の歌曲や合唱曲を書いている。ブラームスは歌劇を書かず、また、19世紀の音楽を特徴付ける交響詩にも手を染めなかった」。

「1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム、フランツ・リストとロベルト・シューマンに会って作品を見てもらった」。

「シューマンは、「新しい道」と題された評論を発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララを知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。恋愛に近い関係になった時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった」。

「1862年からウィーンに永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲を書き上げるための自信になったと考えられる。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年に完成した」。

「1889年12月2日、ブラームスはトーマス・エジソンの代理人の依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音した。このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている。1897年4月3日、肝臓ガンによりウィーンで逝去し、中央墓地に埋葬された」。

「ブラームスはベートーヴェンを崇拝し、モーツァルトとハイドンを敬愛していた。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、『新古典派』という呼称で呼ばれることもある」。

「しかし、シェーンベルクのようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏 (developping variation)」と呼び、自らの作品において展開することになる」。

「ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、「ハンガリー舞曲集」で分かるように、レメーニイから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、「ピアノ四重奏曲第1番」などにその語法を取り込んでいる」。

「ブラームスは、彼の生きた時代にほぼ現在の形態に到達したベーゼンドルファーやスタインウェイに代表されるピアノの、技術的な発達の影響を非常に大きく受けている。彼のピアノ音楽と歌曲の多くは、豊かで力強い音を得るためにピアノの重低音とペダルを使用する」。

「同時代の作曲家ではヨハン・シュトラウス2世と親交があり、シュトラウスはブラームスとその作品のよき理解者であった。1860年代以降、作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、単純な3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。ブラームスは親戚たちへ金品を惜しみなく渡し、そのうえ匿名で多くの若い音楽家を支援した」。


ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は「ロシアの作曲家。バレエ音楽や6つの交響曲などで有名。ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフのロシア五人組の国民楽派に対し、チャイコフスキーは西欧派と呼ばれる」。

「作風はリズムの天才と言われ、一つのフレ−ズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚といわれる表情が見えたりする」。

「チャイコフスキーは同性愛者であったとされ、当時のロシアでは重大問題であったがための苦しみが作品にも反映しているとして、この方面から解釈する見方もある」。

「幼少のころから音楽的才能を示したが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、10歳でサンクトペテルブルグの法律学校に寄宿生として入学させた。1859年、法務省に勤務する。 1861年、アントン・ルービンシュタインが設立した音楽学校に入学。1863年、法務省の職を辞して音楽に専念」。

「1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚。一説には、同性愛を疑われたための偽装結婚といわれる。この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。バレエ「白鳥の湖」完成、オペラ「エフゲニ・オネーギン」完成」。

「1888年、交響曲第5番(作品64)完成。バレエ「眠りの森の美女」(作品66)完成。1891年、バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲。アメリカに旅行。1893年、交響曲第6番「悲愴」(作品74)初演。それから9日後の11月6日に急死。死因には諸説がある」。

「チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどのポピュラー名曲だが、作曲された際にはニコライ・ルービンシュタインによって『演奏不可能』とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった」。

「同様に、現在では同ジャンルで超有名曲の座にあるヴァイオリン協奏曲も、名ヴァイオリニストのレオポルド・アウアーからやはり『演奏不可能』と烙印を押された。この曲はブロズキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮でヴィーン初演されたが、聴衆の反応は芳しくなく、このころ評論家として名を馳せていたエドゥアルト・ハンスリックは『悪臭を放つ音楽』とこっぴどく酷評した。ブロズキーはめげずにこの曲を演奏して各地をまわり、次第に人気が高まってくると、ようやくアウアーも評価を改めて自分も取り上げるようになったという」。

「最後の交響曲『悲愴』も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。しかし、これは曲のもつ虚無感と不吉さえ感じさせる結末のただならなさ故かもしれない。なお、周りの不評にいつも落ち込んでいたチャイコフスキーだったが、『悲愴』だけは『この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ』と自負するほどの自信作だったようだ」。


*5月7日にちなんだ音楽関係の出来事。
·1824年 - ベートーヴェンの交響曲第9番 ニ短調 「シラー『歓喜に寄す』による合唱終曲付き」初演。
·1825年 - アントニオ・サリエリ、音楽家(* 1750年)死去。
・1836年 - ノルベルト・ブルグミュラー、作曲家(* 1810年)死去。
·1942年 - フェリックス・ワインガルトナー、指揮者・作曲家(* 1863年)死去。

イメージ 1

「夏の思い出」、「ちいさい秋みつけた」、「めだかの学校」、「雪の降る街を」の名曲を残し、中田(なかだ)喜直は2000年の今日亡くなった。フリー百科事典によれば、「20世紀を代表する作曲家の一人である。晩年は、日本童謡協会会長やフェリス女学院大学音楽学部教授を務めた。2000年5月3日に亡くなるまで、生涯にわたり音楽活動を続けた。投稿マニアで讀賣新聞 気流欄常連投稿者だった」という。

演奏家吉元恵子さんはご自身のHP「ソット・ヴォーチェ」で次のように語っている。
「実は、専門的には、合唱曲にも多くの名曲があり、声楽家が歌う歌曲は、山田耕筰に匹敵するくらいの名曲があります。歌曲集を出版しても、第一版で店頭から消えていくものが大部分の中、戦後の作曲家の歌曲集で、増刷が繰り返されているのは、高田三郎、中田喜直、他数人の作曲家しか知りません」。吉元さんは中田喜直を「日本のシューベルト」と呼び、彼のピアノ教育にかけた思いも紹介してくれている。もっともだと思うので引用する。

「中田先生は、芸大のピアノ科卒業で、作曲科出身ではありません。…ご自分が、手が小さくて苦労したことを踏まえて、無理が無く、美しく!をモット−に作曲にあたりました。先生は、終生、「体型に合ったピアノを!」ということを訴えましたが、未だに理解しない人が多い現状です」。

「スポ−ツであれば、野球やサッカ−等、子供の頃の用具と大人になってからのそれは当然違う。バイオリンは、小さい体に合わせて、小さいバイオリンでレッスンを始める。ピアノは?3歳の幼児も成人した大人も、同じ楽器を使うのは変ではありませんか?!という論です」。

「加えさせていただくと、見かけの大きさではありません。鍵盤の部分です。子供の手と大人の手の大きさには差があります。男性、女性でも違います。西洋人と東洋人でも体格が違う分、手の大きさに差があります。しかし、それら全ての人が、同じ大きさの楽器で演奏しているのです!鍵盤の幅が、少し狭くなっただけで、無理なく自然に弾けたり、練習が辛くなかったりするのです」。

「洋服や靴にサイズがあるように、ピアノにもサイズをどうして作らないか?..と中田先生は、新聞や雑誌等で訴えました。私も同感でしたから、S.M.L.くらいの鍵盤サイズが、自然に売られるといいなと思いました。また、絶対に、日本人なら出来て、その日が遠くないと信じていましたが..。そんな日を見ずに、2000年5月、中田喜直先生は他界しました」。

「先生のピアノは特注で、1オクタ−ブで、1センチくらい鍵盤が狭いものでした。
それで、作曲の仕事をするようになり、とても楽でよかったそうです。音が1オクタ−ブやそれ以上飛んでいるときなど、弾くので精一杯ではなく、きれいな音ということに集中できたそうです」。

「モ−ツァルトが弾いていた頃のピアノは、現代のピアノより1オクタ−ブで8ミリくらい狭かったそうです。あの天才少年も、今のピアノだったら、天才ぶりは発揮できなかったと思いませんか!今の鍵盤の幅を決めた人は誰でしょう?その根拠はどこにあるのでしょう?..みな、そこまでは感じながら、学者さんも楽器やさんも、面倒臭いのか、そのままという現実です」。

ちなみ、「煙草を吸うことは百害あって一利なし」と述べるなど大の煙草嫌いで、嫌煙運動に力を入れたそうだ。私は愛煙家だが。なお、息子の中田喜彦は細野晴臣や大瀧詠一の友人であり、一時キングレコードの社員だったという。

イメージ 1

「恋のバカンス」(ザ・ピーナッツ、W)、「銀色の道」(ザ・ピーナッツ、ダーク・ダックス)「ウナ・セラ・ディ東京(ザ・ピーナッツ、西田佐知子、和田弘とマヒナスターズ)」、「ふりむかないで」(ザ・ピーナッツ、Wink、松雪泰子) 、「逢いたくて逢いたくて」(園まり)、「アッと驚く為五郎」(ハナ肇とクレージーキャッツ)、「君をのせて」(沢田研二)、「宇宙戦艦ヤマト」。

宮川 泰(ひろし)、1931年3月18日 - 2006年3月21日)の手による曲達。「フリー百科事典」による「目立ちたがり屋で笑いが大好きで、『シャボン玉ホリデー』の音楽担当時、ハナ肇からクレージーキャッツに誘われ、本人もその気になったことがある。しかし渡辺プロ社長の渡辺晋や妻に反対されて挫折」という記事が奮っている。

1963年に、「恋のバカンス」で日本レコード大賞編曲賞受賞。同曲は作詞:なかにし礼、作曲:すぎやまこういち、小柳ゆき、W(ダブルユー)と続々とカバーしている。JRA関西地区ファンファーレ(阪神競馬場(宝塚記念を除く)・京都競馬場・中京競馬場(中京はGI競走<高松宮記念>のみ))の作曲もある。

京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)を経て大阪学芸大学(現:大阪教育大学)音楽科を中退。「渡辺晋とシックスジョーンズ」でピアニスト兼アレンジャーとして参加。その後、独立して作曲家、編曲家となる。3月21日、虚血性心不全のため自宅にて急逝した。享年75歳。

昨日のワールド・ベースボール・クラシック。イチローは「野球人生で最も屈辱的な日」と語った。一方の韓国マスコミも「70年の歴史を持つ日本野球に屈辱を与えた」と伝えた。サッカー先進国の韓国に敗れるのとは違い、野球で負けるのはやはり心情的に悔しい。この「屈辱感」、韓国民族の日本に対する思いを実感する機会となったように思う。

「悲歌〜古賀政男の人生とメロディー」(佐高信著/毎日新聞社)を読んだ。古賀政男は、1904年(明治37年)11月18日、福岡県大川市に生まれる。1978年7月25日死去。フリー百科事典による「演歌」の解説には「演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた5音階が用いられることが多い」。

「西洋音楽の7音階を5音階にするために第4音と第7音を外し、第7音を第5音にすることから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法を採ることが多い。この音階法は古賀正男、後の古賀政男(1904年明治37年11月18日 - 1978年昭和53年7月25日)による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる」とある。

「演歌の源流は韓国のポンチャク」という説がある。シリーズ化し引用している團伊玖磨もこの立場に立っている。これには、古賀政男が幼少期に朝鮮半島に渡ったことも、後の作曲活動に影響を与えていると思われてもいる。しかしながら、当の韓国の人々には、それぞれ別の立場から、日本の「演歌」に対する屈辱感があるという。

「『離別』の古屋潤こと崔宗洙は、古賀メロディーを含む演歌の源流は韓国にあるという説にこう答える。『演歌の海峡』の著者、森彰英の問いに応じてである。『音楽は国境を越えているという文句は、ある面で正しいでしょう。だが、韓国と日本の音楽は違います。数年前に演歌のルーツは韓国にあるという議論がなされましたね。だが、私に言わせれば、あれは商売人がつくった宣伝文句だ。演歌は日本のものであって、韓国に演歌があるはずがない。韓国人には、心の深部まで食い入っていくあんなカミソリみたいなセンチメンタリズムはありませんよ。もっと物にこだわらず、馬鹿にみえるほど悠長なところがある。だから何度もどこかの国に隷属し、いじめ抜かれなければならなかったのかもしれない』」。

姜信子の『日韓音楽ノート』はこう書く。「韓国人による初めての本格的な大衆歌謡『荒城の跡』、孫牧人の『他郷暮らし』をはじめとして、植民地時代に生まれた本格的な大衆歌謡のほとんどは、短調のヨナ抜き音階によっている。それが現代の韓国では議論を呼びおこす。日本の音階であるヨナ抜き音階で歌われていた歌が、本当に韓国人の情緒を表現しうるのか?それは韓国人の情緒などではなく、洗脳されるようにして植えこまれた日本的情緒なのではないか?韓国は植民地であっただけではなく植音地でもあった、独立の喜びを歌った『解放歌』すらヨナ抜き音階だったと、『韓国演歌ポンチャクの源流は日本』と主張する人々は、憤りをこめて語る」。

全13ページ

[10] [11] [12] [13]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
aso**otoh
aso**otoh
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新の画像つき記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事