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作曲家の群像

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<Tom&Jerry>
http://www.youtube.com/watch?v=QUHmf7Y-9ww&feature=related

昨日に続いて、私が子供時代に親しんだテレビ作品とその音楽を手がけた作曲は誰だったのかを探る話題を。今日は「トムとジェリー」。「トムとジェリー」といえば、サイモンとガーファンクルが1964年の結成当初前につけていたユニット名<ポールはジェリー・ランディス(Jerry Landis)、アートはトム・グラフ(Tom Graph)>ですが、取り上げるのはもちろんアニメの方です。

1930年代後半、当時アメリカでカートゥーンの分野では、ウォルト・ディズニー・カンパニーが人気面で先頭を走っており、MGMも新しいカートゥーンを創るべく、ウィリアム・ハンナ、ジョセフ・バーベラの2人のアニメーターに製作を依頼して誕生したのが「トムとジェリー (TOM and JERRY)」であったといいます。

当初、この猫と鼠の追い掛けっこをモチーフにしたカートゥーンは、現場サイドでの評判は決して良くなかったと言われていたそうで、1940年に第1作目「上には上がある (Puss Gets the Boot) 」がアメリカで公開。トムは別名の「ジャスパー (Jasper)」、ジェリーに至ってはまったく名前が付けられていなかったそうです。日本では、1964年にTBS系列で地上波初公開されました。

さて、この「トムとジェリー」の初期シリーズとテーマ曲を手がけたのがスコット・ブラッドリーという作曲家でした。彼がこのアニメで駆使した作曲方法はウィキペディアに詳しい解説がありますので、こちらを引用させてもらいます。

〜ディズニーのピアニストとして漫画映画に関わり始めたブラッドリーは、1931年ごろアブ・アイワークス(Ub Iwerks)のもとで漫画映画音楽の作曲を手がけるようになり、1934年にはMGMがディズニーの『シリー・シンフォニー』に対抗して始めた『ハッピー・ハーモニー』(Happy Harmonies)シリーズの第一作 The Discontented Canary を手始めに、ハーマン=アイジング作品の音楽を担当し始める。1937年、MGMがフレッド・クインビー(Fred Quimby)をプロデューサーとする自前の漫画部門を創設すると、ハーマンおよびアイジングとともにMGMに入社。ブラッドリーはその後20年にわたってMGM漫画映画の音楽をほとんど一手に引き受けることになる。〜

〜ブラッドリーは原則として作品の開始から終了まで映像のあらゆる動きに即した音楽を付け、「忍び歩きをする」「階段を駆けのぼる」「大笑いする」「飛び降りる」「酔っ払う」「驚く」「大あわてで逃げる」といったキャラクターのあらゆる行為を楽音によって描写している。そのため彼の音楽では、音階の急激な上下行、グリッサンドやトリルなどの装飾的な演奏技法、過度なビブラート、金管楽器の弱音器(プランジャーミュート)で音色を変化させる奏法や意図的に音を割って荒い質感を出す奏法などの特殊奏法が頻繁に用いられる。〜

〜彼の音楽はときおり挿入される衝撃音・爆発音などの効果音と完全に一体化してキャラクターたちの滑稽な動きを鮮やかに物語り、画面を見なくても音楽を聞いただけで何が起きているかがあらかた想像できてしまうほどである。〜

〜基本的な曲調は同時代のスウィング・ジャズとクラシックの近代音楽を融合させたシンフォニックジャズ的なものであるが、童謡・世界各地の民謡・ジャズの流行歌・クラシックの名曲などからのおびただしい引用によって、同一の作品内で曲調がめまぐるしく変化し続けるのもブラッドリー作品の顕著な特徴である。演奏者の側からみればたいへんな難曲で、あるバイオリン奏者は、「スコットはハリウッド一難しいバイオリン曲を書きやがる。あいつのせいで指が折れそうだ」と語ったという。〜

〜ブラッドリーは当時の前衛音楽に造詣が深く、ぶつかった衝撃を表わす効果音の代わりに前衛音楽風の不協和音を用いるなど、漫画音楽を前衛的技法の実験の場としても捉えていた。1940年代には、イタリアから亡命してMGMの映画音楽作曲家となっていたカステルヌオーヴォ=テデスコのレッスンを受けている。『猫はやっぱり猫でした』(Puttin' on the Dog, 1944年)でネズミのジェリーが犬の人形の首をかぶって歩くシーンでは、ほんの数秒間とはいえシェーンベルクの十二音技法が使われている。ブラッドリーはその後も緊迫した追跡シーンなどに十二音技法をさりげなく使い続ける。〜

〜ブラッドリーが業界入りした当時、漫画映画の音楽担当者は完成したアニメーションに後から音楽を付けるのが普通で、映像に合わせてメロディーを縮めたり伸ばしたりせねばならず、映像と音声を同期させるためにクリックトラック(click track, 一定のビートが録音されている)をイヤフォンで聞きながらオーケストラの指揮をしなければならないなど、苦労が絶えなかった。〜

〜しかし『草と木のおどり』(Dance of the Weed, 1941年)では、ブラッドリーがあらかじめ作曲し、オーケストラが自由なテンポで録音した音楽に合わせて、ルドルフ・アイジングが映像を制作するという方式が採られた。(前年にディズニーの『ファンタジア』が公開されたことが影響しているかもしれない。)セリフを一切使わず、バレエのように音楽と映像だけで物語を展開するこの作品は、言葉に頼らず音楽によって物語を語るという、その後のブラッドリー作品の音楽性を方向づけることになる。〜


スコット・ブラッドリー(Scott Bradley, 1891年11月26日 - 1977年4月27日)は、「アメリカ合衆国の作曲家。アーカンソー州ラッセルビル出身。『ドルーピー』シリーズをはじめとするテックス・エイヴリー監督の作品群や、初期の『トムとジェリー』シリーズなど、映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) が制作した漫画映画のために書いた伴奏音楽で知られる」。

「ピアノとオルガンおよび和声学は教師について習ったが、作曲法やオーケストレーションはまったく独学で身に付けたという。バッハに傾倒してその音楽を吸収したというブラッドリーは、その他に好きな作曲家として、ブラームス、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、バルトークの名を挙げている」。

「テキサス州ヒューストンの劇場で作曲家兼指揮者として働いた後、1926年にロサンゼルスに移ってラジオ局の指揮者となり、1930年代には演奏会用の管弦楽曲をいくつか書いている。漫画音楽で一般的に使われるモチーフを集めて作った組曲『カートゥーニア』(Cartoonia, 1938年)は、ピエール・モントゥーの指揮で初演された」。

「漫画音楽の作曲家という仕事に誇りを持っていたブラッドリーは、未来のアニメーション映画が、才能豊かな作曲家によるオリジナルの音楽を持ち、スラップスティック風のギャグの代わりに美しく芸術的な物語を伝える、一種の総合芸術となることを夢見ていた。彼はこう語っている。「『ペレアスとメリザンド』を考えてみてほしい。ドビュッシーの神秘的な音楽が、才能豊かなアニメーターによってアニメ化されるのだ。しかも舞台装置はダリで!」("Cartoon Music of the Future," Pacific Coast Musician)」。

「彼自身が音楽を担当した漫画映画でこの理想に近づいたのは、全編セリフなしでバレエ風の『草と木のおどり』や、あるいはジャズの流行歌「マンハッタン・セレナーデ」(Manhattan Serenade)の旋律に基づくガーシュウィン風の交響詩とも呼べる音楽に乗せて、ネズミのジェリーがトムと離れてニューヨークの街を探検する様子を叙情的に描いた『ジェリー街へ行く』(Mouse in Manhattan, 1945年)のような作品であろう」。

「1957年にMGMの漫画映画部門が閉鎖されたのに伴い、漫画映画の世界から引退した。1977年4月27日、カリフォルニア州チャッツワースで死去。ワーナー・ブラザーズ制作の漫画映画に音楽を提供したカール・スターリング(Carl Stalling)と並び、アメリカン・アニメーションの黄金時代を代表する作曲家である」。(同上)

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私の子供の頃に強烈な印象を残した番組に人形劇「サンダーバード(Thunderbirds)」がありました。あの頃は洋物といえばなんでもアメリカだと思っていたこともあって、この番組もそうだと思っていましたが、イギリスで1965年から始まるに放映されたものだったんですね。時代設定は、2026年と2065年があるようですが、公式には後者だそうです。

さて、この番組のあの印象的なテーマ曲を書いたのが、バリー・グレイというイギリスの作曲家だということを今日初めて知りました。曲は知っててもその作者は知らないというのが、映画音楽やテーマ曲の作曲家の悲しい性でしょうか?このブログではそんな作曲家たちに少しでも光を当てたいと思っています。

バリー・グレイ(Barry Gray、1908年7月18日-1984年4月26日)は、「イギリスの作曲家。「Torchy the Battery Boy」、「サンダーバード」、「キャプテン・スカーレット」、「海底大戦争 スティングレイ」、「謎の円盤UFO」等、ジェリー・アンダーソン制作作品の音楽を担当した事で知られる」。

「ランカシャーで音楽家の両親の間に生まれる。5歳の頃から地元の有名ピアノ教師に音楽教育を受け、この時点で才能を認められている。やがて22歳までマンチェスター王立大学教授、次いでブラックバーン大聖堂の音楽博士の元で音楽の勉強を重ね、ロンドンの有名な音楽出版社での仕事がプロデビューとなった。後にジェリー同様、第二次世界大戦中は軍務についている」。

「アンダーソン作品には最初から参加。以後アンダーソン作品で続けて音楽を担当し、2作後の『ウエスタン・マリオネット 魔法のけん銃』では純粋に作曲担当となっただけでなく、作品の原案も提供している(この間の担当作品一覧はジェリー・アンダーソンを参照)当時珍しかった電子楽器も盛んに採用したが『スペース1999』第1シーズン終了時にシルヴィア・アンダーソン側に回った為か、これがジェリーとの最後の協力作品となった」。

「晩年(恐らく上記から亡くなるまで)は1976年からチャンネル諸島ガーンジー島の旧政府ハウスホテルに、ピアニストとして勤めていた。特定の作曲家の特定の魅力は何かと聞かれた場合、お馴染みのモチーフ(リズム・メロディライン)を挙げるファンが多いが、グレイのモチーフでは『タッタラタ〜』が有名である。このモチーフは『サンダーバード』でもテーマ曲やそのアレンジのみならず、各種BGMで頻繁に聞かれ、他の作品でもこれを入っていない曲を探すのが難しい程である。担当したアンダーソン作品の音楽は、日本でも一部だがCD化されており、入手可能である」。(ウィキペディア)

ガイドライン違反のため、Yahoo! JAPANによって記事が削除されました。

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東大在籍中にヴィリ・バルダスとレオニード・コハンスキにピアノを師事。1927年に音楽団体「スルヤ(Surya)」を結成し、河上徹太郎、三好達治、小林秀雄、中原中也、大岡昇平という錚々たるメンバーと親交を持った作曲が諸井三郎さん。秩父セメント(現・太平洋セメント)の創業者一族の諸井家ですね。「スルヤ」とは、サンスクリット語(梵語、インドの古典語)で太陽神を意味することばから名付けられたそうです。

ノンフィクション作家の松浦晋也さんのサイト(http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2004/11/1.html)に次ぎのような記述があります。

「・・・このナクソスという会社、数年前から何を思ったのか、全60枚だかで『「日本作曲家選輯』という日本人作曲家の全集を出し始めた。そして、どうせ儲からずに途中でつぶれるであろうというおおかたの予測を裏切り、じりじりと匍匐前進を続ける爆弾三勇士のように戦前戦中のしぶい選曲のCDを出し続けているのだ。その1枚として、ついに諸井三郎の作品集、それも第2でも第4でもない、あの第3交響曲のCDを出してくれたのである」。

諸井さんを語るにはこの交響曲第三番がキーワードになるようです。その曲を取り上げ、諸井さんを「日本のブルックナー」と呼ぶのはHP「曲解クラシックへの勧誘」の管理人MSさんです。そのHP(http://www2u.biglobe.ne.jp/~smacky/index.htm)に次のような記述があります。

「第2楽章。『諧謔について』との本人の弁。2/4+1/8という組み合わせによる5/8拍子の文字通りのスケルツォ。8分音符の同音連打が続く主要テーマは、拍子は違うものの、テンポ感も含め、やはりブルックナー。それも交響曲第9番の第2楽章に酷似。いや、ブルックナーのそのスケルッツォの開始部分をそのまま拍子を変えただけの音楽と言いきれそうでもある」。

「そのブルックナー的楽想が、似ても似つかぬショスタコーヴィチ風オーケストレーション、つまり小太鼓の大活躍によって、リズムの先導がなされる辺り、私には笑えた。ブルックナーとショスタコーヴィチが、第ニ次大戦中の日本で同居し得たと言うのは、なんと含蓄ある現象であろう」。


諸井三郎(1903年8月7日 - 1977年3月24日)は、日本の作曲家。旧世代の日本の作曲家が歌曲やオペラ中心の創作姿勢を選んだことに反発し、ベートーヴェンへの心酔もあいまって、楽想の抽象的な展開を追究する器楽曲の作曲家であることを目指した。とりわけソナタ形式やフーガを含む大形式の楽曲が多い」。

「山田耕筰がスクリャービンを経験しながら、日本浪漫主義に回帰したのとは対照的に、諸井三郎は新古典主義者の姿勢を崩さず、門人がより急進的な方向に乗り出すことにも寛容だった。ベートーヴェンに関する児童向けの伝記を執筆したほか、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜の校訂も行なった」。

「作曲家を志したきっかけは小学生の頃、ピアニスト小倉末子によるオール・ベートーヴェン・プログラムによるピアノ・リサイタルに接して感銘を受けたことによる。以後、独学で作曲を開始し、やがて20代で結成した音楽グループ「スルヤ」が開催した一連の発表会で、自作を次々に公の場で発表する。昭和1桁台の当時はいわゆる『洋楽系作曲家』の存在がまだ珍しかったこともあり、その活動は世間の注目を浴びることとなる。この頃の作品は、ベートーヴェン、ブラームス、フランクなどの影響を受けている」。

「やがて、独学による探求は行き詰まりを迎え、1933年(昭和8年)にベルリンに留学。留学中に、欧米で流行中の新古典主義音楽の洗礼を受け、調的だが非機能的な和声法を持つ、晦渋な作風をとるにいたった」。

「留学中の卒業作品として書き、現地で初演された『交響曲第1番』(1934年)を経て、帰国後発表された『交響曲第2番』(1938年)、『ヴァイオリン協奏曲』(1939年)、『弦楽六重奏曲』(1941年)、『交響的二楽章』(1942年)など次々に発表された大作は、押しなべてそのような特徴を持つ。この当時の戦争にひたすら向かう世相の悪化という状況も、作品の晦渋化に拍車をかけた」。

「しかし、1943年の『こどものための小交響曲』を発端に、それまでの彼の作品には有り得なかった日本的、叙情的な作風が顔を出すようになる。1944年に書かれた『交響曲第3番』は、彼が戦争による死を覚悟し、まさしく遺書として書かれた、日本の音楽史上に燦然と輝く壮絶な大作である。特に最終楽章『死に関する諸観念』の、苦悩から悟りの境地に達する音楽は圧倒的感銘を聴き手に与える。2004年にナクソスよりこの曲のCDが発売され、多くの人々の感動を呼んでいる」。

「戦後の作曲活動は不活発で、1945年から没年の1977年の32年の間にわずか8曲しか残していない。その理由は、『交響曲第3番』の作曲によって『燃え尽きた』ためであるという指摘が多い。しかし1951年の『交響曲第4番』は、当時国内に流入しはじめてきたロシア音楽の素材を彼なりに消化した、『交響曲第3番』とは驚くほど対照的な明朗快活な音楽である」。

「また最晩年の1977年に書かれた『ピアノ協奏曲第2番』では、弟子たち(入野義朗、柴田南雄)や息子(諸井誠)より数十年遅れて十二音技法による作曲を試みており、作品数は少ないながらも新境地を切り開いていることは大いに注目に値する。作曲活動が下火になるのと対照的に、著作者としての顔が表に現れるようになる。1946年からの20年間に、平均して年2冊のペースで著書を出版するほどに力を注いだ」。(ウィキペディア)

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絢香さんの新曲「手をつなごう」がいいです。最初聞いたときに、いい曲だとは思いましたが、綾香さんだとはすぐにはわかりませんでしたが、やはり絢香さんだったんですね。

<ayaka (絢香): Te wo Tsunagou [手をつなごう]>
http://jp.youtube.com/watch?v=rRb9FUO4JyQ

彼女の曲がなぜいいのか、それはもちろん彼女が書く詞の世界にあるのだとは思いますが、あのメロディも書いているのだろうか、そんな疑問から彼女のHPを覗いてみました。

「中学校の文化祭で平井堅の『Love Love Love』を歌い、喝采を受けたことが歌手を志したきっかけであるという。西尾芳彦が塾長を務める『音楽塾ヴォイス』に通うため、高校2年(2004年)の春から大阪府立門真なみはや高等学校普通科より第一経済大学付属高等学校(現・第一薬科大学付属高等学校)芸能科へ転校[2]、福岡市南区へと転居した。そして、本格的に楽曲創作活動を開始。このころ、『やがて上京して地元を離れる』ということが現実的になり始め、『三日月』を作詞した」とあります。

彼女の主な曲のラインアップを見ると、
「I believe」(作詞:絢香、作曲:西尾芳彦 / 絢香、編曲:L.O.E)
「三日月」(作詞:絢香/作曲:西尾芳彦・絢香)
「Start to 0(Love)」(作詞:絢香/作曲:西尾芳彦)
・・・と、あります。曲はほとんどがこの西尾芳彦さんのものか、絢香さんとのコラボでした。私とほぼ同世代の人が、若いミュージシャンの楽曲づくりを支えていることに、何か勇気付けられるようなそんな思いになりました。

<西尾芳彦>
1961;佐賀県唐津市に生れる。
1972;小5の時、卒業生を送る会で生れて初めて人前で歌を歌いエンタテインメントの楽しさを知る。
1976;中3でロックバンドを結成。(Vocal&Piano)
1979;とあるオーディションに落ちた事をきっかけにプロのアーティストを目指す。
1982;ロックバンド「ヴォイス」を結成する。翌年、YAMAHAのオーディションで優秀賞を受賞しポリドールレコード(現ユニバーサル)からメジャーデビューを果たす。
1984;「ヴォイス」解散後、ソロで上京しシングル1枚(日テレ主題歌)、コンピレーションアルバム2枚を発表する。その他CMソング等を歌う。
1988;プロとして限界を感じ音楽業界から一時身を引く。
1995;地元福岡にて音楽専門学校、タレントスクール等でヴォイストレーナー、作詞・作曲の講師として修行を積む。
1997;西尾芳彦自身が代表を務める音楽塾「ヴォイス」を設立。他のスクールとは確実に一線を画す、独特でより実践的な音楽理論・作曲理論・歌唱法等を用い生徒一人一人の才能を引き出していく教え方が地元のマスメディアや音楽関係者を通じて、プロを目指す若者達に口コミで広がっていく。
2004;音楽塾ヴォイスの生徒4人で結成された「ビアンコネロ」がメジャー契約を果たす。
2005;YUIがフジTV月9主題歌「Feel my soul」でメジャーデビュー。(西尾芳彦プロデュース)
2006;絢香がTBS・TV東芝日曜劇場主題歌「I Believe」でメジャーデビュー。

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