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作曲家の群像

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「リンゴ追分」、「車屋さん」、「津軽のふるさと」など、初期の美空ひばりのヒット曲、他にも、水前寺清子の大ヒット曲「三百六十五歩のマーチ」、小林旭の「赤いトラクター」、同じくヤンマーの「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲としてお馴染みの「ヤン坊マー坊の唄」など多くの作品を残したのが米山正夫さん。「かおるちゃん遅くなってごめんね・・・」の「花はおそかった」(美樹克彦)も米山さんの作品。

米山正夫(よねやま まさお、1912年(大正元年)10月3日 - 1985年(昭和60年)2月22日)は、昭和期の作曲家。東京都出身。東洋音楽学校(現東京音楽大学)卒業。

〜昭和17年、高峰秀子の歌で「森の水車」を発売。この歌は、当時の軍部によって、敵性歌謡と見なされ、発売禁止となる。昭和18年1月に、警視庁が指導した英米で作られた音楽を“敵性音楽”としてレコード発売、演奏ともに禁止した法律によるものであった。

たぶん、歌詞(清水みのる作詞)にある「ファミレドシドレミファ」の部分が、禁止の対象になったものと思われる。当時は、これら音程を表すのに、日本語表記の「ハニホヘトイロハ」を使うように強制されていたからである。だがこの歌は戦後、荒井恵子よって歌われヒットとなり、並木路子も吹き込んでいる。〜(音楽評論家・伊藤強)

2006年1/19付けの記事「『要注意歌謡曲』と共同幻想」で、そこでは、「放送禁止歌」(森達也著)という本をテキストにして、基本的に「放送禁止歌」はないということを次のように書いています。

〜著者は規制の所在を求めて放送局の関係者にその当事者を追う。そこで誰もが放送禁止歌を決定する機関として、民放連の名をあげる。その民放連が策定する「要注意歌謡曲指定制度」は、「放送禁止を決定するシステムだと長く思い込まれていた。しかしその本質は。強制力や拘束力などまったくないガイドラインでしかないこと」が明白になる。強制力を持った「放送禁止歌は実在しない。巨大な共同幻想でしかない」ことが示される。〜

とは言え、米山さんの「森の水車」のように時代によって封印された歌があったことも事実です。
「幻泉館日録」(http://blog.so-net.ne.jp/gensenkan/2007-08-02-1)の中に「TABOO SONGS〜封印歌謡大全」というタイトルで次ぎの記述がありました。

#1 夢去りぬ(ビック・マックスウェル楽団)
  服部良一さんが、ドイツからの輸入盤を装って作ったレコード。
  なぜか英語詞。
  敵性歌謡ということで放送禁止に……なっていたわけではない。

#2 別れのブルース(淡谷のり子)
  戦意を喪失させるということで、ヒットしてから発禁に?

#3 忘れちゃいやヨ(渡辺はま子)
 →「忘れちゃいやヨ」
  お色気歌謡で発禁処分。

今、防衛省は大変な時ですが、ある意味、国防の緩みが今回の事件を生んだのでしょうか?しかし、およそ70年前には、こうした歌でさえ厳しい検閲があったことを考えると、今の日本はいかにも平和な時代なんだなと思います。

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今年はいよいよ北京オリンピックが開催されます。マラソン選考会やハンドボールの予選やり直しが話題に上っていますが、今日はかつて近代オリンピックで採用されていたオリンピック競技の一つ「芸術競技」の音楽部門の話題を。「芸術競技」種目には絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、スポーツを題材にした芸術作品を制作し採点により順位を競うものであったそうです。

「古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、その点で、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として『肉体と精神の向上の場』が掲げられており、近代オリンピックの創立者クーベルタン男爵(1863-1937)の希望もあり芸術競技が採用された」。

「1912年のストックホルムオリンピックから1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会で正式競技として実施された。芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じたことが理由とされる」。

「ただし、このような批判は現在においてもフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等の芸術的要素が重視される競技においても同様であり、近代オリンピックが「世界的な祭典」からより純粋にトップアスリートの競技の場として変貌していくなかでそぎ落とされたものともいえる」。(ウィキペディア)

さて、1936年ベルリンオリンピック大会の作曲部門で、日本人「選手」として応募したのが山田耕筰、諸井三郎、箕作秋吉、伊藤昇と、台湾出身の江文也という人でした。その中で唯一4等に入選したのが江文也でした。「台湾の舞曲」で参加した江は、実際は3位でした、同列2位の存在によって、あと一歩のところでメダルを逃しています。江文也とはどんな人だったのか、ウィキペディアから引用します。


江文也(こう ぶんや、Joang Wen-ye、1910年6月11日−1983年10月24日)は、「台湾生まれの日本で活躍した作曲家、声楽家。台北郊外の淡水で生まれ、4歳で一族と共に廈門に移住。13歳で長野県上田市に本土留学して旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)へ入学。この頃、恩師スコット女史と出会って音楽を学ぶ」。

「その後、武蔵高等工科学校(現・武蔵工業大学)電気科で学ぶ一方、東京音楽学校夜間校で声楽を学ぶ。合唱団の指導者に見い出されて昭和7年(1932年)、コロムビアレコードのバリトン歌手となる。この頃から山田耕筰、橋本國彦に作曲を学ぶ。そして同年、第一回音楽コンクール声楽部門入選(翌年も同部門2位に入賞)。翌昭和8年(1933年)3月、乃ぶ夫人と結婚。JOAK(東京放送局)に出演して『タンホイザー』、『ボエーム』などを歌った。『肉弾三勇士の歌』などの戦時歌謡や『第二生蕃歌曲集』の自作自演などの録音が残されている」。

「1936年のベルリンオリンピックの芸術競技に管弦楽曲「台湾の舞曲」を出品。当時は「3位入賞」と報じられたが、実際には選外佳作という扱いだった。その後も中国、台湾、日本の音楽語法とモダニズムを融合したピアノ曲、声楽曲、交響曲などを発表した」。

「1938年、彼は大陸に渡って北京師範大学音楽系教授として作曲と声楽を教え、家族のいる日本と中国を往復する日が続いた。1945年8月15日の日本降伏以降、彼は日本国籍を失い、家族を残した日本に戻ることができなくなった。蒋介石の国民党政権下では『文化漢奸』として10ヶ月拘禁されたが、米軍クラブのジャズバンドの指揮をして糊口をしのぐことができた」。

「この頃、現地の女性と再婚。1947年に北京の中央音楽学院教授に就任。1949年の中華人民共和国成立後、1950年からは天津中央音楽院教授に就任。しかし、1957年からの反右派闘争、そして1966年からの文化大革命で『日本帝国主義の手先』と糾弾され、地位を剥奪された上、大半の作品の自筆譜やピアノなどを焼かれてしまう。そして下放労働に送られた。その間も密かに作曲を続け、文革終結後の1978年にやっと名誉回復された。しかし、既に病魔に蝕まれていた江は1983年に北京でこの世を去った」。

「中国に残って以降、江の名は日本の音楽界から忘れ去られてしまっていた。しかし名誉回復以降、香港、台湾、そして中国での再評価・録音が増え、日本でも徐々にその名が知られるようになって来た。1999年には『まぼろしの五線譜 江文也という<日本人>』(井田敏著、白水社)が出版されたが、中国側の遺族の扱いをめぐって日本側の遺族が抗議したうえ、東京の江家に保管されていた銅製のベルリンオリンピック参加メダルを第3位用の銅メダルと誤認して記述したことから、現在は絶版になっている」。

「2004年公開の映画『珈琲時光』においては江文也が映画のテーマとなっており、彼のピアノ曲が取り上げられると共に、日本側の乃ぶ夫人と娘が出演している。Naxosの『日本作曲家選輯』でも作品集のリリースが予定されており、彼の日本での再評価はこれから進むであろう」。

しかし、“競技”としての芸術部門がなくなっても、芸術とオリンピックが切り離されることはありません。オリンピック憲章で「オリンピック期間中にはさまざなま芸術行事を行う」と定めらているように、毎回“文化オリンピアード”と呼ばれる催しが行われている。長野(冬季)大会の際は、善光寺での能の公演や宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』の上映が行われ、今大会でも、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演の『オイディプス王』がアテネで招待上演されています。

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今FMで阿久悠さんの特集をやっています。いやぁ、昭和という時代を音楽というフィルターで見ると、それはまさに阿久悠さんの世界。その大きさに今さらながら驚きます。そんな中、先程、都はるみさんの「北の宿から」が流れました。1975年に発売された曲です。ところで、これ誰の作曲だったかな?と調べると、そうそう小林亜星さんだったですね。

小林亜星さんといえば、最近は服部克彦さんとの「記念樹事件」(歌曲『どこまでも行こう』を巡る盗作問題)で登場されたのを見ましたが、確認するともう10年前のことでした。私が小林亜星さんを初めて知ったのは、確か大橋巨泉さんが司会の「11PM」だったと思います。どういうシチュエーションで登場されたのかよく覚えていませんが、画面に映ったのは太った長髪の「キモイ」おじさんでした。

40代以降の多くの方には、やはり1974年から放映されたTBS系列のドラマ「寺内貫太郎一家」での小林さんでしょうね。この時42歳です。スタッフ陣が凄いです。当時の年齢と併せて書くと次のようになります。脚本・向田邦子(45)、プロデュース・久世光彦(39)、音楽・井上尭之(33)、大野克夫(35)、デザイン・横尾忠則(38)。

この小林亜星さんが翌年に書いた曲が「北の宿から」でした。当時の私にとってはちょっと驚きでした。私の中では、「魔法使いサリー」、「ひみつのアッコちゃん」、「ピンポンパン体操」、「ガッチャマンの歌」のアニメソング作家であり、日立グループ「日立の樹 この木なんの木」』(ヒデ樹、シンガーズ・スリー)を初めとする数多くのCMソング作家であったからです。

この「北の宿から」は、そういった意味では異色ではありながら、「作曲家」小林亜星を世に知らしめた作品であり、人気作曲家としての終焉であったと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、1960年代後半から1970年代前半の昭和を彩った作曲家の一人であったことは間違いありません。

小林亜星さんの近況をHPで覗くと、今年、10月3日にモンゴル国立オペラ・バレエ劇場、日本大使館が共催した、天満敦子さんとモンゴル国立歌劇場オーケストラとのコンサートに関わっておられ、小林亜星さん作曲による「旅人の詩」「地平を翔る風」が演奏されたようです。

小林亜星(あせい、1932年8月11日-)は、「作詞家、作曲家、俳優。東京都杉並区出身。旧制慶應普通部から慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。作曲を服部正に師事する。息子は『太陽戦隊サンバルカン』のバルパンサー/豹朝夫役で知られる元俳優で、『国語の神様』の異名を取る学習塾講師・小林朝夫」。

「J-scat(日本作詞作曲家協会)理事。タレント作曲家である。大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めた。一般に知られている名前の漢字表記は「亜星」であるが、本人は「亞星」と書くようである」。

「子供時代、戦争により長野県小諸市に疎開し、疎開の子供たちの悲惨さをTV番組で語り、涙を誘ったこともある。 実家は医者で、医学部に入学したものの、音楽サークル活動に熱中し親に断りなく転部、卒業時に親の知るところとなり勘当される。 その後、会社に就職したものの二週間で辞め服部正の門を叩く」。

「世直しトリオ」;「日本音楽著作権協会の一部理事たちによる公金不正流用事件を機に、有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如中心に結束して、協会を監視是正するオンブズマン風団体J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織したのに始まり、この団体の活動資金を捻出するために、3人が「歌入りトークショー」を始めたのが1996年の暮れ」。(ウィキペディア)

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今の日本で、作曲家と呼ばれる人にクラシックを基礎に持っていることの意義を充分発揮できている人はどの位いるのでしょうか?意義を充分発揮できているというとちょっと曖昧ですが、砕けて言うと生計が成り立っている人という意味です。このブログで取り上げた故人を除く作曲家は、三枝成彰、加古隆、久石譲、都倉俊一。もちろん注目するべき方々はまだまだたくさんいらっしゃると思います。

クラシックの世界では活躍の場としては当然世界に通用する必要がありますので、どうしても数えるほどにしかならないでしょうし、私には今ここでその名を挙げることができません。30〜40代で活躍している人は、映画音楽、ゲーム音楽、テレビドラマ、CMでの仕事に活路を見出しています。純音楽で生計を立てるのはいつの世にも難しいことなんですね。

この難しい作曲家という仕事で今成功している人の一人に千住明さんを挙げることができます。

千住 明(せんじゅ あきら、1960年10月21日-)は「東京都出身の作曲家・編曲家・音楽プロデューサー。慶應義塾大学工学部中退。二浪を経て東京芸術大学作曲科卒業。同大学院修了(首席)。南弘明、黛敏郎らに師事。修了作品『EDEN』は史上8人目の東京芸術大学買上となり、東京芸術大学芸術資料館に永久保存されている。'91〜'93年、東京芸術大学作曲科講師。'94〜'95年、'06年、慶応義塾大学文学部講師」。

「編曲やプロデュースなど幅広く活躍する。特にドラマ音楽を多く手がける。「映像音楽の魔術師」と称されることもある。『アニメを担当する時は、気力と体力と自信が自分には必要』とサウンドトラックなどで語っている。また、1993年の機動戦士Vガンダムが終わってからはアニメの仕事は避けていたと、B'T Xのサウンドトラック内で語っている」。

「近年では、中森明菜の大ヒットカバー・アルバム『歌姫』シリーズをすべて手掛け、累計100万枚の売り上げを記録させている。また、2007年に中森明菜が『歌姫』に続く演歌・歌謡曲のカバー・シリーズ『艶華 -Enka-』を発表、本シリーズでも千住明がプロデュースを担当している」。

「日本アカデミー賞優秀音楽賞受賞(1997年・1999年・2004年)、TOYP大賞受賞(1999年)、ドラマアカデミー賞劇中音楽賞受賞(2001年・2004年)、兄は日本画家の千住博、妹はヴァイオリニストの千住真理子。父は故千住鎮雄。母はエッセイストで教育評論家でもある千住文子」。

千住 鎮雄(せんじゅ しずお、1923年 - 2000年9月2日)は、「日本の工学者。慶應義塾大学名誉教授、工学博士。1941年、東京府立一中卒、慶應義塾大学卒。慶應義塾教授、杏林大学社会科学部教授、元外務大臣で東京府立一中の先輩である大来佐武郎が学長を務めていた国際大学で国際経営研究所長など歴任。著書に『OR入門』(1963年 東京オーム社)など」。(以上、ウィキペディア他)


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