「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

作曲家の群像

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

「ティン・パン・アレー」といえば、細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫の4人が結成した音楽ユニットを思い起こす。『キャラメルママ』(1975年)と『TIN PAN ALLEY 2』(1977年)の2枚のアルバムを発表した音楽プロデュースチームでもある。このバンド名がニューヨークの地名から取った名称だと知ったのはつい最近のこと。

ティン・パン・アレーとは、「もともとはニューヨークはマンハッタンの28番通りの一角を表す地名である。この地名で呼ばれる辺りは、1800年代後半にブロードウェイのミュージカルの音楽に関係する会社(楽譜出版社、演奏者のエージェント等)が集まり、まるで鍋釡でも叩いているような賑やかな状態だったことからこの名前(Tin Pan Alley, 錫鍋小路とでも訳すべきか?)がついた」。

「ちなみに日本では Array と書かれる方が多いようだが、そんなわけで本来は Alley が正しい。若き日のジョージ・ガーシュウィンが、ここで楽譜を客に試演する仕事をしていたことでも知られている」。

ジョージ・ガーシュウィン (George Gershwin, 1898年9月26日 - 1937年7月11日) は、「アメリカの作曲家。ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、『アメリカ音楽』を作り上げた作曲家として知られる。本名ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ロシア系ユダヤ人の移民の息子として、ニューヨークに生まれた(もとの姓はゲルショヴィチ Gershovich < *Hirschowicz)」。

「クラシック音楽に触れたのは小学生のときに聴いたドヴォルザークの『ユモレスク』だという。父親は貧しい生活の中、ジョージの兄のアイラ・ガーシュウィン (w:Ira Gershwin)に音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学者肌のアイラはピアノを弾かず、代わってジョージがピアノに親しむことになった」。

「10代後半から、ティン・パン・アレーの音楽出版社でソングプラガーを務めつつ、ポピュラーソングの作曲を始める。ソングプラガー=楽譜を買いに来た客向けの見本に、店頭のピアノを弾いて楽曲を試聴させる仕事。20世紀初期の当時レコードは高価で、流行歌の流布・収益手段の主流は楽譜販売だった」。

「出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「スワニー」で、人気歌手アル・ジョルスンに気に入られて彼が繰り返し歌ったことから大ヒットし、ガーシュウィンは一躍人気ソングライターとなる」。

「1920年代以降は、作詞家となった兄アイラ・ガーシュウィンと組んで、レビューやミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。ガーシュウィン兄弟によって作られ、後年までスタンダード・ナンバーとして歌われている歌曲は『私の彼氏』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数に上る」。

クラシックでは、「1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue )を発表。ジャズとクラシックを融合させた「シンフォニックジャズ」の作品として世界的に評価された。他の管弦楽作品としては『パリのアメリカ人』(An American in Paris、1928年) もよく知られている」。

「ガーシュウィン兄弟と作家デュボース・ヘイワードとの協力によって書かれ、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess )は1935年にオール黒人キャストという意欲的な企画で初演されたが、初演時は反響は得られなかった。のちに評価が高まり、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。劇中で歌われる『サマータイム』(Summertime )はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして広く親しまれている」。

「1937年7月11日、脳腫瘍のため、ハリウッドにて急逝した。まだ38歳9ヶ月の若さであった。亡くなる直前『頭の中で何かが焼ける音がしてから、自由が利かなくなった』との発言から、死因はクモ膜下出血ではないかとの説もある」。

ガーシュウィン作品を扱った「ミュージカル映画」
·『踊る騎士』(A Damsel in Distress,1937年 アメリカ)(RKO製作) フレッド・アステア主演のミュージカル映画。ハリウッドに招かれたガーシュウィンが楽曲を書き下ろした。アステアが歌ったメインタイトルの「霧深き日」は後にスタンダードナンバーとなった。

·『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue、1945年 アメリカ) ガーシュウィンの伝記映画として著名な作品で、1940年代にしばしば作られた音楽家伝記物の中でも最も成功した例。全編に渡ってガーシュウィン・ナンバーが流れる。ガーシュウィン役はロバート・アルダ。日本では1946年に劇場公開され、第二次世界大戦後初めて劇場公開されたアメリカ映画でもある。この作品中には、当時存命だったガーシュウィンと近しかった人々が多数実名で出演している(ガーシュウィンの親友だったピアニストのオスカー・レヴァントは、この映画がきっかけで映画界入りした)。この作品は現在パブリックドメインとして扱われているため、日本国内でも容易に入手可能である。

·『巴里のアメリカ人』(An American In Paris、1951年 アメリカ)(MGM製作) ガーシュウィンの作品を題材としたミュージカル映画。ジーン・ケリーが主演し、MGMミュージカルの中でも特に華やかな作品として知られる(アカデミー作品賞を受賞している)。この作品は現在パブリックドメインとして扱われているため、日本国内でも容易に入手可能である。

·『ポーギーとベス』(Porgy and Bess、1959年 アメリカ) (MGM製作) フォークオペラの古典として有名なガーシュウィン作品をサミュエル・ゴールドウィンがプロデュースして映画化したもので、この舞台劇の知名度を高めた。主人公ポーギーにはシドニー・ポワチエが扮したが、敵役の伊達男スポーティング・ライフを演じたサミー・デイヴィスJr.は当たり役として有名。

<パブリックドメインDVD>とは「著作権者の許諾の必要が無い、著作権の保護期間が満了したものや著作権を放棄したとみなされたパブリックドメインの映像作品をDVDに記録したものをいう。格安DVD、激安DVDとも呼ばれている。著作権者の許諾を得ている正規盤と比較して非正規盤とよばれることもあるが違法な海賊盤とは異なり合法的な製品である」。
(以上、フリー百科事典)

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

久石譲の「感動をつくれますか?」(角川oneテーマ21)を読んだ。著者が「一人の音楽家として日々悪戦苦闘する中で考え、やっていることを伝えることで、『創造力とはなんだろう』『感性とは何だろう』といった問題に、少しでも僕なりの言葉を投じることができたら幸せである」と書いたのが本書。

久石 譲(ひさいし じょう、本名:藤澤 守、1950年12月6日 - )は、「日本の作曲家。長野県中野市出身。長野県須坂高等学校、国立音楽大学作曲科卒。宮崎駿監督や、北野武監督作の音楽を担当していることで有名。『久石譲』の名前は、クインシー・ジョーンズに由来する。在学中に、音楽家として活動する以上、それなりの名前が必要ということで、友人と話し合った結果、好きだったクインシー・ジョーンズから名付けることとした」。(フリー百科事典)

悪戦苦闘の経験を通じて、彼が辿りついた境地は次のようなものだ。
「最近では、結局はひたすら考えるしかないという心境になている。考えて、考えて、字自分を極限まで追い詰めていくしかないのではないか、といった感じだ。何かが降りてくる、その瞬間を自分自身が受け入れやすくすることに時間と力を注ぐ」。

「つまりは自分の受け入れ態勢を整える状況づくりをすることなのかなあ、といった思いである。そこまでは毎回、非常に苦しい状態が続く。その扉がポンと開いてしまえば、後はスムーズだ。曲数が多くても、時間がなくても、完全に集中して突き進んでいける。全部が一気にクリアに見え出す」。

本書には「ハウルの動く城」(宮崎駿監督)などの映画音楽をどのように作曲したかが具体的に綴られている。彼の映画音楽観を見てみよう。
「音楽の持つ役割をきちんと考えずに安易につけると、映画全体を安っぽくしてしまう。逆に音楽を上手に使えば、映像では表現しきれないものまでも浮かび上がらせることができる・だから、映像と音楽が対等な関係で相乗効果を与え合うことが望ましいと考える」。

「しかし、映画音楽は作曲家の作りたいものを表現する場ではないから、そこで音楽的主張をしすぎてはいけない。あくまでもその映画の映像表現を引き立てるものとして、共存を目指していくべきだ」。

その「ハウルの動く城」、曲づくりに専念するために小淵沢のスタジオに篭もった久石氏はペースを崩さないために毎日の日課を以下のように決めた。

・朝九時四十五分、携帯の目覚ましで起床。
・ コーヒーを飲んで、十時から約一時間、周辺の山々を散歩。
・ 十一時半過ぎにブランチ。
・ シャワーを浴びて、十二時過ぎにスタジオに入る。
・ 夕方六時まで曲づくりに没頭。
・ 六時から食事。空腹であってもなくても強制的に夕食を摂る。
・ 七時半に再びスタジオ内に戻り、夜中の十二時か一時ごろまで曲づくり。
・ 張り詰めていた神経をアルコールでほぐし、身体のほうはストレッチでほぐす。
・ ベッドに入って本を読みながら就寝。午前三時半か四時ごろ眠りにつく。

「オンリーワンでいい、とは、確かに時代をよく反映している言葉だ。社会がどん詰まりになり、閉塞感があって、就職率の悪い、倒産も多かった。そういう時代を生きる若い人たちを映し出していた、しかし、言葉の綾にごまかされて、なんとなく安心してしまって、よりよいところを目指すことをやめてはいけないと思う」。同感だ。

イメージ 1

今日は「男はつらいよ」の日だそうだ。1969年8月27日に『男はつらいよ』シリーズの第一作が公開。「男はつらいよ」、渥美清主演・山田洋次監督(一部作品除く)の喜劇映画シリーズであることはいうまでもない。全シリーズのうち何作を観たか定かではない。日本における上質なコメディー映画だ。

その主題歌レコードは「1970年2月に日本クラウンから発売され、シングルで38万枚のセールスを記録した。売り上げこそ平凡だが、映画の主題歌としては息の長い曲となった」。
「男はつらいよ」 作詞:星野哲郎、作曲:山本直純、歌:渥美清

山本 直純(なおずみ、1932年12月16日 - 2002年6月18日)は作曲家、指揮者。作曲家の山本正美は妻、山本純ノ介は子にあたる。父は作曲家、指揮者の山本直忠。といった音楽一家。

「自由学園卒業後東京芸術大学作曲科に入学し、のちに指揮科へ転じる。指揮は斎藤秀雄に師事。同時期の同門に、小澤征爾・岩城宏之がいる。山本から指揮を教わっていた小澤征爾は、当時、『自分は音楽の底辺を広げる。お前は世界を目指せ』と山本から告げられた、と語っている。(なお、この時期の山本に関するエピソードを含む著作物として、岩城宏之著「森のうた」があげられる。)」

「ひげ面と豪快な笑い声がトレード・マークであった山本は、大学在学中からテレビや映画の分野に進出し、管弦楽・吹奏楽などクラシック音楽の分野はもちろん、映画音楽、テレビ・ラジオ番組の主題曲、歌謡曲、童謡、はては政党の党歌に至るまで幅広く作曲・編曲活動を行うと同時に、テレビ・ラジオ番組やCFへの出演もいとわず、クラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。中でも最も知られているのは、1973年から10年間放送されたTBSのテレビ番組『オーケストラがやってきた』の企画・音楽監督・出演である」。

「また、1983年に落成した大阪城ホールのこけら落とし事業として、毎日放送の斎藤守慶とともに『サントリー1万人の第九』を企画した。この『1万人の第九』はサントリーの故佐治敬三社長の後押しを得て83年にスタートしたもので、98年の第16回まで連続して構成・総監督・指揮を務めてきた。このほか、NHKのFMラジオ放送『FMシンフォニー・コンサート』(番組そのものは2005年時点継続)の司会を務めたほか、1984年からはNHK教育テレビの幼児向け音楽番組「なかよしリズム」の企画・出演なども行なった」。

「1972年には小澤征爾とともに新日本フィルハーモニー交響楽団を結成、指揮者団幹事となる。1979年、1980年には2度にわたり、日本人として初めてボストンポップスを指揮している。 その他、1987年3月31日には国鉄分割民営化にあわせた日本テレビの特番で京都の梅小路蒸気機関車館で転車台の上から機関庫内のSLの汽笛を指揮(汽笛で音楽を演奏する企画であり、汽笛を入れた蛍の光が23時55分頃から全国に中継された)したこともある。また、1989年1月には、昭和天皇崩御に伴い放映されたテレビ特番でモーツァルト交響曲第40番を指揮した。2002年、急性心不全のため死去。享年69。」(フリー百科事典)

クラシックの他の主な作品
アニメ「ゼロテスター」「新オバケのQ太郎」、特撮「マグマ大使」「怪奇大作戦」(音楽監督、主題歌作曲) 「妖精フローレンス」ドラマ「ハレンチ学園」 (東京12チャンネル)
NHK「勝海舟」「風と雲と虹と」「武田信玄」「天下御免」「天下堂々」、バラエティ「巨泉・前武のゲバゲバ90分!!」 「8時だョ!全員集合」「ミュージックフェア」、ワイドショー
「3時のあなた」、ドキュメンタリー「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」、ラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」(テーマ曲、挿入曲。いわゆる「お囃子」担当)

CMソング
「ミユキの歌」(御幸毛織=現御幸ホールディングス 同社単独協賛のミユキ野球教室のオープニングに放送された)、森永エールチョコレート(「大きいことはいいことだ!!」自らも出演) 、「若さだよ、ヤマちゃん!」(サントリー) 「ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー」(サッポロビール)、「火の用心のうた」(日本船舶振興会/日本防火協会。自らも出演、子供たちや当時の笹川良一会長(故人)に混じって勢い良く纏を振っていた)

童謡等
「一年生になったら」「歌えバンバン」「こぶたぬきつねこ」「だれもしらない」「さあ太陽を呼んでこい」「われら」(自由民主党党歌)

イメージ 1

イメージ 2

「火垂るの墓」は野坂昭如の小説。1945年の神戸・西宮などを舞台に終戦前後の兄妹の姿を描いた。「4歳と14歳で生きようと思った」という糸井重里氏のコピーがあるスタジオジブリの作品でもある。この哀しいスーリーの中で、今日はその節子が亡くなった日である。

「スタジオジブリによって1988年4月16日に映画化された。監督・脚本は高畑勲。挿入歌としてアメリータ・ガル・クリチの「はにゅうの宿(原題:Home, Sweet Home)」が使われた。英語版タイトルは「The Grave of the Fireflies」。海外でも絶賛され、この作品ほど感動的なアニメはないとの評価もうけている。Amazon.comでも最高の評価を得ている」。

「太平洋戦争末期、神戸に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は空襲で母も家も失い、西宮郊外のおばの家で暮らし始める。やがて働きもしない節子と清太をおばは毛嫌いしていく。そんな中、二人の兄妹は家を出ることを決心し、夙川近くの防空壕の中で2人きりで住み始めるが食料不足が続き節子は栄養失調で弱っていく。清太は、生きるために畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしてしまう。やがて日本が降伏し戦争は終わった。・・・・」(フリー百科事典)

この「火垂るの墓」の音楽を担当したのが、間宮芳生氏である。間宮 芳生(まみや みちお、1929年6月29日 - )は、「北海道旭川市出身、青森県青森市育ち。東京音楽学校(現・東京芸術大学)作曲科卒業。 1953年、外山雄三、林光とともに『山羊の会』を結成する」。

和泉範之氏の「合唱音楽 CHORAL MUSIC」というHPに間宮芳生に関する次の記述があった。

「なかなか真の才能を見極めるのは難しいが、間宮氏こそ、本物の作曲家として評価されるべきだ、という話を聞いたことがある。もちろん、僕のような享楽的鑑賞派にとっても受け入れやすい作品もいくつかあるのだが、作曲家として、音を置く技術が非常に高い、ということらしい。例えば合唱曲の楽譜を見ると、各パートの声域に無理がない」。

「テノールなど、確かに極めて普通の声域の音が割り当てられている。また、無意味に音が多い、ということが無い。プロの名に値する仕上げができる人だということなのだ。僕自身に作曲のプロ的視点が無いから自分では評価できないことであるが」。

「自分にとっての間宮作品と言えば、彼自身が演奏も得意とするピアノのための音楽に惹かれる。例えばピアノソナタ第2番などは傑作と呼びたい。しかしもちろん、合唱曲が多いことも言うまでもない事実で、合唱入門を終えて次の段階で接しておきたい作曲家、ということになるだろう」。

イメージ 1

イメージ 2

交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれ、ドイツの国歌として用いられている弦楽四重奏曲第77番第2楽章を作曲したフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟でオーストリアの作曲家であるハイドンとロシアの作曲家ショスタコーヴィチの生涯データはなんとなく似ている。生誕には170年もの隔たりはあるが、共に9月に生まれ、70歳を迎える前の8月に亡くなった。

ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 ニーダーエースターライヒ・ローラウ Rohrau - 1806年8月10日)は、「オーストリアのローラウに生れザルツブルクで没したクラシック音楽の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟」。

「1755年までウィーン聖シュテファン教会の聖歌隊で歌うかたわらオルガン、ピアノ、ヴァイオリンを学ぶ。1757年(20歳) ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長となる。1763年(26歳) ザルツブルクの大司教ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach 1753年 - 1771年)の宮廷楽団のコンサートマスター。1777年(40歳) 聖三位一体教会のオルガニストとなる」。

「1781年(44歳) モーツァルトの後任として宮廷及び大聖堂オルガニストとなる。 1800年(63歳) ザルツブルクはフランス軍に占領され、財産や給料を奪われた。兄ヨーゼフが送金して助けている。また、マリア・テレジアがミサ曲、後にレクィエムを委嘱した。アイゼンシュタットに兄ヨーゼフを訪ねた時、宮廷での第2楽長の職を提案されたが、ザルツブルクに留まる事を選んだ。1804年(67歳) 推薦されスウェーデン王立音楽アカデミーの会員になる。1806年8月10日(69歳) ザルツブルクで死亡」。

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日 - 1975年8月9日)は、「20世紀のソビエト連邦時代の、ロシアの作曲家・ピアニスト。交響曲や弦楽四重奏曲で有名。マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、現在ではベートーヴェンやブラームス、マーラーらと並ぶ交響曲の大家として認識されている」。

「また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ドヴォルザーク、バルトークなどと肩を並べる作曲家とも評され、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人として認識されている。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も数多く残している」。(以上、フリー百科事典)

ショスタコーヴィチは1929年に「新バビロン」という映画の音楽を手がけた。世界で最初の映画音楽は1908年、サン=サーンスが作曲した「ギーズ公の暗殺」(アルベール・カルメット監督の無声映画)と言われる。他にも、エリック・サティが1924年に「幕間」を作曲するなど、初期の映画音楽はクラシック音楽の作曲家が主な担い手であったようだ。


.
aso**otoh
aso**otoh
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新の画像つき記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事