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作曲家の群像

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芥川 也寸志(やすし)、(1925年7月12日 - 1989年1月31日)文豪芥川龍之介の三男。兄は俳優芥川比呂志。「1953年に、同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成。作曲者が主催して自作を発表するという独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した」。クラシックの作曲家であり、大衆に親しまれるような曲は少ないが、「砂の器」「八甲田山」などの映画音楽を担当している。

「芥川也寸志と新響」というサイトにヴァイオリン奏者・加藤のぞみさんが次のように記している。
「『クレッシェンドって、どういう事かわかっている?』ショスタコーヴィッチの交響曲で延々とクレッシェンドし続ける様、記譜されている箇所で、芥川先生は団員に問われた。 『音量つまみをだんだん大きい方に回していく様に、音が大きくなれば良いと思っているなら、それは大間違い』。

『精神。精神の間題なんたよ。『だんだん大きく・・・だんだん大さく・・・だんだん大きく』と思い続けながら弾いて、その結果実際の音量がすこしずつ増えていくってことじゃなければ、本当の意味でのクレッシェンドにはならないんだ』。

「この話しは、先生自身の著作『音楽の基礎』(*)にも述べられているのだが、芥川先生はリズム、アゴーギグ、楽語の意味など音楽の基本となることについて、練習中に指揮の手を休めて良く話しをされた。それは、単なる意味の説明や楽曲の解説ではなく、演奏する者は作曲家がどんな想いで楽譜を記したかを考え、聴き手にどうしたらその想いを伝えられるかに心を砕くべきである、という先生の指揮の姿勢に通じるものであったように思う」。

1941年、「中学4年にして初めて音楽に志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始。このとき無理が祟って肋膜炎を患う」という遅まきのスタートだ。

「1943年、東京音楽学校予科作曲部に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて『お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!』と叱責され、衝撃を受けた」という彼は父の影に晒される。

その彼は「1944年10月、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊しテナーサックスを担当。このとき軍楽隊の仲間に、東京音楽学校で一級上だった團伊玖磨がいた。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業。教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った」と奮起する。

「1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。また当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた」。

「1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』には伊福部の影響が極めて濃厚である。伊福部が始めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した」。伊福部昭はゴジラの映画音楽を担当した作曲家として有名。

「1949年東京音楽学校研究科卒業。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に入賞。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。1950年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団により初演され、作曲家芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた」。登場する人物が絢爛豪華だ。

「1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に自作を携えて単身で密入国。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアンやカバレフスキーの知遇を得、ついには自分の作品の出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港経由で半年後に帰国。以後、オーケストラ作品を次々と発表し、戦後の日本音楽界をリードした」。

「父龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、事ある毎に<文豪の三男>などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた」。

芥川也寸志の音楽界での功績を記念して、1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。

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「ウルトラマン」が、円谷プロダクションによって製作され、TBSで放映されたのが1966年7月17日。(10日からという解説もある)。ビートルズ来日の年であり、40年前のことだ。二週間前に先行した「マグマ大使」とあわせて特撮もののさきがけである。このウルトラマンとともに長らく親しまれてきた主題歌、挿入歌を作ったのは誰だったのか?

その名は宮内國郎。フリー百科事典で検索してみる。
宮内 國郎(みやうち くにお、1932年2月16日 - )は東京都世田谷区出身の作曲家。宮内 国郎と書かれることも多い。トランペット奏者を志したが、肺結核を患ったため断念、作曲家に転進。ラジオでの仕事を皮切りに、映画やテレビ番組の音楽を担当するようになる。ジャズ畑出身だが、近年はデジタルサウンドに傾倒している。

·ウルトラシリーズ
oウルトラQ(1966年)
oウルトラマン(1966年)
oザ☆ウルトラマン(1979年)※追加分は冬木透
oウルトラQ dark fantasy(2004年)※テーマ曲と提供バックのみ
·快獣ブースカ(1966年)
·スペクトルマン(1971年)※主題歌のみ
·戦え!マイティジャック(1968年)※冨田勲による『マイティジャック』の楽曲と併用
·チビラくん(1970年)※渋谷毅・広瀬健次郎との共作
·ラブラブショー(1970年)
·スペクトルマン(1971年)
·トリプルファイター(1972年)
·チャージマン研(1973年)
·恐竜戦隊コセイドン(1978年)※主題歌のみ

「ラブラブショー」を除けばすべて子供向けの番組の音楽を手がけられている。作曲家としては稀有な存在だ。残念ながら写真を見つけることができない。

ちなみに作詞は東(あずま)京一氏。本名、円谷 一(つぶらや はじめ、1933年4月23日 - 1973年2月9日)は、円谷プロダクション第二代社長で、演出家、プロデューサー。円谷英二の長男として生まれる。

そしてその円谷 英二(つぶらや えいじ)氏は「1901年(明治34年)7月10日 - 1970年(昭和45年)1月25日)は、福島県須賀川市生まれの特撮監督、映画監督。表記は圓谷英二で1949年の映画『幽靈列車』まで映画のクレジットで表記された。

本名は円谷 英一。昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残した。又、一家は全員カトリック教徒で、墓地は東京都府中市の教会にある」。実に明治生まれの巨人だ。

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遠藤実(1932年7月6日-)は、戦後歌謡界を代表する作曲家。東京都生まれ、新潟県新潟市(旧 西蒲原郡内野町)出身。1949年上京し、演歌師(流し)をしながら作曲を独学1952年日本マーキュリーレコードの専属作曲家となり、この頃から本格的な創造活動に入る2003年、北朝鮮による拉致被害家族の皆さんを励まそうと「春の来ない冬はない」を自ら歌も唄い発売する。2005年、日本作曲家協会会長就任。

「1957年の「お月さん今晩わ」以来、世に送り出した楽曲は5000曲以上といわれ、舟木一夫、千昌夫など多くの歌手を育てた。また自らの名をつけたレコード会社、ミノルフォン (現:徳間ジャパンコミュニケーションズ) を創業したことでも有名。2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された」。(フリー百科事典)

·アキラのズンドコ節(1960年)/小林旭
·おひまなら来てね(1961年)/五月みどり
·高校三年生(1963年)/高校三年生
·こまっちゃうナ(1966年)/山本リンダ
·星影のワルツ(1966年)/千昌夫
·せんせい(1972年)/森昌子
·くちなしの花(1973年)/渡哲也
·すきま風(1976年) /杉良太郎
·北国の春(1977年)/千昌夫

1966年に書かれた「こまっちゃうナ」と「星影のワルツ」のバランスが凄い。今ではすっかり姿を消してしまった「流し」。昔は北島三郎、五木ひろしなどの演歌歌手のデビュー前の修行の定番だった。小料理屋などの飲み屋に入り、酔客の求めに応じて歌を唄う。今ではストリートミュージシャンに取って代わっているが、たまには「流し」の風情を味わいたい。

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「そもそもの始まりは、親父が僕にトランペットを買ってくれたことなんだ。だけど、トランペットを吹いていると唇がおかしくなってきちゃうし、歌はうたえないって気がついた。そこで右利き用のギターと取り替えたんだ。しばらく左で弾いてたけど全然弾けなかった。そのうち、右で弾かなきゃだめなんだと分かって、ギターをひっくり返して右利きの普通の弾き方で弾いてみたら、驚くほどいい感じで弾けたんだよ」。(ポール・マッカートニー)

ポール・マッカートニー (Sir James Paul McCartney, MBE 1942年6月18日 - )。「60年代にビートルズ、70年代にはウイングスのリーダーとして、80年代以降はソロ・アーティストとして活動。ビートルズ時代を含めて現在までにのべ29曲の全米ナンバー1ヒット、50曲以上の全米トップ10ヒットを送り込み、ギネスブックに『ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家』として記載されている」。(フリー百科事典)

改めてポールの本名を見て、「Sir」、「MBE」がついていることに気付く。「MBE」は、大英帝国勲章(Order of the British Empire)で英国の勲章の1つ。最も新しく、最も広範囲に与えられ、最も受勲数の多い勲章だという。ジョージも授与しているが、ジョンは返還している。リンゴもそうなかのわからないが、少なくとも本名につけてはない。

「1917年にイギリス国王ジョージ5世が創設した。それまでの勲章は、政治家、軍人、役人などが主な対象で、通常の市民に与えられることは少なかったため、功績の対象を経済人、文化人、芸能人、スポーツ選手や社会奉仕活動等と広範囲にした勲章を新たに創設したものである。このため、創設時は一番低い勲章と見られていたが、今日では最も良く知られた勲章となっている。現在、有名人がもらっている勲章は、ほとんどがこれである。例:ビル・ゲイツ、ポール・マッカートニー、アレックス・ファーガソン、ジョナサン・アイブ、ブライアン・メイ等」。(フリー百科事典)

勲章のモットーは「神と帝国のために」である。ちなみに勲章には次のランクがある。ナイト・グランドクロス(GBE)、ナイト・コマンダー(KBE/DBE)、コマンダー(CBE)、オフィサー(OBE) 、そしてメンバー(MBE)。ナイトが付くものが、ナイト爵に相当する。受勲者は名前の後に、ランクを示す頭文字(KBE等)をつける事ができる。また、ナイト爵相当の勲章の場合、サー(Sir)の敬称が付けられる。

「ナイト(Knight)は、イギリスの叙勲制度(British honours system)において受勲者に与えられる、中世の騎士階級に由来した爵位あるいは称号である。日本語では勲功爵、勲爵士などと訳されるが、ナイト爵とカタカナで表記されることも多い」。

「主に国家に功績があった者に対し、首相の助言(外国籍の者に対しては、外相が推薦)により君主(国王)が授与する。受勲者は年に2度、新年と国王の誕生日に選出され、中世の騎士が行っていたのと同じように、君主が、自分の前に跪いた叙勲者の両肩を、儀礼用の剣の平で打つ騎士叙任の儀式が行われる。(→ エドモンド・ヒラリー、ポール・マッカートニー、ショーン・コネリーなど参照)」(フリー百科事典)

前置きが長くなった。本題のポールは今日で64歳。日本では1947年〜1949年に生まれた人々を「団塊の世代」と呼び、690万人といわれる彼らの一斉退職が「2007年問題」といわれているが、ポールより5〜7歳年下と考えれば、あまり大きな問題とはいえない気がする。団塊の世代は、あきらかにビートルズ世代である。

私はむしろ「ウィングス」世代。1993年、ワールド・ツアーの一環として来日した東京ドーム公演を一番後ろの席で聞いて、涙をこぼしながら聞いたことを思い出す。「ウィングス」は1971年結成し、1979年カンボジア難民救済コンサート主催した後、1980年日本で大麻の不法所持のため逮捕、ウイングスの日本公演中止。1980年ジョン・レノンが射殺されと、1981 年解散した。ウィングスの終焉はあまりにも寂しいものだが、ビートルズで8年、ウィングスで10年。これだけでも輝かしい歴史だ。

私のウィングス熱は、「Band On The Run (1973)」(英7週1位/米4週1位) 、「Venus And Mars(1975)」(英2週1/米1週1) 、「Wings At Speed Of Sound(1976)」(英2/米7週1)の期間だが、アルバム毎に熱が冷めていった。ポールにビートルズ後期の音楽を求め、かつ新しい音楽を求めていてからだろうと思う。

ちなみに、ウィングスのデビューシングルでポール初のプロテスト・ソング「Give Ireland Back To Irish(アイルランドに平和を」、3枚目のシングル「HI, HI, HI」は、BBC,IBA で放送禁止となっている。また、「バンド・オン・ザ・ラン」の一節“If We ever〜”の最後のラインの下コーラスは、ジョンではないかという噂もあるという。

1973年3月23日、4枚目のシングル 「MY LOVE」発売。この一曲で不評続きの彼らに対する世評を一気に好転させた。「イエスタデイ」以来の名曲だという論評まで飛び交ったこの曲は、ウイングスにとって初となる全米1位を記録。個人的には一番好きな曲だが、世界に千数百曲というカバーを持つ「イエスタデー」の記録には及ばない。今もってポールの最終目標は「イエスタデー」を越える曲を書くことだ。

そして、我々の今日の願いは、クロアチア戦に勝利することだ。

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ワールドカップで盛り上がる今、水を差すわけではないが、ナチスドイツに翻弄された二人の人物について記しておきたい。

77年前の今日、「アンネの日記」の著者アンネ・フランクはドイツのフランクフルトに生まれた。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を恐れ、一家とともにオランダ・アムステルダムに移住したが、1944年、ついに居所でゲシュタポに捕まり、全員強制収容所に送られ、姉のマルゴーとともに、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられる。1945年3月12日、チフスによって15歳と半年の生涯を閉じた。

そして、142年前の昨日、同じドイツに生まれたのがリヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauß, 1864年6月11日 - 1949年9月8日)。「ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家である。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても名高い」。1940年、彼は「日本建国2600年祝典曲 作品84」を書いている。

彼は、「ミュンヘンで、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ(Franz Strauß,1822年-1905年)の子として生まれた。「ウィンナワルツ」で有名なヨハン・シュトラウス父子と親戚関係はない。

「1889年に初演され、彼の出世作として最初に成功した作品 交響詩『ドン・ファン』(Don Juan )が生まれた。この作品に対する聴衆の反応は、半数は喝采したものの、残り半数からは野次が飛んだ。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、『多数の仲間から気違い扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している』と話した」。

「シュトラウスは他にも一連の交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels Lustige Streiche)(1895年)、後世、映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはこう語った』(Also sprach Zarathustra )(1896年)がある」。

「1930年代以降におけるナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐって多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の帝国音楽院総裁であったこと、当局の要請に応じ、音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを否定的にみる見解」。

「もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果、孫もユダヤ人の血統に連なる事実を指摘し、自分の家族を守るため、彼がナチスと良好な関係を維持せねばならなかった点、また、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外す事を拒否するという危険を犯した点、また彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという示唆もあり、むしろ、シュトラウスはナチスに利用され続け、被害者の立場ですらあるという同情的意見がある」。(フリー百科事典)

シュトラウスは第二次世界大戦終結後にナチスに協力したかどうかで非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。142年前に生まれ終戦後85歳まで生きたシュトラウス、一方、77年前に生まれたアンネが亡くなったのは戦渦の中で、15歳と半年の生涯を終えたその年は4年しか違わない。

ワールドカップを謳歌できるこの平和のありがたさを今日、しみじみと感じる。何はともあれ、今日のオーストラリア戦の勝利を願う。


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