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日本音楽の黎明

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先日、「題名のない音楽会21」を垣間見て、常磐津節という浄瑠璃の演奏を聴きました。話題のブルーマンとの共演でしたが、こんな異色の取り合わせを実現するのがこの番組の真骨頂ですね。最近あまり観ていなかったのですが、これからちゃんとチェックしたいと思います。

さらに、常磐津とこの番組の関わりを見ると、「歌舞伎 meets クラシック」(2005年5月29日)、「常磐津はロックだ!!」(2007年4月8日)、「常磐津 meets ブルーマン」(2008年10月5日)とあり、故・羽田健太郎さんが司会をやっておられるころからの企画だったんですね。現司会者の指揮者・佐渡裕さんは常磐津について次のように語っています。

<Kousyoublog | DeepPurple×常磐津節〜Smoke On The Water〜>
http://kousyoublog.jp/?eid=1660

<【常磐津節】 We Will Rock You 【将門】>
http://d.hatena.ne.jp/kourick/20081130/p2

〜以前「常磐津はロックだ」として、洋楽ロックを伝統的な常磐津の和楽器奏者の方々に演奏してもらったことがあります。例えばディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を、「大江戸の火消し」と常磐津でお江戸風の歌詞に置き換えてやってみたり。収録までは大変でしたが、とても楽しくて、反響もいい回でした。常磐津は伝統的な日本版オーケストラともいえて、ここにブルーマンを加えれば、それはまた面白い世界が広がっていくんじゃないかと感じています。音楽番組だ、クラシックだと、自らを枠に押し込めてしまうと、絶対こじんまりしちゃうんですよね。世の中にはこれだけすばらしい素材があるわけですから、提案していかないと、すごくもったいないと思ってしまいます。〜

<制作者と視聴者の架け橋テレビコ>
http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=80


<「常磐津meetsブルーマン」(2008年10月5日(日)>
http://dogatch.jp/blog/news/ex/0810042824.html


常磐津節(ときわづぶし)は、「浄瑠璃音楽の一種。日本の重要無形文化財。初代常磐津文字太夫(1709年 - 1781年)が延享四年(1747年)に豊後節より創設した。江戸幕府によって禁止された豊後節を江戸化するなかで生まれてきた浄瑠璃の一種で、全盛期を迎えていた江戸歌舞伎とともに発展した。語りと唄との均衡が取れ、整然とまとめられた『落し』と呼ばれる旋律を持ち、この特徴から常磐津節は劇付随音楽として歌舞伎など舞踊劇になくてはならない音曲とされる」。

<常磐津節 - Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E6%B4%A5%E7%AF%80

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日本で最初にピアノをもたらしたのは、1823年6月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となるシーボルト。彼が日本にRolf & Sonsのスクエア・ピアノを持ち込み、帰国前の1828年に、長州の御用商人であった熊谷(くまや)家第4代当主、五右衛門義比が譲り受けたものでした。

それから46年後の1874年(明治7)、ハーバード法律学校(現:ハーバード大学)を卒業した最初の二人の日本人留学生がいました。一人は、1877年4月に東京大学が発足すると、26歳で法学部最初の、たった一人の日本人教授となり、そして1年9ヶ月を経た1879年1月、発作的な自殺を遂げた井上良一(よしかず)。そして、もう一人が、目賀田(めがた)種太郎。一昨日取り上げた、奥中康人さんの著書、「国家と音楽」を参考に目賀田の人となりを追って見たいと思います。

目賀田種太郎は、後に横浜税関長、大蔵省主税局長、枢密院顧問官などの要職を歴任し、貴族院議員として活躍した人で、1880年9月に相馬永胤・田尻稲次郎・駒井重格らと共に専修大学を創設したことでも知られていますが、昨日取り上げた伊澤修二とともに東京音楽大学の設立者の一人でもあります。

目賀田種太郎は、「音楽教育の開祖としてもたたえられた。再渡米中に東京音楽学校(現:東京藝術大学)初代校長の伊沢修二と出会い、日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと共に研究を続けた。日本では、学校教育に音楽教育が取り入れられなかった時期で、11年(1878)、伊沢修二と連名で音楽教育の意見書を文部大臣に提出。米国で師事したルーサー・ホワイティング・メーソン(ボストン音楽学校創立者)に働きかけ、後にメーソンは来日、日本での音楽教育の発展に貢献した」。(ウィキペディア)

目賀田が留学のためアメリカ渡ったのは1870年(明治3)。ハーバードを卒業して帰国後の翌年、彼は、1875年(明治8)に留学生監督として開成学校(現:東京大学)の生徒9人を引き連れて再度渡米することになります。生徒は鳩山和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斉藤修一郎、長谷川芳之助、松井直吉、原口要、平井晴次郎、南部球吾。のちに政財界や教育界で活躍する俊英ぞろいであった。1879年(明治12)帰国。

目賀田はハーバード大学在学中に、ボストン大学付属の雄弁学校にも入学しています。そこで彼が学んだのは、「一般発音の練習、分節発音法、正音楽、正読法、動止法、劇的工作、英文学、論理学、劇的揚読法、音声疾病、喉頭鏡学、聴感学、一切の口頭術、口頭作用に関する学理及び実際研究」と、私など見ただけで辟易する学問ですが、彼が英語の読み方や発音、言語障害の教育に関心を持っていたことがわかります。

「国家と音楽」の著者、奥中康人さんはこの目賀田種太郎や伊澤修二が東京音楽学校を設立した最も大きな背景を次ぎのように書いています。

「彼らは、自分たち(日本人)の声を、文明国のスタンダードに同化しなければならないと(ある意味では強迫観念的に)信じて疑わなかった。それは西洋音楽をそのまま受け入れたり、英語を国語として採用することではない。かれらの念頭にあったのは、構音器官のしくみを科学的に理解し、トレーニングすることによって、より進歩した文明社会にふさわしい音声を獲得しようとすることなのである。それは、伊澤が視話法を、英語の発音矯正ではなく、日本語の教育に用いたところに端的にあらわれている」

明治当初、伊澤と目賀田という二人の官僚が目指した音楽教育は、日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようとするものでした。それは純粋な音楽のための教育ではありませんでした。日本人が西洋音楽の中に、日本人としての音楽の可能性を探って、身をもって対峙しつつ学び、西洋人から認められるようになるには、それから半世紀後に生まれ、昨日文化勲章受章者の叙勲が報じられた、小澤征爾さんを待たねばなりませんでした。

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日本音楽学校(現東京藝術大学)の初代校長伊澤修二については、これまで以下の記事で取り上げてきました。

<「君が代」の成立>2006/1/3(火)
<日本音楽の成立ち(3)/團伊玖磨の講演録「創るということ」から>2006/2/15(水)
<「日本人作曲家の誕生」/日本音楽の成立ち(16/21)>2006/3/28(火)

本書の著者・奥中康人さんは、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター特別研究員で、ご専門は近現代日本の音楽史。本書では西洋音楽を日本にどのように移植していったかがつぶさに述べられています。そういった意味で、伊澤修二が携わった「君が代」についての記述はなく、唱歌についてもあまりページがさかれていません。

とは言え、西洋音楽が明治維新前後の当時において、どのように受け止められ、それを日本に移植するに至ったかについて知ることによって、現代における唱歌の存亡の実態が理解できます。伊澤修二が唱歌を通じて目指したものは、国家、民族としての意識の再構築だったと著者は述べます。

〜維新まで幕藩体制による地方分権下の日本人は、国民意識に乏しく、方言もまちまち、国語も統一されていなかった。また、ドレミが歌えない国は、当時西欧諸国から未開とみなされていたらしい。七音音階を歌えるようにしつつ、歌に国家意識を盛り込んで発音を標準化すること、テレビのようなメディアもなかった時代、国際的に先進国家と認められ、各人に国民意識を持たせる為の政策として、「唱歌」に代表される「音楽教育」はうってつけだったのである。〜(出版社HP)

なぜ、国民意識の構築と唱歌が結びつくのか?伊澤は次のように考えていたようです。

「(伊澤が)関心をもっていたのは、ただ鳴り響く音声だけではなく、音声を発する身体器官そのものと、声にかかわる技術一般、つまり、口腔内の軟口蓋や咽頭や口唇、舌等の器官とその運動にもおよんだ。日本人には特定の音がうまく発音できないこと、特定のピッチが出ないことをまず確認し、近代教育を受けていない日本人の発声器官が、教育を受けている先進諸国の西洋人にくらべて野蛮で未発達であると考えた」。

「洗練された話し言葉をもち、あるいは歌うことのできる欧米の国民のように、日本人が文明的な国民の声をもつためには、その身体能力の差を解消することによって可能となる。つまり、音声器官が改良・矯正の対象となり、その解決のために有効な方法として学んだのが、ベルの視話法やメーソンの唱歌教授法なのである」。

「唱歌は、科学によって裏づけられている(と考えられていた)七音音階で歌われていることが重要であり、そこに文化相対主義的な価値観が入り込む余地はまったくなかった。トレーニングによって音声器官が改良されると、日本音楽も改良されるだろうという楽観的なヴィジョンが伊澤の頭の中にはあったはずだ」

「これは国語問題を例にすればわかりやすい。伊澤は文明国であるアメリカの国語(英語)を日本に移植しようなどとはまったく考えていなかった。言語障害者への啓蒙活動や地方の方言矯正によって、それまでにあった日本語を改良すれば、標準的な国語によって円滑なコミュニケーションがおこなわれるとかれは信じていた」。

「視話法が、英語普及のための道具でなかったように、メーソンの唱歌教授のメソッドは、必ずしも西洋音楽を普及するための道具ではなかった。日本のさまざまな声の文化を均質化、標準化して、それまでにまったく存在していなかった、全国民が同じメロディで声をあわせて歌うためのメソッドなのである」

伊澤修二は明治政府の文部官僚であり、西洋音楽の実相に最初に触れた日本人でした。そういった意味で当然ながら「音楽家」ではありませんでした。ですから西洋音楽そのものを純粋に日本に移植しようとしなかったと言って、彼の功績が失われることがあってはならないと思います。彼の最大の関心は、言葉とその発声でした。晩年の伊澤は、吃音矯正事業に務めたり、東京盲唖学校の校長となって、こうした人々のサポートを行っています。

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今日は「日本の児童文化運動の父」とされる鈴木三重吉氏が126年前に生まれた日です。彼が行った児童文化運動のひとつに童謡がありますが、この童謡と呼ばれる歌が初めて登場したのは大正時代でした。そんな訳で、今日は童謡について取り上げたいと思います。まず童謡について、ウィキペディアでは次のように解説されています。

〜「童謡」は児童雑誌『赤い鳥』の創刊によって誕生したいえるが、この雑誌に掲載された童謡には当初、曲(旋律)は付いていなかった。創刊年の11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』が、翌1919年(大正8年)5月号に成田為三作曲による楽譜を付けて掲載された。これが童謡の嚆矢である。

これまでの難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌を作ろう、という鈴木三重吉の考えは多くの同調者を集め、童謡普及運動あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となった。

『赤い鳥』の後を追って、斎藤佐次郎の『金の船』など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種に及んだ。中でも『赤い鳥』の北原白秋と山田耕筰、『金の船』(後『金の星』と改題)の野口雨情と本居長世などが多くの名曲を手がけ、童謡の黄金時代を築いた。北原白秋・野口雨情は、『赤い鳥』から『童話』へ移った西條八十と共に三大詩人と呼ばれた。〜


昭和に入ると、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになります。現在『汽車ぽっぽ』(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は『兵隊さんの汽車』という題名の出征兵士を歌ったものであったそうです。

そして、太平洋戦争の終戦後は、ベビーブームもあり、再び子供の歌への関心が高まります。この時代には次のような童謡が生まれました。

『ぞうさん』(1948年(昭和23年)、作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨)
『いぬのおまわりさん』(1960年(昭和35年)、作詞:佐藤義美、作曲:大中恩)
『おもちゃのチャチャチャ』(1963年(昭和38年)、作詞:野坂昭如、作曲:越部信義)

その後、歌われる内容は時代と共に変わり、『およげ!たいやきくん』(1975年、作詞:高田ひろお、作曲:佐瀬寿一)や『山口さんちのツトム君』(1976年、作詞・作曲:みなみらんぼう)、『だんご3兄弟』(1999年、作詞:佐藤雅彦、作曲:内野真澄)が生まれ、今では、NHKの「みんなのうた」が新しい童謡を生み出していますね。


以前、松岡正剛さんの「『日本流』-なぜカナリヤは歌を忘れたか」という本を読みました。本書を読むと、童謡の歌詞が、「難解な唱歌や俗悪な歌謡曲ではない、真に子供のための歌、子供の心を歌った歌、子供に押し付けるのではなく、子供に自然に口ずさんでもらえる歌」とは思えないものであることが指摘されています。<『日本流-なぜカナリアは歌を忘れたか』番外書評>に次のようなコメントもあります。

〜「童謡のベースであり背景である「幼な心」や子供文化が日本古来の伝統文化そのものであることや「大人たちはわが子の童心の本体にうろたえているのです」という指摘に代表される童謡への洞察は日本の近代化そのもののコンフリクトをも明らかにしている。〜

それは、童謡第一号である1919年「かなりあ」(西條八十作詞、成田為三作曲)にすでに表れています。

<かなりあ>
唄を忘れたかなりやは 後の山に棄てましょか  いえいえそれはなりませぬ
唄を忘れたかなりやは 背戸の小薮に埋めましょか  いえいえそれはなりませぬ
唄を忘れたかなりやは 柳の鞭でぶちましょか  いえいえそれはかわいそう
唄を忘れたかなりやは 象牙の船に銀の櫂  月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす

この「かなりあ」について、「童謡と唱歌」というサイトに、次のような解説がありました。

〜この歌は、大正7年11月「赤い鳥」に詞が掲載され、大正8年5月に「赤い鳥曲譜集その一」で紹介された。大正9年には赤い鳥童謡最初のレコードを成田の伴奏で、日本蓄音器商会から発売された。八十は東京帝大の国文科と早大の英文科に籍を置いていたが、突然の兄の放蕩から一家没落の悲運に見舞われ、しかも学生の身で老母と弟妹を抱えている苦しさから帝大は2年までで断念し、早大は試験だけを受けてどうやら卒業だけはしたものの働くすべとてなく、闇雲に兜町通いをはじめ・・・その焦慮が少し落ち着くとしばらく中絶していた文学への愛情が激しく燃え上がって来・・・・たある朝、意外な客が彼を訪れた。それが鈴木三重吉本人で、雑誌「赤い鳥」に新しい童謡を書くよう依頼に来たのだった。「カナリヤ」は八十が「赤い鳥」に書いた2番目の童謡である。これについて彼はこう回想している

「・・・この歌詞のモーティフは、幼いとき誰かに連れられていった・・麹町のある教会のクリスマスの夜の光景から生まれた。・・・その会堂内の電灯は残らず華やかに灯されていたが、そのうちにただ1個、ちょうど私の頭の真上にあるのだけが・・ぽつんと消えていた。それが幼い私に、百鳥が揃って楽しげにさえずっている中に、ただ1羽だけさえずることを忘れた小鳥・・・のような印象を与えた。

その遠い回想から偶然に筆を起こしてこの童謡を書き進めるうちに、私はいつしか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。そうではないか。詩人たらんと志し・・・たわたしは・・・兜町通いをしたり・・している・・・まさに歌を忘れたかなりやである・・・・・わたしは幼児のための童謡を書こうとして、いつの間にか自分の現在の生活の苦悶を滲ませていた。

そうして、この歌の末尾の聯は、当時、わたしの心に夜明けていたかすかな希望であった。・・・・・わたしをその象牙の船にのせて静かな海に浮かべ、もう一度詩人の本道に連れ戻してくれた恩人は鈴木三重吉氏と解すべきか、それよりももっと大きな運命の手と解すべきか、わたしは知らない。しかし、・・・この歌がひろく津々浦々にうたわれると同時に、わたしの詩人としての行く道がはっきりしてきたことは事実であった。

後年、・・・ある小学校へ童謡の講演をしに出かけたことがあり、講演の後で、可愛い子供たちが揃って「かなりや」の歌を合唱してくれた。それを聴いているうちに・・・なんともいえぬ感傷的な気持ちになっていつか涙がポロポロこぼれてきた」と。〜(http://www.yukai.jp/~tamumd01/myweb1_051.htm


「大人たちはわが子の童心の本体にうろたえている」、大人たちの動揺であり、大人が自分の童心への動揺を歌ったのが日本の童謡のはじまりであったといえるのです。

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近衛家といえば少なくとも日本の明治期以降、近衛文麿を筆頭に細川護煕元首相まで日本の運営に関わってきた名家ですね。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。皇室内で雅楽を統括する家柄でもあったそうです。摂家とは、藤原氏の嫡流(ちゃくりゅう)で鎌倉時代に成立した公家の最高位の家格。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白に昇任できる家。近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家の5家があるそうです。

この近衛家から日本の音楽界を牽引したのが近衛 秀麿(ひでまろ、1898年11月18日 - 1973年6月2日)でした。指揮者で作曲家。元子爵。元貴族院議員。貴族院議長も務めた公爵近衞篤麿の次男として生まれ、異母兄に近衛文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衛直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいるといいます。

「日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であり、『おやかた』(由来は、親方or御館様が転じたもの。文麿が『殿様』と言われていたのに対し、秀麿が『御館様』と呼ばれていたのがルーツとも言われている)と呼ばれ親しまれていた。正当な評価がされない時期もあったが、2006年には初めて近衛に関するまとまった本が出版されるなど、再評価の動きも徐々に出てきている」。

「学習院、東大美学(中退)で学んだ後パリ、ベルリンに留学。1924年にはベルリン・フィルを指揮しヨーロッパデビュー。同年9月26日帰国演奏会を開き、マーラー交響曲第一番の第三楽章を演奏。マーラーが日本で鳴り響いた最初となった。1925年4月山田耕筰と共に「日露交歓交響管弦楽演奏会」を企画、開催」。

「山田耕筰と共に指揮する。同年、山田耕筰と共に日本交響楽協会(民間初の本格的オーケストラ)を結成。1926年、山田耕筰と対立し日本交響楽協会が分裂。近衞は新交響楽団(現NHK交響楽団)を設立し指導にあたる。1935年新交響楽団の指揮者を辞し、欧米各地のオーケストラを客演指揮する」。

「1937年、NBC交響楽団の設立と同時に指揮者陣に加わる。その後アメリカ国内の対日感情悪化のためベルリンに活動拠点を移す。1945年、敗戦直前のベルリンから脱出、12月帰国。1946年東宝交響楽団(現:東京交響楽団)の発足と共に上田仁と共に指揮者陣に加わる。1950年近衞管弦楽団(後ABC交響楽団。1961年ヨーロッパ公演旅行の混乱により活動を停止)を設立。1973年東京で死去。戦前、前後を通じ、多数のレコーディングを行った」。(「昔のレコードを聴こう」http://www.sound78rpm.jp/index.html

一時期飛行機に熱中した時期もあったそうですが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機断ちの証としてヴァイオリンを正式に勉強することを許されたといいます。1915年からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学ぶようになり、一方で東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味を強めていったそうです。

「日本のプロとしての本格的なオーケストラ活動は、山田耕筰と近衞秀麿によってもたらされたと言っても過言ではないだろう。そして世界的な活動という点で言えば、山田耕筰が日本での活動を中心としていたのに対し、欧米に広く活動していた最初の日本人指揮者として、近衞秀麿の功績は特筆すべきものがあるだろう」。(同上)

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