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日本音楽の黎明

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「あの戦争になぜ負けたのか」(半藤一利他共著/文春新書)を読んだ。昭和初期に政党腐敗が著しく国民の不満が募る中、「コミンテルンつまりソ連による意識的で巨大な政治工作の力が日本の国内に大きく働いていた(中西輝政氏)」。そんな時代情勢の中、現在の権力層を転覆しろというムードが醸成されたとして福田和也氏は次のように語る。

「左翼からはいわゆる社会運動化も派生してきますが、彼らが労働者や社会の下層の不満をすくって活動していくうち、戦争への滔々たる流れになっていくんですね。たとえば社会主義を伝道した添田唖蝉坊という演歌師、いまでいえば反体制のストリートミュージシャンみたいな人ですが、彼は大政翼賛会ができたときに『財閥の時代が終わった』と大喜びで歌をつくります」。

「添田唖蝉坊」とは誰か。調べたみた。
「添田唖蝉坊(あぜんぼう/本名;平吉);演歌師の中心的な指導者。(1872〜1944)
明治5年大磯生まれ。18歳の時に聞いた壮士節に感動、演歌師になる。社会的、ジャーナリスト的な唄を多く作った。♪ 主な唄・・・・・♪ストライキ節(東雲節) ♪ラッパ節 ♪あゝ金の世 ♪マックロ節 ♪のんき節 他多数」

(朝日新聞2005・1.29)に以下の記事がある。
「これほどノンキに生きた、いや、ノンキをまとい続けた人はいないのではないか。『汽車賃と弁当代だけ持ち、旅に出て何日も帰ってこない。私服の刑事がいつもついてね。家族からは疎まれもしたけれど、自由気ままなおじさんが大好きでしたよ』。添田唖蝉坊のめいで横浜市で飲食店を営む添田ひささん(90)は柔和な笑顔を浮かべた」。

「唖蝉坊は明治から大正時代、主に街頭で歌った、今でいうストリートミュージシャンだ。明治5(1872)年、神奈川県大磯の農家の次男に生まれる。横須賀で軍艦のサビ取りなどの日雇い仕事をしていた18歳の時、偶然聴いた壮士演歌が運命を変えた。日本が近代国家へと歩み始めた当時、民権論を唱える血気盛んな壮士は、藩閥政治に抗して演説会を開く。官憲がそれを弾圧する」。

「窮余の一策として歌い始めたのが演説の歌、つまり演歌だ。ざら紙に歌詞を印刷した歌本を1銭か2銭で売り、生活の糧にした。メディアが発達していない時代、演歌師は「歌うジャーナリスト」でもあった。<驚きは興奮に変わった・・・・・壮士節の奴めは、ずるずると私をひきずっていった>と、後の自伝で語る唖蝉坊、まもなく街頭でひとり、演歌を始める」。

「72歳の生涯を終えるまで200近い曲を残したとされる。民衆の抵抗詩人は金権政治や日清・日ロの戦勝におごる世相を風刺し、その姿勢は異彩を放った。ストライキ節、ラッパ節、マックロ節などの歌本が飛ぶように売れた。そして大正7(1918)年に一世を風靡したのがノンキ節だ」。

膨張する膨張する国力が膨張する
資本家の横暴が膨張する
おれの嬶ァのお腹が膨張する
いよいよ貧乏が膨張する
ア、 ノンキだね

「この年、米騒動が起き、インフレで物価は高騰。デモクラシーが広がっていく。調子のいい民謡風の曲調が受け、ノンキだね、は流行語になったという。自身が作詞したノンキ節をLPに収めたフォーク歌手のなぎら健壱さん(52)は、『これは隠喩ですから。ノンキでいられないと逆説的に言っているんです。官憲につかまっても、不条理から目をそらさず本音を歌った本物の人間です』」。

「16歳で敗戦を迎えた音楽史研究家の小島美子さん(75)はこう評する。『ノンキ節の歌魂は、戦争への道を開く空気を感じる現代にも通じる』」。

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ヨーロッパのバロック音楽と同時代の日本について調べる中で、「検校(けんぎょう)」ということばにぶつかった。つい先頃、鹿児島県の取引先に同じ漢字を書いて「けんこう」という読む苗字の方とお付き合いすることになったことも何かの縁か。この検校の存在から室町時代以降江戸にいたる日本が、福祉国家であり、音楽専門家育成の土壌を育んできたことを知る。

バロック音楽初期の同時代は、江戸時代の初期いわゆる元禄期にそのまま当てはまる。この時代の日本の音楽には「地唄」「長唄」、「筝曲」などがある。「もともと地唄三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから「当道座」の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して三曲という」という文言が表れる。

当道座(とうどうざ)とは、「中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織であり、その中の最高官名が検校。「平安時代・鎌倉時代に置かれたもので元々は寺院や荘園の事務の監督をする役職であったが、室町時代以降、視覚障害者に与えられた最高の官名となった。専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。他に視覚障害者の役職としては別当、勾当、座頭などがあった」。女性の組織もあった。

時代を遡ると、「室町時代に検校・明石覚一が『平家物語』をまとめ、又、足利氏の一門であったため室町幕府から庇護を受け、当道座を開き、検校は当道座のトップを務めた。江戸時代に入ると検校の権限は大きなものとなり、惣録検校になると大名と同等の力を持っていた。また、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった」とある。

『平家物語』の語り部である琵琶法師(複数いたらしい)の琵琶はその後、各地で発展し九州・薩摩では「薩摩琵琶」となる。これまでの琵琶を改造し、戦記・合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである。胴を硬い桑に変え、撥で叩き付ける打楽器的奏法を可能にした。撥は大型化し、杓文字型から扇子型へと形態も変化した。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになった。薩摩出身者が力を持っていた明治時代には富国強兵政策とも相まって全国的に流行した」。冒頭の検校さんはおそらく、その末裔なのだろう。

「江戸時代、当道座の属する盲人の人数は、江戸時代を通じて常時3000人程度だったとされる。当時の日本の総人口から推定される視覚障害者の人数は、5万人程度とみられ、視覚障害者の一部しか、当道座などの互助組織に所属していなかったとされる説と、当時のほとんどの視覚障害者は当道座、盲僧座、瞽女座のいずれかに属していたとする説とあって、詳細は不明である」。(以上「」内はフリー百科事典)
当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという。逆に考えればそれまで各地で彼らは保護されていたということである。

*写真は薩摩琵琶

*関連記事(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=539815724&owner_id=9407553)を'07 8/24付で記載

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
いよいよ本シリーズも最終回。明治、大正期では作曲よりも編曲の方がランクが上だった。そんな中で團伊玖磨は奮起する。そして、芥川也寸志や黛敏郎の知己を得、日本音楽の立上げに力を注いだ。

作曲家・青島広志は、日本で自他ともに許す作曲家として團伊玖磨を挙げた。「明治実業家の元老を祖父に持ち、無数に準備された未来の職業の中から、自ら作曲という仕事を選び取ったのである。そして、その名と職業と容貌とが、日本人の脳裏に焼きつけられていること」をあげる。

そして「童謡からオペラまでの間に、交響曲や吹奏楽曲、歌曲や合唱など、ほとんどすべての分野に代表作があること。これは作曲家としての守備範囲の広さと能力の高さを示す」ことをあげ、さらに、「母校の東京藝術大学をはじめとして、どの教育機関とも関係を持たなかったこと。六十年にわたるその作曲活動を、全作品を完結させて生命を閉じたその生き方は、誰もが作曲家と認めるに充分である」と絶賛する。

一方、團伊玖磨の師、山田耕筰は演歌の祖ともいえる古賀政男へも連なる。古賀の結婚式と離婚の仲人を務めてもいる。草創の伊沢修二、古賀、伊福部を除けば日本の作曲家はクラシックを土台として、それぞれの分野に枝分かれする。そして、古賀のライバル、山口夜詩、古関裕而、服部亮一という歌謡曲の作曲家たちが活躍する時代へと移る。團伊玖磨が作曲にかける気概を語る。


僕はなぜ音楽をしたいかというと、ズンジャカズンジャカという音楽が好きだというようなことではなかったんです。僕は歴史学者になるつもりだった。そして、どういうわけか、特に近代史をやりたいと思っていたんですね。

それがこういうことになってしまったんですが、音楽史の本を読んだんですよ。そうしたら、日本は作曲が振るわないと書いてあったんです。大田黒元雄という人の書いた本に、作曲は山田耕筰しかいないって書いてあったんです。ずいぶん無責任な(会場笑)。あの先生はそういう面白い人です。

「あー、それはどうしてだろうなあ。やっぱりそれなら誰か一人、一所懸命やったらいいじヤないか」と考えた。僕はピアノぐらいは習ってもいたし弾けたから、それじゃあ、作曲が面白いかもしれないなと思って、結局、作曲をするということになった。

音楽は音響的にしびれるとか酔えるとか、愉楽の対象としてだけでないことで成り立つものだと、僕はいまでも信じているんです。ただ、ズンジャカズンジャカヤっているのは、その時はいいけれど、50年、100年と作品が残らないと思うんですね。やはり、その民族なら民族、その地方なら地方というものに、刻み付けるような音があっていいんだと思う。

これは、ある意味で学問とまったく同じだと思いますね。だって、明治の絵というのはあるじゃないですか。横山大観とか、大正の絵だったら岸田劉生とか、ひとつの時代を区切っていった梯子みたいな意味の文化、それが音楽にないことは非常に残念で、そういったものを創っていく気概を持たなきゃいけないんじゃないかなと思うんです。もっとお話ししたいことは山のようにありますけれど(会場笑)、きょうはここでお話しをおしまいにします。
(作曲家・日本芸術院会員・東京音楽学校・昭20)

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〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
フリー百科事典によれば、團伊玖磨(1924年4月7日-2001年5月17日)は、「1942年 昭和17 年」、 東京音楽学校(現在の東京芸術大学)作曲部入学。下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学ぶ。学外で山田耕筰に指導を受ける」とある。この間のいきさつを彼が語る。


だから、僕が作曲の仕事をするといった時に受けたその反対は、もう筆舌に尽くし難い屈辱でしたね(会場笑)。そのなかには、とてもいいアドバイスもありましたが、結局、父親に反村されて、父親が山田耕筰と仲が良かったものですから、彼らは不良同士で仲が良かったんだ。それで僕を山田耕筰のところへ連れていった。

その前の晩に父は電話をかけて「反対してくれよ」と言って、山田先生は「ようがす」と言ったって。そして僕は知らないから、前の日に清書したものをゴム輪で留めて、ぶるぶる震えて赤坂の檜町にある山田先生の家に連れに行かれた。

ドアが開いてあの有名な山田耕筰が出てきて、「坊や、どうぞこちらへ」とか言った。そして父親が「これがなんか作曲をしたいと言っておりますが、才能もないに決まっていますし、自分の子供だから才能があるはずはないな」と、自分のせいにしているんです(笑)。あるわけはないから反対してくれとは、僕がいるから言えないんだ。

「……と暴れておりまして、困ったもんでございます。君、なんか書いたものがあるんだろう。見せたまえ」なんて僕に言っているんですね。すると先生が、書いたものには興味を示さないで、「ともかくこっちに来たまえ」と言って、ちょうど日が射している廊下に連れていって、僕の顔を両手で挟んで、太陽に当てて見たんです。そして、「ああ、この子には作曲をやらせましょう」と言ったんです(会場笑)。これは大ヒットですよ。

僕は心のなかで「本当か?」と聞き損なったんじゃないかと思ったんです。父親は、僕がいるから「約束と違うじゃないか」と言えないから、オロオロして向こうの部屋で格子から立ったり座ったりしている。
それから先生は自信に満ちて、「それならこういうふうにして、東京音楽学校に入りたまえ。入る前の先生も紹介してあげる。僕は君を教える時間はない。君が一人前になったら実作を持ってきたまえ。教えてあげる」ということで、実際そうしたわけです。結局、山田先生の一言で僕は作曲をすることになって、お蔭様でなんとか糊口をしのいで、いまもこうしているわけです(会場笑)

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
通称、「月光ソナタ(Mondschein)」もしくは「月光」。ピアノソナタ第14番 。ベートーヴェンの三大ピアノソナタのひとつ。「月光」といえば、ビートルズの「BECAUSE」。オノ・ヨーコがベートーヴェンの月光ソナタを演奏していた時、ジョンは「逆に演奏してくれないか」とリクエストし、そのリクエストに応え演奏するとジョンは歌詞がひらめいたのだというエピソードがある。曲もそのメロディ。


それからもうひとつ、国語の教科書にべートーベンの『月光』について書いてあったのを思い出されるお年寄りの方もあるんじゃないですか。僕は思い出します。

ベートーベンがある夜、ウィーンの街を歩いていた。月が出ていた。とある家の前で、ピアノの音が聞こえている。耳を澄ましたら、「自分の曲を練習している」と思って、その家へ入っていく。見ると、月光の中に目の不自由なお嬢さんがピアノを弾いていた。その情景を見て感動した彼は、一散走りに家へ帰る。そしてその時の印象を書いたのが『月光』というソナタであります、というものです。

こんな滅茶苦茶なことを国語の教科書で教えていたことに、僕はものすごく憤慨するんです。有名な一流の音楽家が、どこの家でも不法侵入しますか(会場笑)。案内もなく、しかも女の子のいる部屋にですよ。ベートーベンが自分の曲を弾いていたからといって、ずかずか上がり込みますか。

西欧の家というのは、日本のように縁側から上がるわけにはいかないじゃない(会場笑)。厚いドアがあつて、ベルなりノックなりをして初めて、薄く開けられたドアから、警戒して「どなたですか」と言われて、それで案内されれば入れるわけでしょう。

しかも、このお話しには嘘が7つも8つもあるんですね。たとえば、案内もなしに廊下をひと部屋ひと部屋覗くのは、泥棒のすることじゃないですか。どこかで音がしたから、見たら目の不自由な少女がピアノを弾いていたって。月明かりだけで、何で目が不自由かどうか分かります?(会場笑)マッチなんかつけて、よほど近づいて見れば分るだろうけれども、分かんないでしょう。

そして最大の間違いは、走って帰ってすぐできる曲じゃないんです、あれは。写すだけでも3日はかかります。いくら早く書いたといっても、写すよりはどうしても時間はかかります。昔の人は書くのが早いといっても、あのソナタ1曲に5日はかけていると思いますね。

そういうふうに音楽家は変な人間、とりわけ作曲家は変で、他人の家にもずかずか入つていって、女の子の部屋にも入っているような、痴漢まがいのやつで、仕事といえば一晩で何でも書いちゃうというような、そういう印象でもって、国語の時間に作曲家は位置を創られたわけです。

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