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大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

日本音楽の黎明

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〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
「ゆとり教育」の弊害は、皮肉なことに学力の低下という形で現れた。同時に小学校教育における個性の重視ということにも疑問が投げかけられている。明治に始まる日本音楽教育では、「自分」が徹底的に排除されたと團伊玖磨は語る。見直される「個性」の重視と「エゴ」の排除の狭間で、「自分」のない音楽教育が果たしたものは何だった。


それからもうひとつ、学校ですから、当時の学校は「個性」というものやなんかを嫌ったんじゃないですか。歌に「自分」が出てこないんです。極端なことを言ったら、「人間」も出てこない。つまり、花鳥風月になっちゃう。

西欧の歌は全部、「自分」が好きだ嫌いだといった卑近なことから、「自分」と神との関係や契約ということを言っている。ところが、日本は違うんですよ。ぜんぜん「自分」がないんですよ。たとえば、

♪ゆ−きやこんこ/あられやこんこ/ふってもふってもなおふりやまぬ/い−ぬはよろこびにわかけまわり/ね−こはこたつでまるくなる♪
というの。

で、君はどうしてたのかと(会場笑)。そうじゃありません?君は何をしてたのか、寝てたのか、と。犬は駆けまわって嬉しかろう。猫は寒かろう。君はそこにいなかったのか、と。君がどうしていたのかっていうのが、欠けてしまったんです。これは小学唱歌、全部に言えます。

少し「自己」があるのは、「うさぎおいしかのやま/こぶな‥…・」でしょうが、でもなんかはっきりしないでしょう。それから、

♪さぎりきゆるみ−なとへの(さ霧消ゆる湊江の)♪、
いい歌だけど、西洋の音階でできている。

私たちの年齢で習った小学唱歌に「自分」がどのぐらいあるかを、徹底的に調べてみましたら二つだけありました。それは「われは海の子」(会場笑)。
  ♪わーれはう−みのこし−らな−みの(われは海の子/自浪の)♪

これはどういうわけか「われ」がある。しかも最初にある。これはたいへん珍しいんです。それからもうひとつ、6年生の教科書に「スキーの歌」というのがあって、そこに「ストックかざして我は翔ける」とあるのね。この二つだけに「われ」がある。

それも、普通の言葉で「あたし」とか「わたし」とかいうのはないんですよね。「われ」っていうのは、なんか概念でしょう。子供にとっては特にそうです。「自分」のない音楽というものが、ずっとでき上がってきてしまった。

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〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
今の学校での音楽の授業がどうなっているかわからないが、我々の頃の授業は全くつまらなかった。「音を楽しむのが音楽」という教師の授業は楽しませるものではなかった。その理由について、團伊玖磨は説明してくれる。写真は山田耕筰。


もう時間ですから、あとたったひとつだけ追加のお話しをします。そして、山田先生の弟子は僕です(会場笑)。ですから、なんというか、いかに短い歴史か。日本の音楽の歴史なんていうのは、非常に短いのです。

ともかくひとつ申し上げたいのは、僕は、「作曲」ということは、ある種の製図と似ていると思います。あるいは、レースを編む、その基本の製図に似ていると思うんですね。つまり、音を書く、具体音を書くのだけれども、それはあくまでも演奏者に任せる。

ヨーロッパでだいたい250年かかって完成した、ひとつの製図法であり、ひとつの表現法であり、約束事が多い表記と言いますかね。音楽の言葉では記譜法というんですが、その記譜法に従って書いてあるわけです。

ところが、日本で困ったことがひとつあるんです。西欧は、さっき申し上げたように、精神がいちばん高揚すべき教会で音楽が育ちましたでしょう。日本では本来、江戸時代までは、最も卑近なところで音楽が育っていたんです。

まずいちばんの中心は、遊里です。江戸で言えば吉原。つまり、芸事と一緒に音楽が育ってしまった。これは、教会で育ったのと反教会(会場笑)、極端な遊里で育ったということは、どうしたって音楽の質を変えるでしょう。

向こうは大勢で神を称えて歌おうといっているのに、こっちは「はぎくらやひとにかくれたひるあそび」というのを(会場笑)、なるべく聞こえないように、三味線を打っているようなことになるわけです。これは質的にしようがない。そして、明治維新直後の政府は、それを変えようと言って大いに変えたつもりで、伊沢さんたちは教育を音楽の住処にしようとした。

いいですか、ある意味では先見の明もあったかもしれないけれど、ここは大変ある意味で残念で、簡単に言えば日本の音楽をつまらなくした。つまり、音楽は学校を住処にした。当時、学校令を作っていますから、ピアノもオルガンもないのに、音楽の教科書を作っているんですよ。明治5年ぐらいに出た発布令には、「音楽の時間は、当分これを欠く」というのが最初ね。

それからその次は、大声をあげて歌詞を朗読する。当時、音楽の授業は楽器はないし教える人もいないから、たとえばこれは教科書の歌じゃないけれど、「はるのうららのすみだがわ」とワーツと言って読んでいたんですね。音楽の授業は、まったく音楽的でないことから始まったんです。

そして、困ったことには、その頃、先生がいないし、学校というものはどうしても当然のごとくきちんとしています。そして、愉楽の場所じゃありません。いまはずいぶんスポ―ツなんかをやるようになって愉楽だけど、当時の学校はやっばり直立不動という感じが多いわけでしょう。

四大節(しだいせつ)には式があって、というようなことですね。そこに音楽を音楽教室に住み込ませようとしたところに、どうしようもない、いまに続く宿命があるんです。

学校というものと共生しなかったのはただひとつ、軍隊なんです。僕は両方の経験をしましたけれども−、芙際に軍隊で創られ演奏されていく音楽と、学校で創られ演奏されていく音楽は質が違うんですね。
いま戦争は否定の世の中ですが、でもこれを歴史として見ますと、海軍の軍楽隊と陸軍のそれでは海軍のほうが優れていたと僕は思いますが、たとえば軍艦に乗っていた楽長が、いまに残る「軍艦マーチ」なんかを書いているわけです。いろんなものを書いている。

陸軍の軍楽隊も、いろいろな音楽を書いている。文部省が作ったのは教科書だけ。それでいいのですけれど、その教科書の編集には音楽の方針がなくて、あくまでも日本的なものを排除したんですね。どういうわけでしょうかね。まったく西欧の節の猿真似じゃないですか。たとえば、♪うさぎおーいしかのやま(うさぎ追いしかの山)♪でも、「ドレミファソラシド」でできている。日本の音階ではできていない。

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〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
長い回り道を終え、やっとこのブログシリーズ「日本音楽の成り立ち」というタイトルに相応しい話題となる。東京音楽学校(現東京藝術大学)初代校長でもある伊沢修二、滝廉太郎が登場する。「フリー百科事典」によれば、滝廉太郎の妹のトミは、ジャーナリスト・筑紫哲也の祖母にあたるという。写真上は伊沢修二、下は滝廉太郎。


話しを日本に戻しましょう。日本はそういう洋式調練から、必要があって音楽が入ってきたけれど、やはり公に音楽を脱亜入欧のために教育に取り入れようと思ったんですね。それで伊沢修二がアメリカに行ってダメで、ドイツに行った。ただ、ダメといってもアメリカに留学して、先生を一人連れてきたんです。

メーソンというボストン近郊では有名な人だったらしいんですが、僕は非常に凡俗な人だと思いますが、外人教師の第1号です。つまり、英国系の教科書を使っているわけだから、英国の歌を日本の子供に教えようと単純に考えた。だから、教科書を編纂する時に、スコットランド民謡やアイルランド民謡が日本の小学校にたくさん入っちゃったんです。

もしメーソンがドイツから来た人だったら、ドイツ民謡が入ったでしょう。英国には、いい歌がちょうどたくさんありましたから、英国の歌でも別にいいんですよ。ともかく現在まで続く伝統というのは、そういうことで、できていくということです。

そして、最初の作曲家が現れる。日本でいちばん最初に誰が作曲したかというのは、たぶん伊沢修二だと思うんです。たとえば、伊沢修二の作曲でご存じかなと思うのは、昔の方はご存じでしょう、「紀元節」という歌です。第1節、あれは何でしたっけ。「雲に聾ゆる」かな、そうじゃないか。
  ♪ラーラーロ―ララララーラララララー/ララララー あおぐきょうこそたのしけれ(仰ぐ今日こそ楽しけれ)♪ですね。

2番が、♪うなばらな−せるはにやすの−(海原なせる埴安の)♪。ともかく 「紀元節」を創った人が洋楽を輸入した人であり、初代の東京音楽学校長で教育家でもあったわけです。そのへんから「作曲」ということがだんだんに出てきて、あれもそうじゃないですか。

東大の総長だった外山先生。外山ちゅざん)という人ね。外山先生の作詞の、「来れや来れ/みな来れ」かな。あれらのものも、その頃、少しずつできているんだけれど、みんな本職ではない。いよいよ本職というのは、滝廉太郎という、明治12年に生まれた人が出現するんです。これはやっぱり最初の天才が必要だったんですたいへん上手くて、いろんなものの初演をしていて、じゃんじゃん作曲を好きでして、そして相棒の女生徒――これは非常に清らかな愛情ですね――東くめという仲間に作詞を頼んで、それで作曲をする。書きも書いたり、すごくいいものをたくさん書いたわけです。

そして、学校に認められてライブツイッヒに留学する。ライブツイッヒは有名なメンデルスゾーンが創った音楽学校で、いまもありますが、いい学校です。ただ、あの寒さと、ライプツイッヒというのはなにかこの一種の湿度もあるんだな。なんかこの健康地じゃないですね。そして、もともと肺結核だった滝廉太郎は、到着してちょっとして、すぐ結核がひどくなって送り還されてしまう。そして、故国の大分竹田に帰って、すぐ死んでしまいました。23歳で死んだんですね。23歳までにですよ、たとえば「箱根の山は天下の瞼」だとか、

  ♪は−るの−うら−ら−の−す−みだがわ(春のうららの隅田川)♪とか、
  それから 「荒城の月」とか、あるいは「散歩唱歌」とか、
  ♪ぼっぼっぼ/はとぼっぼ♪とか、
  ♪もういくつ寝るとお正月♪という歌だとか、

書きも書いたり、子供の歌は全部創っちゃったのね、基礎を。それで、23歳でさようなら(会場笑)。唖然とするようなことです。その間には、ベートーベンのソナタの初演もあります。いろいろな音楽が満ち満ちている人だったと思うんです。顔写真を見ると、強度の近眼鏡で、あまり風采はあがらないようだけれど、やっぱり今の流行りの言葉でいうとオーラというんですか、光を発している人だったようです。

そして、その7年後輩が山田耕筰です。そして、その1年後輩が信時潔さんという、これまたすごい作曲家が出ます。山田・信時という人が同時に出るわけです。そして、日本の洋楽は、創作面からもどんどん上がっていきます。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜

教会と王政の中で育まれたクラシック。当初は庶民にものではない。ただオペラだけは違うと團伊玖磨は解説する。


こうお思いになるといいんですね。関ケ原の戦いは1600年でしょう。つまり、16世紀と17世紀の頃です。そして、最初のオペラがフィレンツェでできたのが、1600年です。ちょうど天下分け目の時に、フィレンツェで最初のオペラができる。

16世紀というと、もう17世紀よりずいぶんと前のことなのに、オペラは新しい芸術で、初めてそこでできるんです。そして、演劇というものがあるじゃないか、音楽というものがあるじゃないか、歌というものがあるじゃないか、いろんなものがあるんだから、それを一緒にやったらどうだろうって、いい考えですよね。

そして、非常に新しい傾向の貴族の若い坊ちゃんたちが、揃ってオペラというものをやってみた。やってみたらば、みんな泣いて騒ぐほど成功した。そして、オペラが市民権を得て50年後には、イタリア中には500軒のオペラ座があったという、そのぐらいに流行するんですね。

そして、イタリアからフランスヘ、それからドイツへ、イギリスヘというふうに、だんだん旅回りの劇団が行くようになった。ですから、オペラだけはドイツでもフランスでも、はじめのうちは全部イタリア語で歌っていました。いまでもそういうことは多いのです。

ところが、これに目覚めたのはさすがに文学的な国のフランスです。フランスはフランス語でやろうよということになって、ごく初期にフランス語のオペラができます。ドイツは目覚めが遅くて、オペラはどうしてもイタリア語じゃなきゃダメだと言っていた。

たとえば皆さんがご存じのモーツアルトは、一生の前半に書いたオペラはイタリア語で、最後の二つ、有名な「魔笛(Zauberfloete)」と、「後宮よりの脱走(Entfuhrug)」だけがドイツ語です。

当時の作曲家はイタリア語ができなければ商売にならない。イタリア語で作曲するのが当たり前で、ベートーベンも、毎週木曜日の晩は、イタリア語のレッスンを受けるために先生を自分の家に呼んできて、イタリア語を一所懸命、勉強した。だから、あの人にはイタリア語の作曲もあります。あまりうまくないけれど、あります。やはりイタリアがヨーロッパの音楽の先生だったということが分かります。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜

ともかく、この話はどこから行ったんだ?(会場笑)あ!すべてが教会で育ったと。記譜法もそうですし、あらゆることがそうです。そして、音楽自体も神を賛美するために創られました。西洋音楽の7割ぐらいがほとんど宗教楽だと言っていいでしょう。

僕たちはベートーベンの交響曲とか、宗教楽という域を離れたものをたくさん鑑賞していますが、その後ろには、ベートーベンだってバッハだってヘンデルだって、ほとんど一生、教会のために書いているわけです。

バッハなんかは教会に雇われて、教会の先生をして、教会の合唱隊と喧嘩したりしながら、黙々と作曲をしていたんですね。彼は熱烈な新教徒です。ドイツでは、新教が盛んになったところから音楽が新しくなるわけです。ルーテルのおかげです。

ヘンデルもドイツに生まれて、イタリアでオペラの作曲家になって、ロンドンに上がってバッキンガムの楽長になりますから、やっぱり英国教会の音楽を書いていたんです。一生を方々で教会のために書く。
その当時、まだ演奏会らしいものはないんです。演奏会というのは、フランス革命が基調になって、王様が聴いていた音楽を僕たち民衆も聴こうじゃないかということから始まりました。

いままでは有名な演奏家は王様の係だった。彼らにお金を出せばやってくれるだろうというので、演奏会場を造って、切符を売って演奏会をするのはごく新しいことです。だいたいここ170から180年だと思えばいい。ですから、その前は、音楽は一般の人たちのものではほとんどない。ベートーベンでも、どこかのお屋敷に雇われていって初演したりしたわけです。ただし、オペラだけは遠違います。


以下「フリー百科事典」より、フランス革命とフランス国家を引用しておく。
<フランス革命>
フランス革命(1789年7月14日 - 1794年7月27日:フランス革命暦9年Thermidor9日)はフランスでおきた典型的な市民革命。近代市民社会の成立に影響を与えた。大革命とも言われる。

1794年のテルミドールのクーデタによって革命は事実的には終了したが、革命の影響によって国内は混乱を極め、1799年のブリュメールのクーデタにまで至った。なお心理的な革命の影響は、1801年にナポレオンがローマ教皇と結んだコンコルダートによってフランスに国教(カトリック)が復活するまで継続した。

フランス本国においては基本的にはよい評価であったが、研究が進むにつれ昔と比べると否定的な意見も出ている。恐怖政治については賛否両論である。また近年、処刑されたルイ16世の再研究と再評価が行われるようになったが、マリー・アントワネットについては行われていない。

<フランス国家>
フランス各地で組織された義勇兵達がパリに集結し、ヴァルミーの戦いを期にプロイセン軍と戦う。(このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌「ラ・マルセイエーズ」は後のフランス国歌となる)。

この歌は当初、フランス王ルイ16世によるオーストリアへの宣戦布告の知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、当地のルージェ・ド・リール (Claude Joseph Rouget de Lisle) が一夜にして作詞作曲したものであり、このとき付けられたタイトルは『ライン軍のための軍歌』 (Chant de guerre pour l'armée du Rhin) であった。

なお、現在7節あるうちの最後の節(「子供の歌」)は同年10月に付け加えられ、ジャン=バティスト・デュボワ、マリー=ジョゼフ・シェニエ、デュボワ神父の作だと言われている。

その後、テュイルリー宮襲撃の際、パリ入城を果たしたマルセイユ義勇軍によって歌われたのをきっかけとして、現在の『ラ・マルセイエーズ』という名前になり、さらに1795年7月14日には国歌となった。

第一帝政から王政復古にかけては禁止されるに至ったものの、1830年の7月革命以降は晴れて解禁となり、第三共和制下で再び国歌に制定され、第四共和政の1946年憲法、第五共和政の1958年憲法いずれにも『ラ・マルセイエーズ』を国歌として定める旨が明記されている。

1830年にはベルリオーズが独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲を施し、また、1979年にはセルジュ・ゲンスブールがレゲエ・バージョンを歌った。

尚、現在の国歌についてフランス国内では歌詞、または歌その物を作り直そうという動きがある。これは歌詞その物が子供に歌わせるには過激である為と言う意見からの物であるが変更には至っていない。

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