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日本音楽の黎明

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〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
長い脱線から純粋な音楽の話に戻る。団伊玖磨はその起源、キリスト教に誘う。宗教がもたらす文化は数多くの芸術を産み、ことに音楽においては再現の必要性から「楽譜」を編み出す。以前、ここで「五線譜の功罪」と題したブログを書いたが、團は五線譜について興味深い話を聞かせてくれる。


ただひとつ、もともと芸術は全部そうかもしれないけれども、音楽は苗床が要るんじゃないかと思うんです。たとえば西欧では、音楽はキリスト教の教会で育ったわけです。キリスト教以前の音楽は、ほとんどありません。

キリスト教がローマから入ってきて、だんだん北に北にと広がっていく。その時に、教会をどんどん建てます。教会では必ず讃美歌を歌い、神を崇め、なおかつ、いろいろな儀式を行う。それには音楽が伴うことが通常でしたから、音楽と教会とは切っても切れない関係になっていくわけです。

美術もそうだと思うんですね。当時の絵画は全部、たとえば「最後の晩餐」なんかは宗教画でしょう。ルネサンスの時まで、つまり人間が人間の芸術を取り戻そうという時までは、ほとんどが宗教画でした。

音楽もそうでした。たとえば歌を歌うには、ある一定の揃え方をしなきゃならないから、合唱は教会でシステムが創られましたし、その合唱をうまく歌うには、「せ−の」と揃えなきゃいけない。そうすると、指揮ということが生まれてくる。指揮法は完全にキリスト教の教会で生まれました。

それから、忘れないようにいように音符を書いておかなきゃいけない。その記譜法、符を書くことは全部、教会でできました。これは、9世紀終わりとも10世紀とも言われるんですが、フランスのラテン系の司祭のギゾーという人が、線の上に音を書くことを考えついた。

教会には羊皮紙にいろんな線で書かれた厚い楽譜があって、ヨーロッパの骨董屋にいらっしやると、悪い坊主が骨董屋に売った昔の楽譜をたくさん見かけます。それらは1線もありますが、ほとんどが3線ですね。4線もあります。現在は5線紙と言って、私たちは5線の上に音符を書きます。

こういうふうに発展してきたんだから6線がいいだろうと言って、6線を考えた人もいます。しかし、人間の目の構造は5線は見られるのに、6線の複雑な位置にあるものは同時に見られないんですね。不思議なもんですね.なぜかというと、5線というのは、真ん中がはっきり見えるんです。上が2本、下が2本、等間隔に書いてあっても、真ん中がすぐ分かる。

そうすると、1番下の線、上の線、真ん中が同時に見えますから、どこの音かがすぐ分かる。1本だけでも増えると、どこが真ん中か分からない。真ん中と真ん中の間であることは分かるんだけれども、線が分からないんですね。実際に6線で刷ってみた楽譜を見たことがありますが、どうしても分からない。でも、はじめのうちは3線だった。それから4線時代も多い。ニコライ堂で使っていた昔の楽譜には、4線があったようです。

ただし、海外旅行にいらして、羊皮紙に刷ったいかにもそれらしく古びた楽譜、といっても、おそらく木版でしょうが、その下にラテン語の経文が書いてあるものは、お買いになることは自由だけれど、本物だと思っちゃいけない(会場笑)。

イタリアに、有名な贋物を作る会社が2軒あって、売っているそれらの楽譜を見ますと、ほとんどどっちかの製品なんです。良心的なんじゃないかな。そこの会社のハンコが押してあるんだから(会場笑)。つまり、歴史的文物を模造で売っているんですよ。だから、これを本当だと思って買ってきちゃいけない。僕もずいぶん買いました。ただし、部屋の装飾としてはたいへんいいですね。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」〜
今回の話に登場する「目賀田種太郎」については、明治の初めに「法律を学ぶ日本人留学生や留学生監督として在米、留学生を支援監督するかたわら欧米の教育制度を調査研究していた」ことと専修大学の創立者の一人であることがわかっている。


明治維新直前・直後もそんなようなことだったけれど、さあ、明治維新がなると、まず「脱亜入欧」という言葉が正しいかどうかは知らないが、「アジアを捨ててヨーロッパー辺倒に」ということで、当然、音楽も公に入るようになりました。

そして、最初はどういうわけか、アメリカに留学したんです。目賀田種太郎という人と伊沢修二という、後に台湾総督府の役人になつた人で、教育畑を一所懸命やって、作曲もした人が、アメリカに行ったんですね。ところが、どうもアメリカは音楽が盛んじゃない。考えてみればヨーロッパの移民だから、ボストンあたりの学校ではイギリスの教科書を使っている。

それではイギリスに行ったほうがいいじゃないかと、ヨーロッパの事情をよく調べる。すると、音楽はやっばり、ベートーベンなどという偉い人を輩出したドイツだということになる。どういうわけか、オーストリアと言わないでドイツになったんですね。それで、みんなドイツに勉強に行く。

明治の特徴は、水平線の向こうを見て、いちばん優れた実績を上げている国に留学する。だから、絵描きはパリにいいのがいたから、みんなパリに行った。お医者さんは、みなドイツに行った。音楽家もドイツに行った。そうすると、文化というものは言葉まで入ってきちゃうんですね。だから、絵描きさんは「ガッシュ」だとか、ビロビロ着るものを「タブリエ」と言ったり、フランス語まで入つてくる。

お医者さんは、「カード」でいいのに「カルテ」と言ったり、患者のことを「クランケ」と言ったり、ナイフのことはドイツ語で「メス」と言うでしょう。それからはみんな、ドイツ語の、何かちょっと隠語みたいになって使っている。同じように、音楽もはじめは英語でしたが、アメリカをやめてドイツにしてからドイツ語が入ってくることになります。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
日本人は子供のような純真さで諸外国の文化を吸収していく。そして大人の理性で換骨奪胎して自分たちの文化として再生する。それは国家というより、團伊玖磨の言う、地方から「そーっと」という形で。それは「行進」という様式までにも及んだ。


不思議なことですが、日本人は足並みを揃えて行進することを知りませんでした。これは信長の時代も秀吉や家康の軍隊も、誰も知らなかった。だから、当時の軍隊は、ただバタバタ駆けるだけで、歩くなら、ぞろぞろ歩くだけ。

映画などで見ますと、四十七士の討ち入り(注1)は山鹿流陣太鼓(注2)を打って、雪をサッサッサッサッと踏んでくる感じじゃないですか。でも実際はそうじゃない。山鹿流陣太鼓は、威勢づけに打っても、歩調を揃えるための太鼓ではないのです。したがって、山鹿流は鳴っているけれど、雪を踏んでぞろぞろと行った、これは間違いのないことなんですね。当時の絵を見ると分かる。足並みを揃えることは知らなかったんですね。

洋式の軍隊の調練をするには、まず足を揃えることから始めますから、困った薩摩の軍隊は、それをするためにはどうしたらよいかということを外国人に相談した。それにはラッパ鼓隊を使うといいというので、ラッパも輸入し、西洋太鼓も輸入し、ドンガドンガやりながら「1、2、1、2」と歩いていくことから勉強を始めていたんです、すでにペリーの頃に。

宇和島とか未来に目覚めた人たちはわりに早く、明治のごく初年には洋式の鼓笛隊ができ上がっていた。信州なども意外に早いんです。「宮さん宮さん/お馬のまえにひらひらするのはなんじゃいな」というのは、鼓笛隊です。鼓笛隊を先頭に、つまり当時のモダン音楽を先頭に、有栖川宮熾仁親王はやってきたし、明治天皇もことによると、明治2年に京都から江戸に来られる時に、それを鳴らしてきたのかもしれません。

(注1)四十七士の討ち入り
「元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)」は、江戸時代中期の元禄15年12月15日(1703年1月31日)未明に大石良雄(大石内蔵介)以下47名の赤穂浪士が主君であった赤穂藩主浅野長矩(浅野内匠頭)の仇であるとして吉良義央(吉良上野介)の屋敷を討ち入り、吉良上野介を討ち果たした事件。赤穂浪士の討ち入りなどとも言われる。曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。この事件を基に脚色した物語ものの総称を忠臣蔵という

(注2)山鹿流陣太鼓
山鹿素行が赤穂に配流になった縁で、藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。
雪の降りしきる夜、赤穂浪士はそろいの山形模様の羽織を着込み、大石内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが映画やテレビドラマ、演劇の定番である。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。門を叩き壊す(破っている)時の音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装であり、赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。羽織などの着用もばらばらだったといわれている。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」から〜
日本の古来の音楽は雅楽だと思っても、それはやはりもとを辿れば中国からの輸入である。その輸入した音楽を日本人として馴染み易い形に洗練していく。評論家の加藤周一は、こうした日本の文化を「雑種文化」名付けた。團伊玖磨は、日本が国家としてどう外国の音楽と向き合ったかを述べる。


それはともかくとして、「作曲」なんていう言葉がない日本に、どういうふうに西洋音楽が入ってきたか。いままではなんとなく漂流してきた男とか、それとなく中国からやってきた人だとかが、いろいろな音楽を持って入ってきた。日本には三つだけ正式な国家の方針として音楽を入れた時期があります。

まず最初は唐楽を入れた飛鳥朝、つまり天平の文化の時です。あの時は、律令、法律自体を入れた。入れたというか模倣したわけだから、建築も模倣したし、音楽も雅楽を入れたわけです。

その次に、半分正式で半分正式でないが、キリシタンが来た時です。当時、信徒が増えるとともにキリシタンの讃美歌が一般化していって、相当、根を張りそうだったんです。ところがその後、凄まじいキリシタン弾圧で、あらゆる音楽的遺産をぶち壊しました。

安土にも大分にもパイプオルガンがあった。織田信長が創らせたセミナリヨには、本当のパイプオルガンがありました。五島列島の竹のパイプでオルガンを組み立てたこともあるんですね。現に、フィリピンには竹のオルガンが、マニラの郊外ラス・ピニアスという村にひとつあります。ところが、秀吉・家康の時代になると大弾圧でもって、セミナリヨは跡形もなく壊され、本も焼かれ、音楽自体も歌うことを禁じられた。

音楽というのは、まずいことには人に聞こえますでしょう。そーっと読むのとは違って、あるいは書いているのと違って、すぐバレてしまう。だから、異教徒のものとして大弾圧を受けて、消えてしまいます。
わずかに九州の離島に、「歌おらしょ」という、当時の讃美歌が残っていると言われ、それを研究している立派な学者もいらっしゃいます。でも、実際には、それは一般のいまの日本人に影響はないですね。ほとんど消えてしまった。

3番目に、音楽を正式に聞いたのはいつかというと、ペリーの浦賀への上陸の時です。あの時の艦隊は不思議な編成で、「たった四杯で夜も眠れず」ですから4隻なんだけれど、驚くなかれ、旗艦が二ついたんです。これは違う艦隊だったんです。それをマカオから集結した時に、何か編成上の理由もありましょうが、旗艦が二つ来ちやったんですね。普通の軍艦が2隻、旗艦が2隻、それで日本にやってきた。旗艦には軍楽隊、つまり音楽隊が乗っているんです。

これは世界共通の認識で、日本もそうでした。だから、ペリー上陸の時には、音楽隊が2隊いたんです。これは普通の倍です。1隊は、正式には50人です。しかし当時は、50人はいないと思う。25人から30人ぐらいが2隊いたわけでしょう。

それが音楽を奏でながらカッターを漕いで、ペリー上陸地点という久里浜に上がったわけです。日本人は仰天したんですね。音楽を鳴らして軍隊が来るって、そんなこと考えたこともありませんでした。それが幕末に日本人が聞いた洋楽の公の瞬間です。でも、その前に、九州薩摩藩はすでに、そ一っと洋式調練という西欧の軍事教練を始めていました。

〜團伊玖磨の講演録「創るということ」〜
今回の話には、奥好義という作曲家が登場する。詳細は本文以外には不明だが、作品の一つに「婦人従軍歌」(作詞:加藤義清 作曲:奥好義)がある。「従軍看護婦を歌った、世界的にも珍しい異色の軍歌。作詞者が、駅で出陣する従軍看護婦の姿を見て感動し、一晩で一気に書き上げたもの。赤十字の精神についても言及がある」。「軍歌」は世界的なものも含めて調べるに値する量がある。


ところで、面白いことを中国で聞きました。中国のことですから、革命的な人間は海外にたくさん留学しました。たとえば、郡小平はパリに行った。周恩来は日本に来た。ちょっと前の時代の人も来たし、蒋介石も日本で勉強した。

「社会主義」なんていう言葉は、中国は日本から習ったんですね。だいたい「主義」という言葉は、日本が元じゃないかと言われている。指導者を言う「幹部」という字がありますでしょう。この言葉は、確実に日本人の発明だそうです。そして、中国人が大好きな言葉で、「共産党幹部」とか、新聞を見るとすぐ書いてある。すべての中国人が「これは日本から習った言葉です」と言います。

そういうふうな日本の明治時代の造語が、どんどん中国に行った。驚くなかれ、歌まで中国へたくさん行った。たとえば日清戦争の時の軍歌が、いくつも中国の軍歌になったと言われています。変でしょう? その頃、騒擾を起こしていた、
「煙も見えず雲もなく/風も起らず浪立たず/鏡のごとき黄海は/曇り初めたり時の間に」という歌があります。
♪けむり−もみ−えず− く−ももなく−♪って、いい節ですね。

あれは雅楽寮の奥好義(おく よしいさ)という天才が創ったの。あの人は、ことによったら 「君が代」も創ったんじゃないかと言われています。奥さんの姓も一字で、中国系の人ですね。「火筒の響き遠かざる/跡には虫も声たてず」という「婦人従軍歌」というのをご存じじゃないでしょうか。奥好義はこの歌も創っています。
♪ほづつ−のひびき−と−おざ−かる−あーとにはむ−しの−こーえた−てず−♪

すごくいい歌です。現代としてもすばらしいメロディ。それも日清戦争の時、作曲したんですね。
もう、わざとどんどん脱線しますが(会場笑)、おかしなことですが、軍歌は日清戦争の時が一番いいんです。それは、たくさん創らなかったから。日露戟争になると、前線からのニュースのようにして歌を創ったんです。

たとえば『橘大隊長』。ある大隊長が大活躍したというと、すぐそれが銃後の歌になるんですよ。そんなことをするから数が多くなりすぎちゃって、残念ながら全体の質が落ちていく。いいのもありますが、詳しく研究してみますと、日清戦争の時の歌にはかなわない。

日清戦争はまだ、音楽というもの自体が新鮮なんですね。新鮮である上に、外戦ということも徳川時代にはなかったわけだから、戦争も久しぶりというか新鮮だった。それで案外よい歌が創られて、隣の恐ろしい大国と戦争をすることも勇気づけたんでしょう。たとえば、「雪の進軍/氷をふんで」という歌があります。あれも日清戦争の歌でしょう。「夜具の黍殻シッポリ濡れて」なんて、作詞もなかなかいいです。さっきお話ししかけた「煙も見えず雲もなく」は、中国の教科書に載りました。

中国で最初の音楽の教科書は『学童学歌』と言いまして、日本で勉強した李淑同という男が編纂しました。この人は、初めての美術教科書も創りました。この中に「煙も見えず」があるんです。これは「革命軍」という名前なんですね。

言葉が反中国的だから変えて、節はいいから使ってという歌は、いくつもあります。いまの方はあまりご存じないけれども、むかし、『寄宿舎の古釣瓶』という歌があったんですね。
♪な−わこ−そく−ちた−れ/こ−のふ−るつ−る−うベー(縄こそ朽ちたれこの古釣瓶)♪
というユーモラスな歌です。小山作之助という人が作曲したんですが、この歌もすごいです。八路軍の進撃の歌(「中国男児」)になりました(会場笑)。

つまり、文化というものの凄まじさは、その創られた目的から離れて、相互影響と相互利用がすごいということです。だから、日本の朝廷の音楽に唐楽を用いることも、考えてみればおかしなことですが、仮名を創ったように、唐楽が入ってきて200年ぐらいすると、日本人は自分たちの雅楽をどんどん創りはじめました。

これを「左方」「右方」と言いますが、左方は唐楽、右方は高麗楽です。日本で創られた雅楽もたくさんあって、日本語が付いている歌もたくさんあります。そういうことを考えると、日本人の何でも発展的に利用していく力は、現在もそうであるように、ひとつの特性なんじゃないかなと思う。それに比べて中国人は、それほど小器用ではないわけですね。

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