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日本音楽の黎明

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團伊玖磨の話は、雅楽の流入を「遠くインド、そしていわゆる西域の国々で交流して、しかも仏教とともに交流したものが多い」と解説し、「そうではないものも含めて一緒にして、隋の時代には洛陽に、唐の時代には長安の都にも入って」きたことについても触れる。そして朝鮮半島に至る中で踊りとの関連から拍子について興味深い論点を紹介する。タイトルを「『踊り』の形」、「『踊り』と『拍子』とする。

「踊り」の形
踊りについて言えば、日本の踊りがいちばん極端ですが、東洋の踊りは水平運動が主になっているんです。つまり、上下運動というのはあまりない。地歌舞や歌舞伎の踊りをご覧になっても分かるように、畳の上もしくは板の間を滑るが如く水平に動くことが基本になっています。

ところが、中近束や西城の踊り、そして足寄を越えたインドの北の踊りをいろいろ分析してみますと、上下運動が非常に多いんです。これは、ヨーロッパまで続きます。水平運動もあるけれど、上下運動がたくさんある。

特にヨーロッパでは、水平運動と上下運動が巧みに組み合わされて、ひとつの完成された城に達しています。東ヨーロッパの東側の接点であるところ、たとえばブルガリア、ルーマニア、それからドナウの岸のあたりのウィーン。ウインナーワルツなどは、ちょうど上下動と水平移動が完全にひとつになった踊りです。


「踊り」と「拍子」
上下動が多い踊りは、東洋では唯一、朝鮮の踊りです。これをよく考えますと、騎馬民族、つまり馬に乗るということとたいへん関係があるようです。

さらに、不思議なことですが、朝鮮海峡を隔てて、朝鮮には三拍子の音楽がたくさんあるんです。朝鮮民謡集を見ますと、9割8分ぐらいが三拍子です。朝鮮海峡を隔てて一衣帯水の日本に来ますと、三拍子は絶無です。ほとんどが二拍子、あるいは二拍子の倍の変体的な四拍子です。

たとえば、朝鮮へ行くと、朝鮮の人がすぐ歌う、♪アーリラン/アーリラン/アーラアリーヨー♪という歌がありますでしょう。
♪アーリラン♪1、2、3(拍子をとる)/♪アーリラン♪1、2、3/♪アーラアリー♪123/♪ヨー♪123。
この「1、2、3」というリズムは、なぜか日本にはないんですよ。むりやり探すと、ないことはないですが、ほとんどない。

普通に歌われる「五木の子守唄」というのは三拍子ですが、あれは朝鮮の被虜と言いますか、要するに簡単な今の言葉で言えば、文禄・慶長の役の時に秀吉が朝鮮半島から拉致してきた人たちの歌だと思います。それは、1万、2万の問題ではありませんね。

現在、北朝鮮が日本人を拉致したとかという問題があって、その数、10人とか15人とか言うけれど、そんなものじゃありませんね日本人こそ拉致の先輩であります(会場笑)。先輩どころか、それがずっと続くわけですから。これはちょっと音楽と違ってくるんだけれど、でも決して政治的発言じゃないです。歴史的認識の事実だから。

今日の話に「伊沢修二」が登場する。以前、「君が代」を取り上げた時にも登場した人物だ。彼については後述する。今回採録する内容に「『作曲』という言葉」、「『作曲』という作業」と題した。

「作曲」という言葉
ところで、「作曲」と言いますのは、新しい言葉です。明治になってから、日本で「作曲」という言葉はできました。伊沢修二が苦し紛れに訳をして、「作曲」という言葉をつくったんだと存じますが、その前、江戸時代は何と言っていたか。

たとえば端唄を創る。小唄なんかは節が決まっているようなものだけれど、ともかくある言葉を歌にするということは、江戸時代までは「節付け」と言っていました。「作曲」という言葉はありません。その「節付け」という言葉があるということが、ひとつの表現になっているんです。と申しますのは、あくまでも文学が主である。文学と言っていいかどうか分からないけれど言葉が主であって、それをどう歌うかということが作曲であったわけです。

「作曲」という作業
これが明治以降だと全く違ってきます。したがって、「作曲」という作業は明治以後のものになります。その前は、「作曲」というのとはちょっと違うんです。それなら、隋の時代、あるいは唐の時代に日本に渡ってきた雅楽はどうか。雅楽も私たちの言葉で言う「作曲」が行われていたと言っていいと思いますが、それは途中でほとんど絶えてしまいます。

雅楽は遠くインド、そしていわゆる西域の国々で交流して、しかも仏教とともに交流したものが多いのですが、そうではないものも含めて一緒にして、隋の時代には洛陽に、唐の時代には長安の都にも入ってきました。中国人というのは、本質的に音楽が不得意な人たちですが、特に中原の漠族、いわゆる中心的な中国人は、音楽は苦手であっても文字で記すことは世界的な天才です。

したがって、唐の音楽は文学が中心にならざるをえなかった。そこにインドや西域の国々、遠くは中近東の国々の音楽的な要素が、ドッとばかりに洛陽や長安に入ってきた。いままでの自分たちの漢民族の音楽、つまり文学を中心とした音楽でないもの、舞踊を中心とした身体的構造が音楽の元になっている音楽、つまり躍動的な音楽がドッと入ってきたものですから、中国人はびっくりするわけです。

そして長安の都などではこれを新鮮に受け止めました。しかもそれが非常に流行りました。無論、その当時に私はいたわけではありませんから文献によりますが、長安の都ではお酒を飲んだり料理を食べたりする店が華やかに開店した。

このようなところには踊りをする女性がたくさんいて、楽隊がペルシア音楽を演奏して、唐のモダンボーイはたいへんそこに通ったとあります。たとえば李白も通ったし、いろいろな詩人も通い、そしてそのことを詩に書いておりますね。


伊沢修二。1851年6月30日(嘉永4年6月2日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者である。明治から大正にかけて、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。

信濃国伊那谷、高遠城下に生まれる。1861年(文久1)から藩校の進徳館で学び、1867年(慶応3)に江戸へ上京。京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。

1872年(明治5)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7)には愛知師範学校校長となる。1875年(明治8)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、グラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11)5月に帰国。

1879年(明治12)3月には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命される。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小額唱歌集』を編纂。体操伝習所も創設。1888年(明治21)には東京音楽学校、東京盲唖学校長の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。

内閣制度が発足し、1885年(明治18)に森有礼が文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1894年(明治27)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾民生局の学務部長心得に就任。1895年(明治28)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立。翌1896年(明治29)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。

1897年(明治30)には勅選貴族院議員。晩年は吃音矯正事業に務め、楽石社を創設。67歳で死去。紀元節、皇御国などを作曲。『生物原始論』を翻訳し、進化論を紹介する。著作に『教育学』、『小学唱歌集』、『学校管理法』ほか。アメリカ留学中の1876年には留学生仲間の金子堅太郎(*)とともに日本人として初めて電話を使っている。

(*)金子堅太郎(かねこ けんたろう  1853年3月13日(嘉永6年2月4日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画する。また、日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。日本法律学校(日本大学の前身)初代校長。また、日米友好のために尽力して、晩年には日米開戦を憂慮していた。

團伊玖磨は、作曲家であると同時に、エッセイストでもある。1967年『パイプのけむり』、『続パイプのけむり』で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞している。また、「僕は歴史学者になるつもりだった」、「特に近代史をやりたい」と言っていただけに、この講演でもその碩学ぶりは発揮されている。今日採録する内容は冒頭の部分だが、勝手ながら、これを「芸術の柱」と題した。

「芸術の柱」
きょうは「創るということ」をお話ししたいと思って参りました。と言いますのは、私は音楽を創っております。目に見えるものではなくて、「目に見えないものを創るということはどういうことか」ということを中心にお話ししたいと思います。

「作曲」というものの事柄自体が誤解をされている向きがありますので、それはどういうことなのか。簡単に言えば、頭のなかで創り上げた音楽を、楽譜という書法で定着することが作曲という作業でございます。「そして、それを受けて、今度は演奏する人が私たちの書いた楽譜を分析したり練習したり暗譜したりして、多くの方々に聴いていただく。

当たり前のことのようですが、芸術のなかにはそうした、たとえば創作、創るということ、演奏するということ(表現者であり再現者であるそういう人たち)、それを受け取ってくださる方。この三者がいて初て音楽が成り立つわけで、このうちどれを欠いても音楽成り立たないのでございます。

ところが、いろいろな芸術のなかには、二本棒のもの、三本棒のもの、いろいろあります。たとえば絵画の場合は、絵描きさんが絵を描く。そして、それを壁に掛ければそれでいいわけで、非常に簡単です。簡単という意味は、仕事が簡単ということじゃございませんよ。その組み合わせは、創作と鑑賞とで成り立つわけです。もとよりこれをたくさんに頒布することになったら、印刷だとか、いまはテレビとかがあるでしょうが、本質的には創作と鑑賞ということで成り立ちますから、二本棒です。

では、文学はどうかというと、芸術というものと文学というものは同じかどうか分からないが、考え方を芸術だと思えば、やはり創作家が書いて、それを読めばいいという本質は、絵と同じことになります。

ただし、絵の場合は1枚の絵を大勢で観ることができますが、原稿に書かれた作家の原作は大勢で読むことができませんから、どうしても印刷という手を程なければなりません。したがって普通、創作があってそれを大量に複製する作業を通して、読者に配られていくわけです。ですから、本質は二本棒だけれども、どうしても2.5という柱になります。

それでは、音楽のように三本柱で成り立っているものは他にあるかというと、まったく同じものが演劇です。これは劇作家がまず、原作を書きますでしょう。そうしますと、俳優さんが集まって、これを練習するなり勉強するなりして、演劇の舞台に表現をして、それを観る方々がいる。これは、新劇でも歌舞伎でも能でも同じことです。

そういうふうに、三本柱でなければならないものと二本柱のものとがあるということから始めますと、これを反対から言えば、音楽というものは、音楽を観賞する人間の接点はまず、演奏者にあって、その演奏者のもうひとつ向こうに、そのものを創った作曲家がいるということになります。

これは芝居も同じです。歌舞伎を観に行く。そこでは歌舞伎役者が演じている。しかし、これは誰かが創ったわけで、それは誰かというと、たとえば鶴屋南北であるとか誰であるということで、作者、演技者、鑑賞者というものがあります。この三つの柱で成り立っている芸術と二本の柱で成り立っている芸術は、たいへん本質が違うし、また、創られ方の手順が違うことをお分かりになっていただけると思います。

日本の音楽がこれからもう少し世界に認知されるために、どんなことが必要か考えてみたくなる。そして、そのヒントを与えてくれる一つの講演録を見つけた。講演者は團伊玖磨。講演は、2001年4月20日、東京神田・学士会館で行われた。演題は、「創るということ」。講演録の中から、数回に分けて記していくことする。まずは、その人となりについて。(出典/フリー百科事典)

團伊玖磨(1924年4月7日〜2001年5月17日)は、日本を代表するクラシック音楽の作曲家でありエッセイスト。東京に生れ蘇州にて客死。祖父は、團 琢磨(安政5年8月1日(1858年9月7日) - 昭和7年(1932年)3月5日。日本の明治・大正・昭和期の工学者、技術者、実業家。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長を務めた。工学博士。男爵。)

1931年 昭和6 - 7歳 ピアノを学び始める。 1932年 昭和7 - 8歳 3月、祖父團琢磨が暗殺される(血盟団事件)。 1942年 昭和17 - 東京音楽学校(現在の東京芸術大学)作曲部入学。下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学ぶ。学外で山田耕筰に指導を受ける。1944年 昭和19 - 20歳 学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。

1948年 昭和23 - 24歳 NHK専属作曲家となる。1953年 昭和28 - 29歳 芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」結成。 1954年 昭和29 - 30歳 東宝映画専属音楽監督。 1964年 昭和39 - 40歳 東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』、『祝典行進曲』、閉会式にて『祝典行進曲』を演奏。2001年5月17日 平成13 - 77歳 日中文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中、心不全のため蘇州市の病院で逝去。

一時、経済界で持て囃された「グローバリゼーション」は既にその光を失いつつあり、代わって「グローカリゼーション」(グローバル+ローカル)が台頭する時代となった。特に文化活動においては「グローバル・スタンダード」など必要ない筈。しかし、こと音楽の世界では今もって、ヨーロッパのクラシック、米英のロック、POPSがその役割を担う。

世界政治の世界ではイデオロギーによる戦いが終焉を迎え、民族紛争に取って代わって問題化している。あるいはキリスト教対イスラム教の間で「文明の衝突」の危険性も危惧されている。預言者ムハンマドの風刺画を巡る暴動はその一端だろう。「○○原理主義」は、民族の尊厳を巡ってその殻を厚くする。

こういった世界の歪みを補正するのに、やはり音楽の役割は小さくない筈である。その意味でまず、既に欧米の音楽を十分学んだ日本から自らの音楽を見直し、再興する試みが、世界各地の音楽を慈しむ土壌を育むことにつながりはしないか。日本の音楽家たちの奮起を期待したい。

ジャズ、ブルースに「ブルーノート・スケール」(3,5,7音が半音下がる)があるように、日本民謡、演歌は「ヨナ抜き音階」(長調の音階のうち,4番目の音(要するに「ファ」)と7番目の音(要するに「シ」)を抜いた音階)という特徴を持つ。この音階をベースした日本の音楽の再興がならないものか。アイルランドの伝統音楽、ケルトミュージックを再生させたエンヤや沖縄出身ミュージシャンのように。

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