「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

日本音楽の黎明

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]

現代の音楽事情を見ると、どうしても西高東低を否定できないものがある。これは、極端な話、歌舞伎の世界に外国人が参入するようなもの、と考えれば納得がいく。日本の音楽は独自なものだから、わざわざ異国へ赴くこともない、という意見もあろう。西洋に受け入れられないからといって、それのことで質が劣っている根拠にならない。

しかしながら、絵画では浮世絵がゴッホをはじめ多くの西洋の画家達に強い影響を与え、アールヌーヴォーに息づいている。文学では川端康成、大江健三郎がノーベル文学賞まで取り、三島由紀夫、村上春樹の翻訳は広く読まれているという。

こと音楽だけが日本の輸出品にはなり得ていない。この辺の事情を昨日に続き。野間裕史氏の論考から以下に学んで見る。


<古来からある日本の音楽は、明治の文明の教師である西洋人達に非常に受けが悪かった。
たとえば大森貝塚の発見者であるモースは、「日本人に日常は人目につきにくい所まで芸術的に洗練されているが、音楽はまことに理解しがたく、船頭に「奇妙な歌」や建築労働者の「不気味な歌」は頭を抱える程で、外国人の立場から言わせると日本人は音楽に対する耳をもっていないらしい。彼らの音楽は最も粗雑なもののように思われる」。と後の著書に書いている。>

<「言葉と音楽」あるいは「歌詞と旋律」の関係は極めて複雑な問題を含んでいて、日本語の場合、特に説明が難しい。簡単にいうなら日本語は母音の言葉である。母音に様々な意味や感情が含まれている。これに対して西洋の言葉は子音の言葉である。子音を正確に発音しないと意味が違ってとらえられ、また感情表現も子音で表している。>

<西洋では「音」を学問としたが、日本では「音」を感性でしかとらえていないのだから、「作品、理論、楽器、演奏法、編成法、教育法」のどれをとっても見事に構築されている西洋音楽のシステムと個人的な体験の積み重ねの上に成立している日本伝統音楽のシステムの間に歴然とした差があるのは当然である。>

<しかし、現代しなければならないことは、そのシステムの優劣を計ることではなく、「芸術性」という尺度でその「美」を計ることではないだろうか。音楽は「芸術的感動」を尺度にして計らなければならないもので、「音楽システム」の優劣で論じられるものではない。>

音楽の「ボーダー」

日本における歌と西洋の歌に、果たして優劣があるのだろうか。そんなものあるはずないじゃないかと思いつつも、日本発の音楽が西洋に受け入れられた話はあまり聞かない。が、受け入れられないからといって劣るとは言い切れない。

もちろん、昔、坂本九の「上を向いて歩こう」はビルボードを賑わせたことはある。レイ・チャールズがサザンの「いとしのエリー」をカバーしたり、その他にもカバー曲はある。しかし、ミュージシャンとして永く受け入れたことは皆無に等しい。この辺の理由を以前引用した野間裕史氏の論考からを探る。

「歌謡と歌曲」
「『歌謡』はあくまでも言葉のエネルギーが音楽の形をとったもので「言」がその表現を越え「コエが外に出てフシ」となったものである。一方、西洋の「歌曲」は自立した「音」によって成立している。西洋歌曲は『言』と『音』を切り離すことが出来るが、日本歌謡の『音』は『言』から遊離して存在することはできない」。

「日本語の音材はあまりにも少なく、音韻もやせて貧しく、日本語の構造を壊さずに音とともに言葉を昇華させる事は難しい。そのため日本音楽は言葉の束縛の内にいて『音楽』として進化することはなかったのである。フェントンは、そのような和楽と洋楽の本質に対する認識を欠き、日本の歌謡の中から『音』だけを取り出して西洋音楽にそのまま移植しようとする過ちをおかした」。

「『文明』の意は地表に表れる顕在性にあり、『文化』の意は地の内部にあって育まれる潜在性にあるのではないだろうか。『文明』は外的要因で簡単に滅ぶが、『文化』が外的要因で滅ぶことがないのはそのためである。文明開化以来120余年、果たして日本での西洋音楽はどこまで我々の『文化』になっているだろうか。西洋の人々が永い歴史のなかで、それぞれの民族の血と涙と汗を、我々日本人は、未だに、単なる音のシステムとしてしか捉えていないのではないだろうか」。

「君が代」の成立

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

今年は冬季オリンピック、サッカーワールドカップの年。多くの場面で「君が代」が歌われることになるだろう。ここで、私たちの国家の成立について調べてみた。トランペッターの野間裕史のホームページ(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tpnoma/hyousi.html)で氏が、本屋で偶然発見した中央公論社「三つの君が代」(内藤孝敏著)を参考に詳述した報告があるので、少し長くなるがその概要をここに引用する。なんと三つの「君が代」があったことを知った。HPではそれを聴くこともできる。以下野間氏引用の文章に編集を加えた。

薩摩藩と明治政府、海軍省と陸軍省、文部省と宮内省といった明治の官僚機構の対立から作られた三つの「君が代」は、視点を変えれば、日本音楽と西洋音楽という二つの異質な素材が交差して残した三つの軌跡であるということが出来るだろう。

「第一の君が代」は、和洋の音楽が初めて出会ったときに成立した日本最初の記念碑な作品である。若い薩摩藩軍楽隊隊員たちの熱意によって世に出たものの失敗作であった。その失敗の原因は、作曲者イギリス公使間護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長のジョン=ウィリアム・フェントンの能力不足にあったことはいうまでもないが、何よりも、西洋の「歌曲」に日本の「歌謡」を安易に取り込もうとした作曲法に問題があったのである。

「歌謡」はあくまでも言葉のエネルギーが音楽の形をとったもので「言」がその表現を越え「コエが外に出てフシ」となったものである。一方、西洋の「歌曲」は自立した「音」によって成立している。西洋歌曲は「言」と「音」を切り離すことが出来るが、日本歌謡の「音」は「言」から遊離して存在することはできない。日本語の音材はあまりにも少なく、音韻もやせて貧しく、日本語の構造を壊さずに音とともに言葉を昇華させる事は難しい。そのため日本音楽は言葉の束縛の内にいて「音楽」として進化することはなかったのである。フェントンは、そのような和楽と洋楽の本質に対する認識を欠き、日本の歌謡の中から「音」だけを取り出して西洋音楽にそのまま移植しようとする過ちをおかした。

「第二の君が代」は、明治13年1月、海軍省から宮内省に対して、正式に新「君が代」の作曲が依頼された。7月、楽曲改訂委員に任命された海軍軍楽隊長・中村祐庸、陸軍軍楽隊長・四元義豊、宮内省一等伶人・林広守、海軍省雇教師・エッケルトの四人によって審査が行われた。

新国歌「君が代」に選ばれたのは林広守の曲。この原曲にドイツから招聘された音楽教師フランツ・エッケルトが日本の音楽と西洋の音楽の役割を、明確に旋律と和声に分けることで成功した。あの旋律は中国伝来のものではなく、国風化運動を経て日本固有のものとなった旋律である。その日本独自の旋律を西洋の和声で支えて見事に調和させた。和楽の伝統と洋楽の技法対するエッケルトの正しい判断によって成立した秀作であるということが出来るだろう。エッケルトは以下のように判断した。

<日本の国体を考えるならば「君が代」の発声たる「きみがよ」の部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも十人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。それゆえ「きみがよは」の発声にはわざと和声をつけぬことにした。発声につけぬから結びにもつけぬほうがよろしい>。

「第三の君が代」は、西洋の「音」に日本の「言」を上塗りすることから生まれた歌である。自前で国歌を作成しようとした文部省の意気込みはよしとするが、音楽取調掛伊沢修二掛長が言ったように当時の日本にはまだ国歌を作り上げるだけの能力はなかった。そのため、西洋の既存の旋律に古い日本の言葉を当てはめたのだが、その歌が国民的支持を得られる道理はなかったのである。

この同じ過ちは、現在でも、「君が代」の旋律に新しい歌詞を付けようとする新聞投稿や私案などに多く見受けられる。「君が代」に旋律は「君が代」の歌詞によってはじめて成り立つもので、「セカイノヘイワ」とか、「アカルイクニノ」などという幼稚極まりない平板は歌詞を貼り付けたとき、あの旋律は魂の抜けたただの音の上下運動になってしまうのである。

「第一の君が代」は日本音楽から「言」を抜き去り、残った「音」を西洋音楽の「音」に移すことで失敗した。
「第二の君が代」は日本音楽の「言と音」をそのままにして、西洋音楽の「和声」に合体させることで成功した。
「第三の君が代」は、西洋音楽から「言」を抜き去り、残った「音」に日本の「言」を当てはめることで失敗した。

「君が代」の歌詞はサザレ石から巌へ移る超時空的めでたさを31文字に歌い込み、人々の長寿を願いつつ祝祭感を歌い上げたものである。その簡潔な言葉には、他の国歌にあるような闘争的内容は一切なく、日本人の穏やかな特質を見事に象徴しているといってよいだろう。 しかし、千年以上にわたって日本列島にその祝祭感を贈り届けてきた、「君が代」にとって不幸だったのは、第二次大戦中、国民の戦意高揚という軍事目的に専ら使われたことだろう。その明るい祝祭感は暗い戦争体験に覆われて、戦後50年以上経た現在でもあの忌まわしい記憶は拭いきれずにいるのである。

「君が代」が、明治文明開化という日本史の上で最も国民意識が高揚した時代の作品であり、現代のように多様化した社会では決して開花させ得ない花であることをあらためて想起しよう。日本人の心の源流から湧き出た清流が西の彼方から押し寄せてきた潮流と出会い、河口の岸辺に見事に咲かせたその花は、簡潔な歌詞と優雅な曲調によって日本人の特質を見事に象徴した我々の心そのものといってよいだろう。

「文明」の意は地表に表れる顕在制にあり、「文化」の意は地の内部にあって育まれる潜在性にあるのではないだろうか。「文明」は外的要因で簡単に滅ぶが、「文化」が外的要因で滅ぶことがないのはそのためである。文明開化以来120余年、果たして日本での西洋音楽はどこまで我々の「文化」になっているだろうか。西洋の人々が永い歴史のなかで、それぞれの民族の血と涙と汗を、我々日本人は、未だに、単なる音のシステムとしてしか捉えていないのではないだろうか。もし、将来、日本の新国家制定事業が成功するとしたら、それは新国風運動が起こったことの証であり、我々日本人が自らの言と音を織りなした新しい音楽を表したことの証でもあるだろう。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]


.
aso**otoh
aso**otoh
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新の画像つき記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事