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クラシックのプロムナード

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<Yo-Yo Ma plays the prelude from Bach´s Cello Suite No. 1>
http://jp.youtube.com/watch?v=dZn_VBgkPNY&feature=related

先日伊坂幸太郎さんの、映画にもなった小説「死神の精度」を読みました。その中の「恋愛で死神」という作品に登場するのが、バッハの無伴奏チェロ組曲でした。ヨーヨー・マさんが弾くこの曲が印象的でしたが、チェロ独奏用として無伴奏でこれほど深みのある曲はありませんね。

ヨハン・セバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲(Suiten für Violoncello solo)には、無伴奏チェロ組曲第1番ト長調、第2番ニ短調、第3番ハ長調、第4番変ホ長調、第5番ハ短調、第6番ニ長調という全六曲あるそうですが、なんと言っても、第一番です。「あらゆるチェロ曲のなかの最高峰とされ、チェリストにとっては、聖典的な作品。バッハの全作品のなかでも、評価は極めて高い」そうです。

<第1番ト長調 BWV1007>前奏曲(Praeludium)
「4分の4拍子。全曲中でも最もよく知られる曲。アラベスク的な分散和音が移り変わっていく様子が美しい。クロイツェルの練習曲13番に引用されている。商業放送でもおなじみ」。

美しい曲は楽譜も美しい、ということでしょうか、ウィキペディアに次の解説があります。

この曲の大部分は、「ケーテン時代(1717年-1723年)に作曲されたらしい。ケーテンの宮廷オーケストラは12人の楽師で構成されており、そのうちのチェリストであった、クリスティアン・フェルディナント・アーベルのために書かれたという説もある。近年、ヴァイオリンの様に肩にかけて弾く小型のチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ)が復元され、ヴァイオリンの無伴奏曲と同様にバッハ自身が弾く為に書かれたとする説も浮上している。バッハの妻アンナ・マクダレーナの写譜が残っており、これは長い間自筆譜と考えられてきた美しいものである」。

アンナ・マクダレーナ(マグダレーナ)・バッハ (Anna Magdalena Bach, 1701年9月22日 - 1760年2月22日または2月27日 ライプツィヒ、旧姓ヴィルケWilcke )は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの後妻で、ドイツの声楽家。ザクセン=ヴァイセンフェルス公の宮廷トランペット奏者、ヨハン・カスパール・ヴィルケの末子としてツァイツに生れる。母マルガレータ・エリザベートは、オルガニストの娘であった」。

「アンナ・マクダレーナ・バッハの名は、三つのかたちでこんにち伝えられている。一つは、曲集《アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳》、後世に創作された『アンナ・マクダレーナ・バッハの日記』(邦訳:アンナ・マグダレーナ・バッハ『バッハの思い出』)、そして映画『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』(1967年)である」。(同上)

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<Voi che sapete>
http://youtube.com/watch?v=sRBSZbm-uRM

かつて棋界において名人と呼ばれる方が、女流棋士にセクハラトラブルを起こしたことがありました。幼い頃から将棋一筋で生きてきて、百数十手先も読むといわれる超アナログ頭脳を駆使するその名人が女性に打って出た一手は超悪手でした。それまで人格者として尊敬していた私は、この出来事によって、むしろ泥臭い人間味を感じたことを覚えています。

さて、音楽界にもそんな人間味を感じさせてくれる指揮者がいたことを今日知りました。純粋なクラシックファンにはどうでもいいことかもしれませんし、当のご本人にとってもなおさらどうでもいいことかも知れませんが、私は彼らによって生み出されたその芸術作品と同じように、その人となりについて大いに関心を持つのです。その指揮者とはオットー・クレンペラー。

「ハンブルクの指揮者時代に、クレンペラーはある女性オペラ歌手と不倫関係となり、その歌手と共演した際、彼の帰宅を待ち伏せしていた不倫に怒った相手の夫(指揮者)からこん棒で打たれ、次のステージに頭に包帯を巻いてピットに現れたところ、客席からはブーイングとヤジが飛び出した。クレンペラーは客席に向かって「俺の音楽が聴きたくないやつは出ていけ!」と怒鳴った」。

「アメリカ時代、ソプラノ歌手の自宅に無理矢理押し入ろうとして、もめごとになった。その後、友人たちの尽力でサナトリウムに入ることになったが、すぐさま逃走し、この一件はニューヨーク・タイムズの一面記事となった(サブタイトルは「クレンペラー逃亡す! 性犯罪に走る危険あり!」)。これら一連のスキャンダルにより、アメリカにおけるクレンペラーの評判は完全に失墜した」。

このハンブルグ時代(1905〜1933)とアメリカ時代(1933〜1947)のオペラ歌手とソプラノ歌手が同一人物か否かはわかりませんが、少なくともその一人であったのがエリザベート・シューマンというディーヴァであったことは間違いなさそうです。この二人のことをあえて、ファム・ファタールとドン・ファンと呼べば、それぞれのファンからは叱責を受けるかもしれませんが、私はこういう人が決して嫌いではありません。

「ファム・ファタール」(Femme fatale);フランス語で「運命の女」。男を破滅させる魔性の女(悪女)。

「ドン‐ファン」(Don Juan);スペインの伝説上の人物。美男の好色漢、愛の遍歴者として多くの文学作品に登場する。モリーナの戯曲「セビリアの色事師と石の客」が原型。モリエールの喜劇、バイロンの長詩、モーツァルトのオペラなどで有名。ドン=ジュアン。ドン=ジョバンニ。


エリザベート・シューマン(Elisabeth Schumann, 1888年6月13日 テューリンゲン - 1952年4月23日 ニューヨーク、1885年誕生説あり)は、「ドイツの著名なソプラノ歌手。オペラやオペレッタから、オラトリオや世俗歌曲まで、幅広いレパートリーを誇り、豊かな録音を後世に遺した。生き生きとした表情や優雅さ、美貌によって愛され、評価された」。

「リヒャルト・シュトラウスやオットー・クレンペラー、ロッテ・レーマン、ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど、往年のドイツ楽壇の錚々たる顔ぶれと親しかった。(クレンペラーの事実上の愛人だったと伝えられる。)」


オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日-1973年7月6日)は、「ドイツ出身のユダヤ人(後にイスラエル国籍になった)指揮者。20世紀を代表する指揮者の一人とされる。ドイツ・オーストリア圏の古典派・ロマン派から20世紀の音楽まで幅広いレパートリーを持つ」。

「クレンペラーの音楽は晩年の録音で聴くことができるように、アンサンブルや音色、情緒的表現などの表面的な美しさを求めるよりも、遅く厳格なテンポで楽曲の形式感・構築性を強調するスタイルでよく知られているが、1950年代初頭ごろまでの録音には逆に新即物主義的快速テンポによる同様のアプローチが見られる」。

「マーラーはクレンペラーと知り合った時、マーラーの交響曲第2番『復活』をクレンペラーがピアノ版に編曲したスコアを見て感心し、クレンペラーの名刺に推挙の署名をした。当時、マーラーはウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)の音楽監督であり、国内外での高い知名度を誇る彼の推薦によりキャリアを開始できたことに関して、クレンペラーは後年までマーラーに感謝していたといわれている」。
「マーラーに私淑したクレンペラーにとって彼の作品は重要なレパートリーとなったが、すべての交響曲を演奏することはなく、例えば5番など、一部の作品については批判的な見解を洩らしている。そのためか、以前は録音等でもマーラーの直弟子だったブルーノ・ワルターに比べるとあまり評価されない傾向にあった」。

「また、クレンペラーのマーラー演奏は煩雑な感情表現を厳しく拒否し、あくまでも古典的様式の範疇で解釈しているのが特徴で、濃厚で劇的な音楽を求める向きからはあまり好まれていない。しかしながら、彼の残した演奏は確実に一定の評価を受けている」。(ウィキペディア)

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クラシックの作曲家にとって交響曲を書くということがその最大の使命であることには間違いはないと思います。で、交響曲とは何かというと「主に管弦楽によって演奏される多楽章からなる大規模な楽曲。シンフォニー、シンフォニアとも呼ばれ『管弦楽のためのソナタ』である」とあります。
「原則として4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定義であるが、特に近現代においては、例外も多い。なお、『交響曲』は『交響楽』ともいうが、どちらもドイツ留学経験のある森鴎外による訳語である」。ナルホド。

ハイドンは「交響曲の父」と呼ばれ104曲を残し、モーツァルトは41曲を残しています。しかしロマン派以降、この交響曲を10曲以上書く作曲家は少なくなります。多作家としては、ブライアン(イギリス1876-1972)の32曲、ホヴァネス(アメリカ1911-2000)の67曲、そして今日取り上げるロシアのニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)の27曲。

ニコライ・ミャスコフスキーは、生前6度にわたってスターリン賞を受賞しており、この賞の獲得回数においてミャスコフスキーをしのぐ作曲家はいないと言われているそうです。スターリン賞とは、ソビエト連邦国家賞(USSR State Prize)で、旧ソ連における国家最高賞。最高賞として位置づけられた賞は政権の推移に伴い次のような変遷を辿っています。

1925年-1935年, 1957年-1991年 レーニン賞
1940年-1954年 スターリン国家賞(別称:スターリン賞)
1964年-1991年 ソビエト連邦国家賞(スターリン国家賞の名称変更による)


ニコライ・ヤコヴレヴィチ・ミャスコフスキー(Nikolai Yakovlevich Myaskovsky,1881年4月20日-1950年8月8日)は、「ロシアの作曲家である。ベートーヴェン以降の作曲家としてはきわめて異例の27曲もの交響曲を作曲したことで有名。これらの作品は最近まであまり日の目を見ることは無かったが、近年再評価が進んでいる」。

「ミャスコフスキーは多くの門弟を抱えた。1920年代からの20年間にミャスコフスキーの門人となった作曲家は、アラム・ハチャトゥリアンやロディオン・シチェドリン、ドミトリー・カバレフスキー、ヴィッサリオン・シェバリーンらがいる。さらに、アレクサンドル・ロクシンやボリス・チャイコフスキー、エフゲーニー・ゴルーベフらの名も付け加えなければならない。ゴルーベフは教師で多産な作曲家であり、その門下にアルフレート・シュニトケがいる」。

「現在、ミャスコフスキーへの評価に欠けているものは、その指導法についてである。門人に対する影響が、どの程度のもので、どのような種類のものであったかを推し量ることは容易でない。ハチャトゥリアンやカバレフスキーらの習作や初期作品は、ミャスコフスキー風に書かれていると言われてきたが、それでもミャスコフスキー自身の作品が明らかにしているような質の高さは、差し引かなければならない」。

「一方で、たとえば、めったに演奏されないエフゲーニー・ゴルーベフのように、成熟期の作品においても恩師の作風の何かしらの特徴を、きちんと維持している作曲家も見受けられる。ゴルーベフの《ピアノ・ソナタ第6番》は、ミャスコフスキーの追悼に捧げられている」。(ウィキペディア)

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先日何気なく「ニュースステーション」にチャンネルを合わせたら、若いピアニストが実に軽やかなタッチでピアノを弾いていました。流れるような美しいメロディでした。その映像の後でそれが、辻井伸行さんという二十歳の盲目のピアニストであり、彼が弾いていたのは自作の「川のせせらぎ」という曲だということを知りました。

<辻井伸行プロフィール>
・1995年7歳で全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部第1位受賞。
・1998年10歳の時、三枝成彰スペシャルコンサートで本名徹次指揮、大阪センチュリー交響楽団と共演し鮮烈なデビューを飾った。
・1999年11歳で全国PTNAピアノコンペティションD級で金賞を受賞。
・2000年12歳で、第1回ソロ・リサイタルをサントリーホール小ホールで行い、翌年第2回のソロ・リサイタルを開催。この他に神戸音楽祭に出演するなど日本各地でコンサート活動を行う。
・2002年に「佐渡裕ヤングピープルズ・コンサート」に出演。また、同年、東京オペラシティ・コンサートホールで行われた金聖響 指揮、東京交響楽団とのコンサートでは、モーツアルトとショパンのコンチェルト2曲を演奏し大成功を収めた。
・これまでに読売日本交響楽団、東京交響楽団の定期演奏会に登場したほか、海外での活動も行っており、カーネギーホールにてアメリカ・デビュー。ロシア(モスクワ音楽院大ホール)、チェコ、台湾などでも演奏。
・2002年にはパリで佐渡裕指揮、ラムルー管弦楽団とも共演した。
・2005年10月、ワルシャワで行われた第15回ショパン国際ピアノコンクールにて「批評家賞」を受賞。増山真佐子、川上昌裕、川上ゆかり、横山幸雄、田部京子各氏に師事。

このショパン国際ピアノコンクールは5年に一度の開催とか。直近の第15回では、関本昌平さん、山本貴志さんがともに第4位。辻井伸行さんは、セミファイナルまで進出しポーランド批評家賞を受賞しています。

世界中から300人以上の若きピアニストたちが集い、ファイナルで演奏できるのは12名。そのうち日本人は大崎結真さん、根津理恵子さんに、アメリカ国籍のレイチェル・ナオミ・クドウさん、入賞した2名を加え、なんと5名がファイナリストに選ばれています。

結果は、優勝;ラファウ・ブレハッチ(ポーランド)、第2位;なし、第3位;イム・ドンヒョク(韓国)、第3位;イム・ドンミン(韓国)、第4位;山本貴志(日本)、関本昌平(日本)、第5位;なし、第6位;カ・リン・コリーン・リー(香港)。この結果だけを見ても日本人ピアニストが健闘したのか、しなかったのか私にはよくわかりません。


ショパン国際ピアノコンクール(International Frederick Chopin Piano Competition)は、「ポーランドの生んだ大作曲家、ピアニストのフレデリック・ショパンを記念して1927年に第1回が開催されたピアノ演奏コンクール。現在世界的に最も権威あるコンクールのひとつと言われ、ピアニストを目指す者にとっては最高の登竜門のひとつとみなされている」。

「また、エリザベート王妃国際音楽コンクール、チャイコフスキー国際コンクールと合わせて世界三大コンクールとも言われる。正式名称はフレデリック・ショパン国際ピアノコンクール」。

「ショパンの故郷であるポーランドの首都ワルシャワで5年に一回、ショパンの命日の10月17日の前後3週間にわたって開催され、過去の入賞者は世界の巨匠が名を連ねる。第二次世界大戦中に開催の中断があった。課題曲は、いずれのステージ(予選や本選)においてもすべてショパンの作品のみの演奏が義務付けられている」。

「1955年の第5回コンクールまでの優勝者は、ポーランドかソ連の出身者によって占められていたが、1960年の第6回コンクールでイタリアのマウリツィオ・ポリーニが優勝して以来、西側諸国の出身者からも優勝者が出るようになった。現在のクラシックのピアニストの世界で頂点に立つ才能を世に送り出している」。(ウィキペディア)

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世界三大オーケストラといえば、「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」、「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」、「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 《シカゴ交響楽団》」だと言われています。それぞれのオーケストラの設立をウィキペディアの解説で見ると次ぎのようになります。

「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」;このオーケストラの発祥は1842年3月28日、ケルントナートーア歌劇場(ウィーン宮廷歌劇場、後のウィーン国立歌劇場)の楽長で作曲家でもあったオットー・ニコライが、レドゥーテンザールにてウィーン国立歌劇場付属の管弦楽団を指揮した「フィルハーモニー・アカデミー」というコンサートとされる(曲目はベートーヴェンの交響曲第7番など)。

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」;設立は1882年5月1日で、ベンヤミン・ビルゼが監督するオーケストラから脱退したメンバー54人が母体となり、6人のメンバーを加えて発足した。団員の平均年齢が30歳未満という若い人中心のオーケストラであった。最初の定期演奏会は1882年10月23日、フランツ・ヴェルナーの指揮で行われた。曲は、シューマンの交響曲第2番、ワーグナーの『パルジファル』前奏曲、ルービンシュタインのピアノ協奏曲であった。

「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 《シカゴ交響楽団》」;コンセルトヘボウとはオランダ語で「コンサートホール」を意味する言葉で、アムステルダムにコンセルトヘボウがオープンした1888年にコンセルトヘボウの専属オーケストラとしてアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は産声を上げた(ただし、このオーケストラとホールとは別法人として運営されている)。

初代常任指揮者はウィレム・ケスが就任、草創期のコンセルトヘボウの指導にあたった。このオーケストラが一躍世界のスターダムに躍り出たのは24歳の若さでコンセルトヘボウの第2代常任指揮者に就任、その後半世紀に渡ってコンセルトヘボウに君臨したウィレム・メンゲルベルクの功績である。


私は残念ながら、まだこのどのオーケストラのコンサートも経験してはいません。また、これらのオーケストラの設立に関与した音楽家のこともほとんど知りません。これについては、追々勉強していきたいと思います。

さて、今日はこのオーケストラをロシアで立ち上げた、ミハイル・プレトニョフを取り上げます。彼は私より一歳年長の人でありながら、33歳でロシア・ナショナル管弦楽団を創設しました。ロシアには11のオーケストラがあるようですが、その中でも最も新しいものです。

ロシア・ナショナル管弦楽団(Russian National Orchestra)は、「モスクワを拠点とするロシアのオーケストラ。1990年に、著名なピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフ(現・音楽監督)によって創設される。今日では、世界屈指のオーケストラと看做されている」。

「ロシア国内で定期的に演奏を行い、欧米やアジアなどで世界的に演奏旅行を行い、アメリカ合衆国で定例演奏会を行なっている。ヴァチカン市国を訪れ、ローマ教皇(ヨハネ・パウロ2世)に御前演奏を行なった、ロシアで最初のオーケストラでもある」。

「また、ロシアのオーケストラで最初にイスラエル入りも果たした。ロシアで最初にグラミー賞を授与されたオーケストラでもあり、2004年に、ソフィア・ローレン、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領、ビル・クリントン元米国大統領の朗読による《ピーターと狼》のCDによって、その偉業を達成した。青少年を対象とした、革新的な芸術文化プログラムによっても認められている」。


ミハイル・プレトニョフ(Mikhail Vasilievich Pletnev 1957年4月14日 - )は、「ロシアのピアニスト・指揮者。両親ともに音楽家で、幼少期から楽才を発揮した。13歳でモスクワ音楽院に入学し、ピアノをヤコフ・フリエールとレフ・ヴラセンコに師事。1978年にチャイコフスキー国際コンクールで金メダルを獲得し、国際的な注目を浴びるようになる」。

「1980年代後半にヴァージン・クラシックスと契約してピアニストとして国際的に録音活動を始めるが、1990年に、ソ連で最初の私設オーケストラのロシア・ナショナル管弦楽団を設立して、指揮活動にも熱を注いだ。現在はドイツ・グラモフォンの専属アーティストとなり、ロシア・ナショナル管弦楽団の芸術監督も務めている。指揮者として、またピアニストとして1度ずつグラミー賞に入賞している」。(ウィキペディア)

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