「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

クラシックのプロムナード

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<Mack The Knife>
http://www.youtube.com/watch?v=CBTITHA8twI

<Ella Fitzgerald Show, 1968 - Mack the Knife>
http://jp.youtube.com/watch?v=ouF4J45Mn5s

先程FMから流れていた、ボビー・ダーリンの「マック・ザ・ナイフ」。ジャズのスタンダードナンバーですが、その前に、20世紀最大の演劇の革命家、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)の戯曲「三文オペラ」の中の曲であったことを始めて知りました。そしてこの曲を書いたのが同じドイツのクルト・ワイルであったことも。1928年に初演。舞台は「19世紀のロンドン。資本主義社会の矛盾を痛烈に皮肉った。演劇の枠組みをぶち壊し、脱オペラの手法を打ち立てた」ものでした。原題「マッキー・メッサーのモリタート」。

ところで、この曲を唄うボビー・ダーリンの姿をはじめて見ましたが、ケヴィン・スペイシーが自身で監督、主演した「ビヨンド the シー 〜夢見るように歌えば〜」(2004年)で、この曲を唄っていますが、実にそっくりだったんだなぁと感心しました。

クルト・ワイルはもともとクラシックの作曲であったようですが、彼の才能はブロードウェイで開花しました。「"Lady in the Dark" と "Love Life" の間にアメリカのミュージカルの発展における強い影響力を見ることができる。ワイル自身はアメリカの歌劇を作ることについての新しい方法を見いだそうと努力した、それは商業的であると同時に、芸術的な成功をおさめるものだった。この方向での最も面白い試みはエルマー・ライスの演劇に基づいた『街の風景 ("Street Scene")』である」。

「クルト・ワイルの音楽に影響を受けた現代のミュージシャンには、レナード・コーエン、ドアーズ、トム・ウェイツ、デビッド・ボウイ、ニック・ケイブ、マリリン・マンソンとドレスデン・ドールズがある。また1985年にリリースされたトリビュートアルバム『Lost in the Stars: The Music of Kurt Weill』には、このほかトッド・ラングレンやルー・リードなどが参加している」。

クルト・ユリアン・ヴァイル(Kurt Julian Weill、英語風にカート・ウェイル、カート・ワイルと表記することも多い、1900年3月2日-1950年4月3日)は、「1920年代から生涯にわたって活躍しつづけたドイツの作曲家である。彼は、自身のコンサート用の作品の作曲をしつつ、演劇やオペラ・ミュージカルの作曲へ同等の力を注ぎ、多くの作品を残した。特にベルトルト・ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』で知られる。妻は女優ロッテ・レーニャ」。

「デッサウにおいてユダヤ人の家系に生まれる。父はハザン。20歳の時にベルリンでフェルッチョ・ブゾーニに師事し、『交響曲第1番』を作曲した。その後グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーの影響を受けた『弦楽四重奏曲』や『ヴァイオリンと管楽のための協奏曲』で成功を収めるが、彼の関心は劇場音楽や声楽へと向いて行った」。

「1928年に戯曲家ベルトルト・ブレヒトとの共同作業によりオペレッタ『三文オペラ』の音楽を監修したことをきっかけに、1920年代後半より1930年代初頭には彼の劇場音楽や声楽作品が大衆の間で大流行し、アルバン・ベルク、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、ダリウス・ミヨー、イーゴリ・ストラヴィンスキーからも称賛を受け、一躍有名になる」。(以上、ウィキペディア)

<Mack The Knife>
Oh the shark has pretty teeth, dear
And he shows them pearly white
Just a jack knife has MacHeath, dear
And he keeps it out of sight

When the shark bites with his teeth, dear
Scarlet billows start to spread
Fancy gloves though wears MacHeath, dear
So there's not a trace of red

On the sidewalk, Sunday morning
Lies a body oozing life
Someone's sneaking round the corner
Is the someone Mack the knife?

From a tug boat by the river
A cement bag's dropping down
The cement's just for the weight, dear
Bet you Mack is back in town

Louie Miller disappeared, dear
After drawing out his cash
And MacHeath spends like a sailor
Did our boy do something rash?

Sukey Tawdry, Jenny Diver
Polly Peachum, Lucy Brown
Oh the line forms on the right, dear
Now that Mack is back in town


サメには素敵な歯が並んでいて、真珠のように真白に光っている
まるでマックのジャックナイフ。彼もいつも見せびらかせている
サメが獲物にがぶり噛みつくと、赤い波がうねり、広がっていく
でもマックのお洒落な手袋には、赤い一筋の跡さえ残っていない

先週の日曜の朝、舗道のうえに、ぐちゃぐちゃの死体が倒れてた
街角に隠れる影があったけれど、あれはいったい誰だったのだ?
川岸にタグボートが横付けされ、セメントが一袋だけ下ろされた
重さはセメントと同じだけれど、マックが隠れていた可能性も大

ルイ・ミラーの消息は未だ不明、現金引出し後の足取りは掴めず
マックは水兵みたいに上機嫌さ。今度は何をやらかしたのだろう?
スーキー・トードリ、ジェニー・ダイバー
ポリー・ピーチャム、ルーシー・ブラウン
みなさん、羽振りが良さそうだ。マックが街に帰って来てるから

(W&R : Jazzと読書の日々http://d.hatena.ne.jp/wineroses/20060927

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<Dinu Lipatti plays J.S. Bach - Cantata BWV 147>
http://www.youtube.com/watch?v=R0085wPebZc

カンタータ(伊:cantata, 独:Kantate, 交声曲)とは、「単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品をいう。元来は動詞『歌う(cantare)』の分詞形であり、『歌われるもの』を意味する。典型的なカンタータは、17世紀後半にイタリアで作曲された、レチタティーヴォとアリアからなる独唱と通奏低音のための歌曲であり、18世紀前半のドイツでは、コラールを取り入れた教会カンタータが数多く作曲されている。一方、19世紀以降、カンタータは合唱と管弦楽のための多種多様な作品を表すものとなった」。(ウィキペディア)

思うに、カンタータは今我々が普通に聞いているPOPSの原型なのでしょう。日本で言えば江戸時代。カンタータはセレナーデを生み、クラシックからジャズへ、そしてPOPSへ。「単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品」が時代の変遷とともに、純粋音楽から個人的な思いを唄う人間の発露としての軽音楽を生んだのでしょう。

J・S・バッハには、「われら汝に感謝す」(第29番)、「神の時こそいと良き時」(第106番)、「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」(第140番)、「おしゃべりはやめて、お静かに」(通称“コーヒー・カンタータ”)(第211番)、「わしらの新しいご領主に」(通称“農民カンタータ”)(第212番))などのカンタータがあるようですが、冒頭のディヌ・リパッティが弾くのは、「心と口と行いと生きざまをもて」(第147番)という楽曲。これに歌はありません。

そして、次に紹介するのが、バッハの演奏において名高く、20世紀を代表する表現者の一人と言われるカナダのピアニスト、グレン・グールド(1932-1982)が解説入りで演奏する「カンタータ第54番」。「いざ、罪に抗すべし」と訳されています。

<J.S.Bach Cantata No.54 - Glenn Gould - part 1>
http://jp.youtube.com/watch?v=RfA4zyHcIPo

ここまで書いて自分が何を言いたいのかよくわからない文章になってしまいました。実は今日はディヌ・リパッティのことを書き残しておきたかっただけです。33歳で亡くなった夭折のピアニスト。彼が弾く、「心と口と行いと生きざまをもて」(第147番)。何かこのタイトルに聞き覚えがあったので思い出してみたところ、アメブロでダンディー専務さんのブログ(http://ameblo.jp/frontier-coo/entry-10082135334.html)に次のような記事がありました。

「のちにお釈迦様の弟子となるシュリハンドクが、まだ出家する前の話。大聖者マハーハンドクは物覚えの悪い弟、シュリハンドクを出家させようと考えた。そして、『三業(身と口と意のなす行為)に悪を造らず、有情(生きもの)を傷めず、正念に空を観ずれば(正しい念いで道理を悟れば)、無益の苦しみをまぬがるべし』」と教え諭したと。

インドの釈迦からドイツのバッハ、そしてルーマニアのディヌ、日本の経営者へと、時代と国を変え、この「三業」はこの世を回遊して、その時々の人々を戒めているのでしょうか?そして、この「三業」を実行できぬ私たちにもそれは「罪に抗すべし」と優しく語ってくれているのでしょうか?


ディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti, 1917年3月19日-1950年12月2日)は、「ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである」。

「個性的な演奏ではないが、純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一である。ショパンやモーツァルトなどを得意とした。ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。また、アルベール・ルーセルとナディア・ブーランジェに作曲を師事し、作曲をして自作自演も残した。死因は白血病といわれているが、実際は悪性リンパ腫(ホジキン病)である」。

「リパッティの演奏の真髄は端正と高貴にあり、そこにはコルトーのような濃厚な個性とは違うが、やはりある種の気高い艶とでも言うべきものが含まれているように聴こえる。また、最後の演奏会において病をおして舞台に上がったように、聴き手に対する誠意、つまり職人気質をも兼ね備えていた。その演奏は高貴なる艶という点において十分に個性的であったとも思えるが、一方で若くして亡くなったことから、いわゆる大家としての個性を備えるに至っていたかは議論の分かれるところである」。(ウィキペディア)

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<Pictures at an exhibition>
http://jp.youtube.com/watch?v=tyFMt_G4ku0

組曲「展覧会の絵」は1874年にロシア国民楽派を代表する作曲家、モデスト・ムソルグスキー(1839 - 1881年)によって作曲されたピアノ組曲ですが、私などはエマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP)の曲として知ったわけで、どうもそのこともあってか、レッド・ツェッペリンの1971年の「天国への階段」(Stairway to Heaven)とイメージがダブってしまいます。それは、この曲についてヘルベルト・フォン・カラヤンは「私がオーケストラで演奏するとしてもこれ以上のアレンジを必要としない名曲」と絶賛していたことも私の頭を混乱させる要因であったような・・・。

そこで、今日は私の頭の中を整理するために、この「展覧会の絵」についてはっきりさせておきたいと思います。

『展覧会の絵』は、「ロシアのモデスト・ムソルグスキーが、彼の友人であった画家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展を歩きながら、そこで見た10枚の絵の印象を音楽に仕立てたものである。ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれている」。

「また、これらの10枚の絵がただ無秩序に並ぶのではなく、『プロムナード』という短い前奏曲あるいは間奏曲が5回繰り返して挿入されるのが特徴的で、このプロムナードはムソルグスキー自身の歩く姿を表現しているといわれる」。

「『プロムナード』、『古城』、『雛の踊り』、『ビドロ』、『バーバ・ヤーガの小屋』、『キエフの大門』、など覚えやすいメロディーと緩急自在の構成(ユーモラスな曲、優雅な曲、おどろおどろしい曲、重々しい曲など)から、ムソルグスキーの作品の中でももっとも知られた作品の一つである」。
「また、古今東西の多くの音楽家によりさまざまな編曲がなされているのも特徴で、ラヴェルによる管弦楽への編曲の他、エマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP)によるロック版、冨田勲のシンセサイザー版、山下和仁のギター・ソロ版などが有名である。また、この音楽を主題にしたカンディンスキーの舞台芸術や、手塚治虫の実験アニメーション(音楽は冨田勲編曲による。ただしシンセサイザー版とは別)なども知られている」。


モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日 サンクトペテルブルク)は、「ロシア5人組の一人である国民楽派の作曲家である。『ロシア五人組』の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲によって作品を書いた。歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』が有名」。(ウィキペディア)

写真の絵は、ハルトマンの「キエフの大門」

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<星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)>
http://www.worldfolksong.com/anthem/lyrics/pat/ssforever.htm

最近は、米大統領選の民主党の候補者指名争いのニュースで賑わっていますね。最新のニュースでは「敗戦が続いて窮地に立っていたヒラリー・クリントン上院議員(60)が、代議員数が多く注目のテキサス州でオバマ上院議員(46)破り、勝利を収める見通しとなった。米主要メディアが伝えた。この日、予備選があった4州で『3勝1敗』となったクリントン氏は息を吹き返した」とあります。

よその国のことをここまで報道する必要があるのかと揶揄する人もいますが、日本とって同盟国であるアメリカの次期大統領が誰になるのかは、政治、経済の面では大きな問題なのですね。福井県小浜市の勝手連的「オバマ氏支援活動」もご愛嬌です。という訳で、今日はアメリカの公式行進曲「星条旗よ永遠なれ」を作曲したジョン・フィリップ・スーザを取り上げます。


「星条旗よ永遠なれ」は、「ジョン・フィリップ・スーザが作曲した行進曲の一つで、最もよく知られているものである。アメリカ人の愛国心の象徴とも言える行進曲で、1987年12月にはアメリカ合衆国の『国の公式行進曲 (National March)』に制定された」。

「1896年のクリスマスに作曲された。スーザが妻とヨーロッパを旅行中に、当時『スーザ吹奏楽団(スーザ・バンド)』のマネージャーであったデイヴィッド・ブレークリーが死去したとの連絡を受け、アメリカに帰国することになった。スーザは、アメリカへ帰る途中の船上でこの曲を頭の中で作曲し、到着するとすぐに楽譜にしたと自伝の中で語っている。スーザは以降亡くなるまで、ほとんど全てのコンサートでこの曲を指揮したが、商業用録音は唯一1909年のものしか無い(メディアの項を参照。)。なお1929年11月10日にラジオ放送用として収録された音源も存在する」。


ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa, 1854年11月6日-1932年3月6日)は、「アメリカの作曲家、指揮者。100曲を越える行進曲を作曲したことから、マーチ王と呼ばれる。またオペレッタも多く作曲した。ワシントンD.C.に生まれる。父はスペイン出身で、大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者だった。母はドイツ系である」。

「周囲に音楽があふれている環境の中で、スーザは自然に音楽と親しむようになる。7歳のとき音楽の勉強を始め、楽器演奏のほかに声楽にも熱中した。熱中するあまり、勝手に楽壇にもぐりこんで演奏に加わったりした。加わった先の一つが少々ならず者の集団だったこともあり、父の紹介で13歳のときにワシントン海兵隊楽団に入団した」。

「5年間在籍したが、やがてワシントン海兵隊楽団を退団して各地のオーケストラやバンドを転々とするようになる。その最中にはアーサー・サリヴァンなどと親しくなったりもした。1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰する。『ワシントン・ポスト』や『雷神』はこの時期の作品である」。

「1892年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師の誘いで楽団を辞任し、『スーザ吹奏楽団』を結成。9月26日にニュージャージー州プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま全米各地への演奏旅行に出発した。ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演は必ずしもすべて成功とは行かなかったと言われる」。

「スーザ吹奏楽団」は全米各地のみならず、ハワイや南半球のオーストラリア、南アフリカなどへの演奏旅行に出かけたが、1914年、第一次世界大戦の勃発に伴い、吹奏楽団を解散。スーザ自身も海軍大尉に任官する。終戦後、少佐で退役後吹奏楽団を再結成し、レコーディングや演奏旅行、そして1922年から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動した」。

「1932年3月6日、ペンシルバニア州リーディングでコンサートを開いた後、帰ってきたホテルで急死。吹奏楽団も解散となった。スーザは音楽以外にも多彩な才能を見せており、3篇の小説と自伝を著している。クレー射撃においても高い技術を有していた」。(ウィキペディア)

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まずは、昨年12/28付けの記事「『100万人に1人のヴァイオリニスト』と呼ばれるパンクなナイジェル・ケネディ」で取り上げたナイジェル・ケネディの「四季」から「春」をYOUTUBEで。
<Nigel Kennedy, Vivaldi - Spring I>
http://www.youtube.com/watch?v=St9wYu_WeAM&feature=related

次に、イ・ムジチ合奏団の「夏」を。
<Vivaldi Four Seasons - I Musici 1988>
http://www.youtube.com/watch?v=pe-MIDDfckw&mode=related&search=

私が初めてクラシックのアルバムを買ったのが、確か高校生の頃だったと思いますが、イ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディの「四季」でした。それから数年後、地元にこのイ・ムジチ合奏団が来て「四季」を堪能したことを覚えています。この「四季」が書かれたのは、日本では江戸時代。第8代将軍・徳川吉宗の治世です。音楽文化の圧倒的な違いを感じます。

ところで、このヴィヴァルディ、「四季」があまりにもインパクトがあって、この作曲家がどんな人で、他にどんな曲を書いたのかについて知る機会がありませんでした。今日は彼の生誕330年にあたりますので、ヴィヴァルディの生涯をウィキペディアから概観しておきたいと思います。「近代音楽の父」バッハよりも7年前に生まれた彼は、多作家であったようです。

四季(Le Quattro Stagioni (The Four Seasons))は、「1725年に出版されたヴァイオリン曲集《和声と創意の試み》(Il Cimento dell'armonia e dell'inventione)の第1番から第4番までを指す。日本ではイ・ムジチ合奏団が取り上げたことで一躍有名になった作品。イ・ムジチ合奏団の『四季』の録音は累計で280万枚以上を売り上げている」。

「12曲から成るヴァイオリン協奏曲集《和声と創意への試み》 (Concerti a 4 e 5 "Il cimento dell'armonia e dell'inventzone") 作品8の内、第1集すなわち第1曲から第4曲までの『春』『夏』『秋』『冬』に付けられた総称である。ただし、ヴィヴァルディ自身による命名ではない」。
「『四季』の各協奏曲はそれぞれ3つの楽章から成っている。それぞれの楽章にはソネットが付されていて、作者は不明である。このソネットゆえ、この曲は標題音楽に分類される。日本では春の第1楽章が有名である。 ヴィヴァルディはこの『四季』で新しい旋律法やダイナミズムを追求した」。

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)は、「ヴェネツィア出身のカトリック司祭、バロック末期の作曲家。作品は普通、RV番号で整理される。イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラの一員であった、理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会付属の学校に入り、25歳で司祭に叙階される。ヴィヴァルディは赤毛であったことから『赤毛の司祭』と呼ばれるようになった」。

「司祭になると同時にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 (Ospedale della Pietà) でヴァイオリンを教えはじめ、2年後には作曲と合奏を教えるようになる。その後多くの曲を作り、演奏旅行で各地を回った」。
「彼の残した作品は

・500を超える協奏曲(ヴィヴァルディは、写譜屋が写譜するよりも早く、協奏曲の全パートを作曲できると豪語していたといわれている)
・52のオペラ(現在見つかっているオペラの数は52であるが、ヴィヴァルディ自身は94のオペラを作ったと書簡に記している)
・73のソナタ
・室内楽曲
・シンフォニア
・オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)
・宗教音楽(モテットなど)
・カンタータ

など多岐に渡る。長い間、協奏曲ばかりが多く演奏されてきたが、オペラ(大半が紛失したが補筆などにより)、宗教音楽などの演奏機会が増えつつある」。

1678年 - (0歳) ヴェネツィアに生まれる
1688年 - (10歳) サン・マルコ大聖堂近くのサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入る
1693年 - (15歳) 剃髪して最下級の聖職者となる
1703年 - (25歳) 司祭となる ピエタに勤め始める
1705年 - (27歳) ピエタで作曲と合奏を教える任務に付く
1711年 - (33歳) 作品3(調和の霊感)がアムステルダムで出版される。
1713年 - (35歳) 最初のオペラ「離宮のオットー大帝」をヴィチェンツァで初演する。
1716年 - (38歳) オラトリオ 勝利のユディータを初演。
1723年 〜1725年(45歳-47歳)ローマで幾つかのオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。作品8(四季を含む)出版。
1730年 - (52歳) 彼のオペラがプラハで上演される。
1735年 - (57歳) 合唱長に任ぜられる。
1740年 - (62歳) 3月21日にヴェネツィアを訪問中だったザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタから依頼される。この年の秋にヴェネツィアを発つ。
1741年 - (63歳) ヴィーンのケルントナー・トア劇場専用の作曲家宿舎で内臓疾患により客死。


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