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大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

クラシックのプロムナード

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<Also Sprach Zarathustra - Deodato (2006 space odyssey)>
http://jp.youtube.com/watch?v=zUcHSCAE-AE

108年前の今日、ドイツの哲学者ニーチェが亡くなっています。ニーチェについてその著者も読んだことがない私ですが、長編「ツァラトゥストラはかく語りき」(1885)は死ぬまでには読んでみたい作品です。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)が1896年に作曲した同名の交響詩は、今年亡くなったアーサー・C・クラーク(1917-2008)原作でスタンリー・キューブリック(1928-1999)が監督した映画「2001年宇宙の旅」の冒頭第1部「導入部」に使用されていますね。また、グスタフ・マーラー(1860-1911)の『交響曲第3番』の第4楽章に、第4部の詩が歌詞として用いられているそうです。

ところで、「108」は、煩悩の数。煩悩とは仏教の教義で、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き。ニーチェの煩悩をあえて想像してみると、その一つはリヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)、その人でしょう。ニーチェとヴァーグナーとの関係をウィキペディアから拾ってみると、次のようになります。

1868年11月、ライプツィヒ滞在中の音楽家リヒャルト・ヴァーグナーと面識を得る。その際、ショーペンハウエル(1788-1860)についてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことを知人に手紙で記しているそうです。

「1872年、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。これはショーペンハウエルの厭世主義思想の助けを借りながら、アポロ的/ディオニュソス的という対立概念によって『ギリシア悲劇の誕生と歴史的展開の分析』および『現代音楽による悲劇的精神の再生』を統一的な観点から考察するという試みであるが、結論としては現代におけるギリシア精神の体現者(正確に言うならば、ニーチェによるギリシア観の体現者)としてのヴァーグナーを称揚するというものである」。

「ヴァーグナーの妻コジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼルへ移住してからというもの、同じくスイスのルツェルン市トリプシェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは1870年のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた」。

ニーチェはヴァーグナーのどこに心酔し、また、絶望したのか?同じくウィキペディアから拾います。

「近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを『宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界』として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来の伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜に属している」。

「『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった」。

「1876年、落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する」。

「また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベトに対し、『これがバイロイトだったのだよ』と言った」。

ニーチェは専門的な音楽教育を受けていないのもかかわらず、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲したそうです。そんなニーチェが天才ヴァーグナーの才能に直接触れたわけですから、その憧憬と落胆はストイックな感情との表裏であったに違いありません。晩年、狂気のさなかにあったニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたといいます。

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<Tomas Luis Victoria – Requiem>
http://jp.youtube.com/watch?v=KF2wU0zghoA

クラシックには疎い私が、このブログを通じて自分の勉強のために取り上げてきた作曲家の中で最も古い作曲家はイタリアのクラウディオ・モンテヴェルデ(1567-1643)でしたが、彼の音楽について記したものではありません。要は、クラシックを語るときに最初に登場するのが、モンテヴェルデであるという程度です。

「近代音楽の父」といわれるヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)よりも、およそ120年前に誕生したモンテヴェルデですから、それはバッハにとっても一昔前の人ということになります。今日は、そのモンテヴェルデよりも更に20年遡った時代にスペインで生まれたトマス・ルイス・デ・ビクトリアを取り上げます。

トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548年 アビラ - 1611年8月20日)は、「黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな宗教音楽の大家と見なされている」。(ウィキペディア)

ビクトリアのプロフィールの冒頭からわからない名前、言葉が出てきました。まず、パレストリーナとは誰か?

ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は「イタリア・ルネサンス後期の音楽家である。カトリックの宗教曲を多く残し『教会音楽の父』ともいわれる」。

次に、「ポリフォニック」とは何か?

ポリフォニー(polyphony)とは、「複数の異なる動きの声部(パート)が協和しあって進行する音楽のこと。ただ一つの声部しかない『モノフォニー』の対義語として、多声(部)音楽を意味する。音楽史上では中世西洋音楽期〜ルネサンス期にかけてもっとも盛んに行われた」。

「ポリフォニーは独立した複数の声部からなる音楽であり、一つの旋律(声部)を複数の演奏単位(楽器や男声・女声のグループ別など)で奏する場合に生じる自然な『ずれ』による一時的な多声化は『ヘテロフォニー』と呼んで区別する。なお、西洋音楽では、複数の声部からなっていてもリズムが別の動きでなければポリフォニーとして扱わないことが多く、この意味で『対位法』と重複する部分を持つ」。

んー、単なる合唱とは違うようです。「ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが、かの偉大な『死者のためのミサ曲』である。この作品は、1586年以来ビクトリアの主人であった皇太后マリアの葬礼のために作曲された」とあり、添付したYOUTUBEがそうだと思います。

ビクトリアは、1564年頃にローマに行き、イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)によって創設されたイエズス会の会士となったとあります。音楽は深く宗教と結びついていたのですね。

ビクトリアの生まれた時代の同時代人として日本では、徳川家康(1543-1616)がいます。この時代の日本の音楽は、地歌、長唄、浄瑠璃(義太夫節、常磐津節他)、箏曲、胡弓、尺八、明清楽ですから、ほとんど宗教色の薄い音楽であったと思われます。この時代、イエズス会が日本に布教活動に来ていますが、このときの状況を簡単に見ておきます。

日本でのイエズス会事業は、「ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は、フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が最初に洗礼を授けた鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった」。

「1561年には琵琶法師であった肥前白石(現在の平戸市)出身のロレンソ了斎(1526-1592)が入会。有名な天正遣欧少年使節(1582-1590)を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。・・・日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされた」。

琵琶法師がイエズス会に入会したとはなんとも奇異な感じがします。また、今からおよそ480年前にヨーロッパへ渡った天正遣欧少年使節が、ルネサンス期の西洋音楽をどんな気持ちで感じ取ったのか、興味のあるところではあります。日本とは全く異なる楽器、楽譜の記述法などで日本に彼らの音楽を持ち帰ることが不可能だった時代ですから、その音楽は使節団の記憶の中に埋もれたままだったのでしょう。

複数の日本人が一度に西洋音楽に触れたのは、それからおよそ270年後のペリー来航時の音楽隊の曲だったのでしょうか。(参考;7/8付けの記事「155年前の黒船『Yankee Doodle』」)

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「指揮法教程」なる本があるそうです。クラシック関係者、指揮者の方々以外にはほとんどその存在を知られず、読まれないと思いますが、この本は1956年に音楽之友社から出版後瞬く間に売れ、レナード・バーンスタイン(米1918-1990)から賞賛されたと言います。私にはこの「瞬く間に売れ」ということがよくわかりません。この本を書いたのが元・桐朋学園短期大学学長斎藤秀雄さん。この本は齋藤さんが遺した最も大きな仕事の一つだそうです。

今日はルーマニア生まれで、ドイツで活躍した指揮者・作曲家、セルジュ・チェリビダッケ (1912-1996の12回目の命日だそうですが、彼の生涯をウィキペディアで読んでいたら、次の記事ができてきました。

「全世界で三千人の弟子を教えたと言われている。その教育法は実践部分はある意味齋藤秀雄のメソッドにも似ており、何もない所に『拍』を生み出すための筋肉の動きを重視したものだった」。

という訳で、今日は、今後の私の人生でも全く関与しないと思われるこの本書を書いた齋藤秀雄さんとその「齋藤メソッド」について取り上げることにします。

7/6付けの記事「小澤征爾、そのプロフェッショナルとしての流儀」で取り上げた大江健三郎さんとの対談集「同じ年に生まれて」で小澤さんの口から何度も登場したのが師匠の齋藤秀雄さんとサイトウ・キネン・オーケストラでした。いわゆる「齋藤メソッド」といわれるこの「指揮法教程」について、ウィキペディアには次のように解説されています。

「弟子の伊吹新一は、「指揮の運動をメソッド化して教える方法は、父・斎藤秀三郎(1866-1929)の『斎藤英和中辞典』と多くの近似点を持っていること。またこの本に書かれたことは斎藤の教えそのものではなく、一般向けに内容を平易化しているために誤った理解がなされていること」を力説している。また、斎藤の没後、小澤征爾など斎藤のもとで指導を受けた門下生が編集委員となり、英訳版である“ THE SAITO CONDUCTING METHOD ”が音楽之友社より出版された」。

具体的な指揮法については、高橋利幸さんのHP「指揮法講座・齋藤秀雄メソードによる〜指揮法ワンポイントアドヴァイス〜」(http://n-music.jp/advise.html)を参照。

齋藤秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、「東京府出身の日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家である。英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京築地明石町に生まれ、1906年から麹町五番町(現在の東京都千代田区一番町)に育つ。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。後に『オルケストル・エトワール』というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している」。

「16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの勉強をはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。22年には当時作曲家、指揮者として有名だった近衛秀麿(内閣総理大臣を務めた近衛文麿の実弟)に随伴して、ドイツに留学。ライプチヒ音楽学校に入学してチェロの名教師ユリウス・クレンゲル(独1859–1933)に学ぶ」。

「1927年に帰国しNHK交響楽団の前身である新交響楽団に首席チェロ奏者として入団。翌1928年の第30回定期では指揮者としてデビューする。同年にはチェリストとしてもデビューを果たし、1929年に初のリサイタルを開催して成功を収める。1930年、ベルリンに留学し、ベルリン・ホッホシューレでエマーヌエル・フォイアーマン(ウクライナ1902-1942)に師事する。ホッホシューレを修了後帰国し、再び新響の首席チェリストとして活動を続けるが、チェリストとして出演した演奏会で失敗したのがきっかけとなり、ソリストとしてはあまり活動しなくなる(ただし太平洋戦争中には後述の指揮活動と並んで、チェリストとしてしばしば放送に出演している)」。

「1936年、新響の招きで来日したヨーゼフ・ローゼンシュトック(ポーランド1895-1985)との出会いは齋藤の将来を大きく変えた。齋藤はローゼンシュトックのありとあらゆるものを吸収しようと努力。ローゼンシュトックの音楽に対する情熱や指導方法は、戦後『齋藤メソッド』を確立する際大いに参考になった。1939年には新響初の海外公演(京城)に帯同するが、1941年、新響が翌年の日本交響楽団への改組に向けた準備に際し、齋藤がすでに日本ビクターと個人契約していることがネックとなり、同年秋のシーズン開幕を前に新響を退団し、指揮者として独立することとなる。齋藤は松竹交響楽団や東京交響楽団などの首席指揮者を務め、1943年には戦時中の困難な状況の中、井口基成とベートーヴェンの『皇帝』を、1944年には巌本真理とベートーヴェンのロマンス第1番、第2番を録音する」。

「終戦後、巌本や森正らの室内楽活動に手を貸す傍ら、1948年には井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと『子供のための音楽教室』を開設。これが後の桐朋学園の一連の音楽系学科開設につながっていく。齋藤は同学園にて弦楽部門を担当する。1952年には桐朋女子高校音楽科主任、1961年から1972年まで桐朋学園大学教授を歴任。1955年には海外に長期滞在することとなった井口の留守を預かる形で桐朋学園短期大学学長に就任。1964年には桐朋学園弦楽合奏団を結成し、アメリカ公演を行い、成功を収める。1967年には日本指揮者協会会長に就任。その後は新日本フィルハーモニー交響楽団顧問を務めた後、癌のため1974年9月18日に東京都中央区明石町の聖路加国際病院で亡くなった」。

「没後、齋藤の教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラやサイトウ・キネン・フェスティバル松本が創設され、2000年に亡くなった齋藤の夫人・齋藤秀子の遺言により財団法人ソニー音楽芸術振興会によって2002年に『齋藤秀雄メモリアル基金賞』が創設されるなど、齋藤に因む賞やイベントが多く行われている」。(ウィキペディア)

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<Richard Wagner, Siegfried Idyll>
http://jp.youtube.com/watch?v=10shoN4Cug4&feature=related

今日はリヒャルト・ワーグナー(1813 - 1883)の「ジークフリート牧歌」(独語:Siegfried-Idyll)を取り上げます。まずはこの曲に関するウィキペディアの記事から。

「室内オーケストラのための作品で、音詩もしくは一種の交響詩と看做しうるが、特定の筋書きや情景が意図されているわけではない。1870年に、妻コジマ・ワーグナー(1837- 1930)への誕生日およびクリスマスの贈り物として準備された。同年12月25日に、ルツェルン州トリープシェンの自宅(現在、リヒャルト・ワーグナー博物館となっている)で非公開初演が行われ、事前にその存在を知らされていなかったコジマを、いたく感激させた。本作品はまた、前年(1869年)に息子ジークフリートを産んでくれたコジマに、ねぎらいと感謝を示す音楽でもあった」。

「ワーグナー夫妻の私的な団欒の音楽だったため、とりわけコジマは出版を渋ったが、発表されるとたちまち人気を呼び、オーケストラの標準的なレパートリーに含まれるようになって、ワーグナー家の家計をある程度まで潤した。原題は『フィーディー(ジークフリートの愛称)の鳥の歌とオレンジ色の日の出をともなうトリープシェン牧歌』であった。鳥の歌や日の出は、ワーグナー夫妻にとって、私的な意味のあるエピソードだったらしい」。

「ジークフリート」ってよく耳にする名前ですが、意味を調べると、「巨竜Fafnir(ファヴニール)を退治したドイツ伝説の英雄」とありました。ジークフリードがリヒャルトとコジマの間に生まれた期間は、すでに二人の姉がいましたが、彼の両親は正式な夫婦ではありませんでした。コジマと指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)との離婚が成立するのが1870年です。コジマ自身も、フランツ・リストの愛人であったマリー・ダグー(ダニエル・ステルン1805-1876)との間に生まれています。

息子の出産をねぎらって、妻の誕生日にプレゼントされた曲。こういう贈り物の仕方ってオシャレですね。一つのプレゼントに、二つの存在に対する感謝を込める。誕生の経緯にはちょっと複雑なものがありますが、リストとリヒャルトの血を引くジークフリートは大変恵まれた環境で育ったのでしょう。父の大作「ニーベルングの指輪」で指揮者デビューを果しますが、4夜通しの演奏を前提に書かれたというこのオペラを引き受けるだけの資質は誰にでもあるものではありませんね。

ジークフリート・ワーグナー(Siegfried Herferich Richard Wagner, 1869年6月6日 - 1930年8月4日)は、「ドイツの指揮者、作曲家、演出家。リヒャルト・ワーグナーとコジマ・フォン・ビューローの子で、フランツ・リストの孫」。

「当初は父リヒャルトが必ずしも音楽家の道を強制しなかったこともあり、建築家を志し建築学を専攻していた。だが徐々に後継者としての使命感に目覚め、父の弟子フンパーディンクに師事、作曲を学んだ。作曲家としては多作で、オペラの作曲数は19と父親よりも多く、台本も自ら執筆している。この他に交響詩や協奏曲などの器楽曲も手がけた。ただし彼の作品は生前から評価が高くなく、今日の標準的なレパートリーにもどれ一つ残っていない」。

「1896年にはバイロイト音楽祭の『ニーベルングの指輪』で指揮者としてもデビューを果たした。指揮者としては相当な腕の持ち主で、バイロイト祝祭の一時期を支える一方、ドイツ各地でも巡演をおこなった。1908年からは同音楽祭の終身芸術監督に就任し、いくつかの新演出も担当した。後年の『トリスタン』では舞台を簡素化した上で、最新の照明技術を積極的に駆使するなど、新バイロイト様式のはしりとも言える革新的試みもおこなったが、1930年、母コジマの後を追うように心臓発作で死去」。

「性格は極めて温厚で円満であり、癇癪や偏見、浪費といった父親の悪癖とも無縁だった。その人柄には多くの音楽家が惹き付けられ、気むずかし屋で知られたトスカニーニも彼のためにバイロイト音楽祭への出演を快諾している。 その気質からか、台頭しはじめていたナチズムにも終始距離を保ち続けた」。(ウィキペディア)

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朝比奈隆さんと言うと、クラッシック通、朝比奈ファンならまずは、大阪フィルの設立者であること。次に、日本のブルックナー解釈の第一人者であることを挙げられるでしょう。私はと言えば、これまで朝比奈さんがタクトを振られるオーケストラの演奏をテレビで眺めたことがある程度で、彼の仕事を知る由もありませんでした。

今回改めて朝比奈さんの生涯を辿ってみて、私が興味を持ったのは指揮者になられるまでの経歴でした。京都帝大法学部卒→阪神急行電鉄勤務→京都帝国大・文学部学士卒。変わったキャリアということではソニーの元会長の大賀典雄(1930年1月29日-)さんが思い浮かびますが、藝大からビジネスマンになった大賀さんとは逆の流れというところでしょうか。

朝比奈さんは「一日でも長く生き、一日でも多く舞台に立つ」の信条をそのまま実践した93年の生涯だったと言われます。これは朝比奈さんが師事したロシア人指揮者で「関西音楽界の父」と呼ばれたエマニエル・メッテルから言われた言葉だそうです。このメッテルのことを調べると、服部良一さんも同じく師事していることがわかりました。

〜服部良一が大阪フィルに入った時に自分のパートだけではなく、譜面台にミニスコア(総譜)を置いて練習をしていたのをメッテル先生に認められ、「モットベンキョウシナサイ。」一週間に一度メッテル先生の家に通うようになったのがきっかけということです。同じ時期にかの朝比奈隆さんがメッテル先生のお宅に通っていたという事なので、まさしく服部良一と朝比奈隆さんは「同門下」になります。〜服部音楽出版「胸の振り子」(http://www.r-hatto.com/index.html)、「メッテル先生のこと」〜

今日は、朝比奈さんの生誕100周年にあたる日です。大阪フィルではその100歳の誕生日である今日、朝比奈さんの代名詞ともいえるブルックナーが最後に残した交響曲第9番を現音楽監督大植英次さんの指揮で捧げる記念コンサートが行われます。

会 場:ザ・シンフォニーホール(18:00開場 19:00開演)
指 揮:大植 英次
独 奏:伊藤 恵(ピアノ)
曲 目:モーツァルト/ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488、ブルックナー/交響曲 第9番 ニ短調

朝比奈隆(あさひな たかし、1908年7月9日-2001年12月29日)は、「大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた日本の指揮者である。指揮者の朝比奈千足は長男。東京牛込に生まれ、幼少の頃に朝比奈家の養子となり朝比奈姓となる。祖母に、当時は(現在も)高級品であったヴァイオリンを買ってもらったことがきっかけで音楽に興味を示す」。

「(旧制)東京高等学校卒業を経て京都帝国大学(現:京都大学)法学部を卒業(1931年)後、2年間阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に勤務。電車の運転や車掌、百貨店業務などを行う。旧制高校、大学、阪急時代にのちに関西財界を担った多くの人材と知り合う。その後、改めて京都帝国大学に学士入学で入り直し、同大学文学部を卒業した(1937年)」。

「旧制高校時代には友人と弦楽四重奏団を結成したり、1927年2月20日の新交響楽団(現:NHK交響楽団)の第1回定期演奏会を聴いたりもした。法学部在学中には同大学のオーケストラ(京都大学交響楽団)に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当。やがて指揮をロシア人指揮者エマニエル・メッテルに師事、その他、レオニード・クロイツァーやアレクサンドル・モギレフスキーの影響を受けた。卒業の1937年に、京大オーケストラを指揮して指揮者デビューを飾った。文学部在籍中より大阪音楽学校(現:大阪音楽大学)に勤め、卒業後教授に就任した」。

「1947年4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成する。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。1950年代からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団や北ドイツ放送交響楽団などヨーロッパの主要なオーケストラに招かれるようになった」。

「1960年に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称(定期演奏会の回数は、改称時に数えなおしている)。同楽団の常任指揮者を経て音楽総監督となり、ヨーロッパ公演を3回、北米公演を1回行い、亡くなるまでその地位にあった。1つのオーケストラのトップ指揮者を54年間務めたことになる」。

「1973年、大阪フィルが東京公演を行った。当時の大阪フィルの評価は前述のように『所詮は大阪の一ローカルオーケストラ』として見られ、朝比奈も『玉砕覚悟で恥をかきに行こう』と、ある種悲壮な決意を持っての公演だったと言われている。この公演で取り上げた曲目の中には、ブルックナーの交響曲第5番も含まれていた。1954年以来しばしばブルックナーを取り上げていた朝比奈であったが、それまでは納得の出来る演奏が出来なかった。しかし、この東京公演で取り上げた第5番は、朝比奈も上出来と思うほど出来栄えが素晴らしく、観客も大喝采を浴びせた」。(ウィキペディア)


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