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大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

クラシックのプロムナード

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昨日、指揮者の小澤征爾さんと作家の大江健三郎さんの対談集「同じ年に生まれて〜音楽・文学が僕らをつくった〜」(中央公論新社刊)という本を読みました。お二人はともに1935年のお生まれで、2000年の6月にハーバード大学の名誉博士号を受けられました。その二ヵ月後に行われた対談です。

ビジネスの世界ではここ十数年に出版されたどのビジネス書を読んでも、とにかくスピードが大切だという金科玉条(a golden rule)が書かれています。それは社内のレポートや対外的なプレゼン資料にいたるまで、「できはよくないが、仕事が早いこと(a rough-and-ready [helter-skelter] method)」という「拙速」が好まれ、「出来ばえはすぐれているが、仕上がりまでの時間がかかる」という「巧遅」は断罪される世界ですね。

そういった意味でビジネスと対極の「巧遅」の世界にあるのが、芸術家の仕事です。この本を読んで感じたのは、伝えること、コミュケーションの問題です。ITの普及でとりわけビジネス上の時間が短縮される中で、なおもコミュニケーションの問題はITだけでは解決してないのではないかということです。確かに手段としてのコミュニケーションツールは目覚しい発達を遂げましたが、このこととコミュニケーションが深まることとは別の話だと思ったわけです。

本書の中で大江さんは「丹念にものを創っていくこと」を「エラボレート」(elaborate)という英語で表現しています。大江さんや小澤さんが読者や聴衆に思いを伝えるためにどのような心持で仕事をしているのか知ると、このコミュニケーションを深めるための技術、伝える努力はただならぬ作業なのだと実感させられます。ここでは小澤さんの仕事の取り組みをみてみましょう。

オリヴィエ・メシアン(仏1908-1992)の「サン・フランソワ・ダッシ―ズ」(「アッシジの聖フランチェスコ」)というスコア(楽譜)が900ページもある、上演に6時間もかかるオペラを小澤さんが暗譜していることに、「E.T」などの映画音楽の作曲者でもあるジョン・ウイリアムス(1932.2.8-)が「どうして暗譜しているんだ」と聞いたら、「まず指揮者には演奏家とのアイコンタクトが重要だ」と答えたことを大江さんが紹介しています。

「その曲を自分で書いたというぐらいに納得して咀嚼してやると暗譜がやりやすい、だから暗譜することが大事だというんじゃなくて、やっぱり勉強することが大事だということですかね」。

オペラの場合、歌い手との丁々発止が重要で、それには900ページもあるスコアをいちいちめくっていては、そのときの左手のディレクションが止まってしまい、支障を来たすということもあるようですが、それにしても900ページのスコアを暗譜するということはただならぬことで、ジョン・ウイリアムスでさえ驚嘆しているわけです。

「僕はマーラーをいままで全曲を三回ほど七、八年おきにやっていたわけですね。同じスコアで勉強していた。ということは、三十年近く前からの書き込みがだんだんとたまってきている。これは僕にとってはすごい面白いことで、それを見ながら、またディテールを読み始めるわけですね。棒振りというのはまったく因果な商売で、ディテールといって、スコアの一つ一つの音を読んでいって、それを耳のなかで再現していくんです。そうすると、また違うことを書き込むわけですよ。そのディテールが終わるころには、前に書き込んだものとはどうも意見が違うようなことが起きる、それを楽しむようになってきたんです」。

「ディテールは自然に体のなかに入ってきますと、ディテールがディテールのままでいるわけないんです。それがお互いに働き始めて、自分が指揮者としてオーケストラの現場に行くころにはもうほぼ出来上がっている。今度はオーケストラの人が実際に音を出してくれると、それを聴いてびっくりしたり、仰天したり、これは違ったと思ったり、あ、なるほどと思ったりする。それで、もっとこっちへ行くべきだと思って、最後の現場修正をそこでやる」。

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第1次世界大戦の末期に、まだポズナニ市と大ポーランド全域の運命に決着がついていなかった時期に、ポーランド最古の都市の一つであるポズナニを訪れ、1918年12月27日の演説において、ポズナニのポーランド人住民がドイツに対して武力蜂起を起こすように呼びかけたピアニストがいました。その名は、イグナツィ・パデレフスキ。

〜1919年に新生の独立ポーランドにおいて、59歳のパデレフスキはポーランド首相と外務大臣を兼務した(1919年1月〜11月)。為政者としてパデレフスキは、ポーランドを代表してパリ講和会議に出席した。任期を終えると、国際連盟ポーランド大使を勤めた。〜

音楽家として名声を欲しいままにしていた音楽家が何故政治の世界に踏み込んだのか、それには次のような経緯があったようです。それは彼が1899年ヘレナ・グルスカと再婚し、1900年以降はめったに人前で演奏しなくなり、その代わりに作曲家として、それも主にピアノ曲の作曲家として有名になり、1901年にオペラ《マンル Manru》がドレスデンで上演された頃から・・・。

〜夫婦で社会事業や寄附活動も行なった。例えば、貧しい農家の子女のために学校を開いたほか、1910年には、ドイツ騎士団に対するポーランド人の戦勝500周年を記念して、古都クラクフの住民にモニュメントを贈った。また同年には、ショパン生誕100周年記念のモニュメントも建てている。1913年にパデレフスキはアメリカ合衆国に居を構え、サンフランシスコに2000エーカーのブドウ畑を所有し、ワイン製造業を興している。〜

〜第1次世界大戦中にパデレフスキは、パリの「ポーランド民族委員会」の活動家となった。ポーランドは当時まだドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり、この委員会は三国協商側から、三国連合側ポーランドの代表と見なされていた。パデレフスキはこの組織のスポークスマンとなり、ロンドンにおける「ポーランド回復基金」など、その他の社会組織や政治組織をまもなく立ち上げた。〜
〜1918年4月に、パデレフスキはニューヨーク市で、「アメリカ・ユダヤ人委員会」の指導者(ルイス・マーシャルなど)に会い、ユダヤ教徒を同権とすることと引き換えにポーランドの領土的回復の野心を支援してもらおうと交渉を持ち掛けたが、失敗したという。〜

〜1922年にパデレフスキは政治の道から引退して、演奏活動に復帰した。長い中断の後での最初の演奏会はカーネギー・ホールで催され、目ざましい成功を遂げた。やがてスイスのモルジュに転居した。1926年のユゼフ・ピウスツキによるクーデターの後、パデレフスキは体制翼賛法案に反対する活動家となった。1936年に反体制メンバーが、スイスのパデレフスキの邸宅で署名を行った。(この間、1929年にヘレナ夫人が心の病から社会事業を続けられなくなり、1934年についに他界している。)〜


イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日-1941年6月29日)は、「ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカ (Kuryłówka) に生まれる。父親はポーランド系の小貴族で、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた」。

「パデレフスキは幼年期から音楽に興味を示し、初めは個人教師についてピアノを学んだ。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進学した。1878年に卒業後、母校のピアノ科で教師になるよう依頼され、それを引き受ける。1880年にアントニナ・コルサクヴナ (Antonina Korsakówna) と結婚し、まもなく最初の子アルフレト (Alfred) が生まれた」。

「しかしながら翌年になると長男の障害が判明し(1901年に死去)、10月にアントニナ夫人も亡くなってしまう。パデレフスキは音楽に献身することを決心して、1881年にベルリンに留学して、フリードリヒ・キール (F. Kiel) とハインリヒ・ウルバン (Heinrich Urban) に作曲を師事。1884年にウィーンに移り、レシェティツキに入門する。1885年から1886年までシュトラウスブルク音楽院で教鞭を執った後、1887年にはウィーンでのデビューを果たした」。

「やがて大変な人気を集めるようになり、その後の出演は(1889年パリ、1890年ロンドン)大成功となった。パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。パデレフスキの成功は、1891年にアメリカ合衆国においても繰り返された」。

「パデレフスキの名は、たちまち高水準のピアノ演奏と同義となり、社交界が彼に跪いたのである。パデレフスキは、万全の技術を身につけるのに忍耐力が必要なことを、以下のように述べ、多くの人に記憶されてきた。『私が一日中練習しなかったとしたら、聴衆にそれが分かってしまうでしょう』。」

「1939年ポーランド祖国防衛戦争(ポーランド9月作戦)」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年には、ロンドンにおける「ポーランド国家評議会」、すなわちポーランド亡命政府の指導者になった。今や80歳の芸術家が、再びポーランド回復基金を発足させ、財源確保のために何度か演奏活動を行なったのである(最も有名なのはアメリカ合衆国での演奏会)」。

「このような演奏旅行の最中に、パデレフスキは1941年6月29日の午後11時に、ニューヨーク市に客死した。亡骸はアーリントン墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、レフ・ヴァウェンサ大統領とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が列席する中、ワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された」。(ウィキペディア)

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昨日、テレビで(「ランキングの楽園」だったでしょうか)「ドレミファソラシド」はなぜそう呼ばれるようになったか?ということを解説していました。私もこのブログの一昨年6月24日付の記事〜「聖ヨハネ」と「ドレミ」と「ミソラ」〜で、1024年、イタリアの僧侶ギドー・ダレッツオ(グイード・ダレッツォ)がドレミの音階を定めた日とされ、この日に開かれる「洗礼者ヨハネの祭」の日の為に、ギドーが合唱隊に「聖ヨハネ賛歌」を指導し、その曲の各小節の最初の音が「ド・レ・ミ」のもととなる「ウト・レ・ミ・ファ・ソレ」の音階であることを発見したことを取り上げました。

そのときはあまり詳しいところまでは入っていなかったので、改めてウィキペディアから引用しておきたいと思います。

「イタリア語やフランス語では、『聖ヨハネの夕べの祈り』の歌詞に基づいて、下から上にUt、Re、Mi、Fa、Sol、Laが決められ、後にイタリア語ではUtがDoになり、LaのあとにSiが加えられた。UtはCに相当する。その『聖ヨハネ賛歌』または『聖ヨハネの夕べの祈り』は、中世の賛歌のひとつである。イタリア語とフランス語の音名の由来になったことで知られている」

『聖ヨハネの夕べの祈り』、その歌詞(ラテン語)は・・・。
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Johannes

(大意)
あなたの僕(しもべ)が
声をあげて
あなたの行いの奇跡を
響かせることができるように
私たちのけがれた唇から
罪を拭い去ってください
聖ヨハネ様。

「第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれ C - D - E - F - G - A の音になっている。このことから、グイード・ダレッツォはこの歌詞の初めの文字を音名として使用しようと考え、第1節から第6節までの歌詞を利用して"Ut - Re - Mi - Fa - Sol - La"の音名を発明した。これはそのままフランス語音名になった。その後、発音が容易なようにと、"Ut"は"Do"になった。第7節の2つの語のそれぞれの頭文字をとると"SJ"となるが、JはIの異字体とみなすことができるので、のちに"SI"に変化した。これにより、7つのイタリア語音名『ドレミファソラシ』が成立した」。


グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo。Guido Aretinus, Guido Monaco とも表記される、991年または992年 - 1050年)。「中世イタリアの音楽教師。現在の楽譜の表記法の原型を考案した。またMicrologusと呼ばれる中世の音楽史上に広く受け入れられた論文を発表したことでも有名。グイードは「グイードの手」と呼ばれる聖歌の記憶術も考案した。それは音階名を手の各所で示すという方法で、かつては広く使用されていたようだ」。(「グイードの手」http://jp.youtube.com/watch?v=RlleweQuq14


「グイードの音楽指導法は高く評価され、1028年、当時のローマ教皇ヨハネス19世の前でその指導法を披露した。グイードに関する記録は1033年を最後に残っていない。1050年ごろアレッツォ、あるいはアベヤーノで死去したようだ」。(ウィキペディア)

写真は、イタリアのアレッツォにあるグイード・ダレッツォの像。

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昨日取り上げたヴァイオリニストのNAOTOさんが元ローディーだったのが落合徹也さん。ローディー(roadie)とは、楽器の手配、積み込み・積み卸し、輸送(トランスポート)、セッティング、エフェクティングといったコンサート業務、楽器のメンテナンス・管理、ミュージシャンに対するサポート業務を行う役職。コンサートやレコーディングのスタッフ。昔は、「ボーヤ(坊や)」、「バンドボーイ」と呼んでいました。

東京藝大卒の人々、日本国内の芸術家養成学校の最高峰ですが、ここから世界に通用する才能が生れることは、そう多くはありません。西洋音楽にしても西洋美術にしても、留学という武者修行を経験して初めて世界の表舞台に立つことができるという厳しい世界ですね。そもそも、西洋の人々にとっては、何故東洋人がわざわざ西洋の音楽をやるのかという違和感はあるでしょうね。

落合さんとは直接関係ない話になってしまいましたが、彼らの活動を見ていると、この西欧音楽の伝統に基礎を置きながら、このクラシック音楽の中から新たな音楽を生み出してくれそうな気がします。かつて、チャック・ベリーが「ロール・オーバー・ベートーヴェン」と唄いましたが、ベートーヴェンを超えるとすれば、やはりそれは彼らのような才能からしか生れないような気がします。

落合徹也(1968年12月10日-)は、「日本のヴァイオリニスト、トランペット奏者。東京都出身。東京藝術大学音楽学部卒業。父はヴァイオリニスト、母はピアニストであり、6歳の時に父の手ほどきによりヴァイオリンを始めた。東京藝術大学在学中、後藤勇一郎、榊原大と出会い、ポップス・インストゥルメンタルバンド『G-クレフ』を結成。それまでにない演奏スタイルが話題を呼び、1990年12月、インストゥルメンタルのグループとしては初めてNHKの紅白歌合戦に出場するなど活躍した」。

「1994年のG-クレフ解散後、1995年にソロアルバム『粗品』を発売。現在ではソロワーク以外にも、『弦一徹ストリングス』を主宰し様々なアーティストのライブやレコーディングに参加するなどしている(代表的な例を挙げると、松浦亜弥の『草原の人』のストリングスアレンジを担当しているのは落合である)」。

「2000年には大坪稔明(キーボード)、永井敏己(ベース)、清水一雄(ギター)、石川英一(ドラム)といった実力派メンバーとPryme Tyme というバンドを結成、『Pryme Tyme 』というアルバムを発表した。弦一徹はヴァイオリン奏者としての芸名であり、トランペット奏者の時は管一徹と名乗っている。最近では上松範康や大久保薫の楽曲でストリングスアレンジを行うことが多い」。(ウィキペディア)

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昨日取り上げた清塚信也さんが登場した番組に出ていたのがヴァイオリニストのNAOTOさんでした。クラシックの垣根外しに腐心する清塚さんの、先鞭となる活動を続けているのが、NAOTOさんでした。勿論、こういった活動をしているミュージシャンは、高嶋ちさ子さん、葉加瀬太郎さんと遡ることができます。海外には、昨年12月28日付の記事「『100万人に1人のヴァイオリニスト』と呼ばれるパンクなナイジェル・ケネディ」のナイジェル・ケネディが思い浮かびます。


NAOTO(1973年8月15日 - )は、「日本のヴァイオリニスト、作曲家、編曲家。大阪府高槻市出身。本名は高橋 直之(たかはし なおと)。東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。全日本学生音楽コンクール西日本大会入賞、霧島国際音楽祭奨励賞受賞の実力派のポップスヴァイオリニスト」。

「元々はクラシック出身であったが、大学時代にポップスに転向、落合徹也(G-クレフ)の影響を受け(落合のローディーであった)、既存のジャンルにとらわれない独自のスタイルより、自らを『Poper(ぽっぱぁ)』と称している。また藝大出身のメンバーで構成するバンド『なおとくんとていほうくん』や『NAOTOアコーステックライブ』他、セッション等を精力的に行いつつ、スタジオワークや他アーティストのライブサポートをこなす」。

「彼のライブサポートで一番有名なのは、ポルノグラフィティ(レコーディングにはデビュー時より)のライブサポートである。これには2001年11月より参加し、近年では彼を含めた『サポートメンバー』達はポルノグラフィティファンの間でも人気があり、サポートのパフォーマンスはライブの一つの楽しみにもなっている。 また、初のライブサポートは、1994年12月に中野サンプラザで行われたTHE YELLOW MONKEYの『JAGUAR HARD PAIN FINAL TOUR'94』である」。

「一方、癒し系の代名詞となったlive image では、オーケストラimageのコンサートマスターを務め、金髪でヴァイオリンを弾く姿は特に女性ファンの人気を博し、2006年2月にリリースされたimage5 cinqには自身の1st albumから「Sanctuary」が収録されている」。(ウィキペディア)


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