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<Rostropovich - Bach Cello Suite No.1 – Allemande>
http://www.youtube.com/watch?v=S9ZVuV8Py24&feature=related
先日、「虚業成れり〜『呼び屋』神彰の生涯」(大島幹雄著/岩波書店)という本を読みました。神彰(じん・あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)さんとは、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーターで、戦後国交のなかったソ連の芸術家たちを日本に数多く招聘したことから「赤い呼び屋」と呼ばれた人です。その神さんが、1958年に初めて呼んだ交響楽団が、レニングラード交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)でした。
そのレニングラード交響楽団が連れてきた一人のチェリストが当時の日本人の胸を打ちました。当時の朝日新聞ではこのチェリストのことを次のように記しています。
「まだ31歳で、ステージに現れた時にははにかんでいるように見えたがチェロをもってザンデルリング氏と並ぶと、両氏ともかなり背が高く大きい。まずチェロのピッチをあわせると、高いピーンとした張りのある音が聞こえた。この人のチェロは上から下まで音がねれていて非常に高い技術を持っている」
このチェリストこそ、昨年亡くなってしまったムスティスラフ・ロストロポーヴィチさんです。記事では引き続き次のように評しています。
「ロストロポーヴィッチ氏は速いところで軽くきざむ右手の弓使いがまことに見事であったし、音程のむずかしいところでも技巧を感じさせない。三度もアンコールで出てきた時には、最初現れた時のようなはにかんだところがなく、ザンデルリング氏の手をひっぱってうれしそうに上を向いて出てきた。レニングラード交響楽団のおみあげのひとつであるロストロボーヴィッチ氏の独奏は大成功であった」(朝日新聞1958年4月26日)
ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ(Mstislav Leopol'dovich Rostropovich, 1927年3月27日 - 2007年4月27日)は、「アゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト・指揮者・ピアニスト。とくにチェリストとしては、20世紀後半を代表する巨匠として知られた。妻のガリーナ・ヴィシネフスカヤは声楽家」。
「チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。プロコフィエフの交響的協奏曲(チェロ協奏曲第1番の改作、1952年)、ショスタコーヴィチの2つのチェロ協奏曲(第1番 1959年、第2番 1966年)、ブリテンのチェロ交響曲(1964年)、ブリスのチェロ協奏曲(1970年)をそれぞれ初演した」。
「このほか、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、ルトスワフスキ、ジョリヴェ、デュティユー、シュニトケ、バーンスタイン、外山雄三ら、20世紀の代表的な作曲家が競ってロストロポーヴィチのために作曲しており、ロストロポーヴィチに捧げられた現代作品は170を超すといわれる。このように、ロストロポーヴィチの存在がチェロの現代レパートリーを大きく拡大したといえる」。
「主としてEMIクラシックスに数多くの録音がある。1995年にはバッハの無伴奏チェロ組曲の録音がリリースされた。室内楽では、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチ、コーガン、オイストラフら世界的演奏家と共演した」。
「ロストロポーヴィチは芸術や言論の自由を擁護する立場から、さまざまな活動を繰り広げた。とりわけソビエト時代に物理学者アンドレイ・サハロフを擁護したことや、ソルジェニーツィンに別荘の車庫を仕事場として提供し、4年間かくまったことが知られる。人道的活動にも情熱を注ぎ、ガリーナ夫人とともに、子供の医療改善をめざすヴィシネフスカヤ=ロストロポーヴィチ財団を設立した。同趣旨の活動の一環として、ユネスコ親善大使にも就任した」。
「同じく反体制亡命芸術家として、映画監督のアンドレイ・タルコフスキーとも友人であり、1986年のパリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院におけるタルコフスキーの葬儀では、バッハの無伴奏チェロ組曲を捧げ、泣き崩れた」。
「これらの経歴により、世界文化賞、ドイツ勲功十字賞、イギリスの最高位勲爵士、フランスのレジオンドヌール勲章(コマンドール)、スペインのカタロニア国際賞、アメリカの自由のための大統領メダル、スウェーデン極北賞、ロイヤル・フィルハーモニー協会ゴールド・メダル、レーニン賞、人権同盟の年間賞、高松宮殿下記念世界文化賞など、30ヶ国を超える国々から130以上もの賞を授与され、音楽家としておそらく史上最も多くの勲章を受けているといわれる。このほか各国で40以上の名誉学位を与えられた」。
「親日家としても知られ、1958年に大阪国際フェスティバルで初来日して以降、たびたび来日した。指揮者小澤征爾や九重親方(元横綱千代の富士)と親しかった。寿司が大好きで、来日の際には必ず東京の築地市場を訪れたという。1980年代のソビエトから国籍が剥奪されている間は、ヤマハのジュニアオリジナルコンサートの宣伝インタビューのような仕事も、好んで受けていた。皇后美智子の古希のお祝いに来日、今上天皇夫妻臨席の下でチャリティー・コンサートを開くなど、日本の皇室との親交も深かった」。(ウィキペディア)
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