「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

クラシックのプロムナード

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今日、テレビ東京系「みゅーじん<音遊人>」で清塚信也さんを取り上げているのを見ました。清塚さんについてはこれまで取り上げたつもりでしたが、2006年のテレビドラマ「のだめカンタービレ」で、千秋真一(演:玉木宏)のピアノ演奏シーンの吹き替え担当、2007年の映画「神童」で、ワオ(演:松山ケンイチ)のピアノ演奏シーンの吹き替え担当として、さわりに扱った程度でした。

印象に残ったのは、彼が現在、クラシックの垣根をいかに外していくかということに腐心していることでした。演奏家とリスナー、オーディエンスとの接点が少ない、それがクラシックの致命傷だと清塚さんは語ります。そんな彼は、100回以上開いたサロンコンサートの最後は即興で楽曲をつくり、ピアノで演奏するという試みを行っています。

清塚さんの趣味はバイク。そのバイクで葛西臨海公園の水族館に行く。そこで泳ぐマグロが、自分に似ているという。マグロは泳ぎ続ける。泳ぎを止めたら死ぬからだ。そんなマグロに自分が似ているという。幼い頃から、ピアノを弾き続けてきた。彼の中では、ピアノを弾かないことは、死ぬことと同じ。厳しい世界に足を踏み入れた。ある意味、羨ましい。


清塚信也(きよづか しんや、1982年11月13日-)は、「日本のピアニスト。東京都出身。中村紘子氏、セルゲイ・ドレンスキー氏に師事。コンサート、テレビドラマや映画での吹き替え演奏といった活動を経て、2007年にアルバム・デビュー。コンピューターミュージックでアレンジされたクラシック曲や自身が作曲したオリジナル楽曲など、クラシックだけに偏らない幅広い活動をしている。演奏活動だけでなく、TVや雑誌等で多数紹介されるなど、日本のクラシック界の若手を代表する存在」。

2000年、第1回ショパン国際コンクールin ASIAで1位となる。
2001年、桐朋学園大学付属ソリストディプロマコースに入学。
2004年、第1回イタリアピアノコンコルソ金賞。
2005年、日本ショパン協会主催ショパンピアノコンクール第1位。
2006年、ザイラー国際ピアノコンクールで3位。

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<Paul sings Nessun Dorma high quality video/sound>
http://jp.youtube.com/watch?v=1k08yxu57NA

昨日の「奇跡体験!アンビリバボー」、見た方も多いと思います。いやー、感動でした。まさに、質の高い、短い映画を見ているようでした。彼の奇跡は、33年の冴えない生活の中でもオペラ歌手になることを諦めなかった地味な努力が土台にありました。そして、インターネットのチャット・ルームで知り合ったJulie-Ann Cooperと結婚したことで、その人生はゆるい上昇気流に乗ったのでした。貧しくも、二人で家計を支える妻との暖かい生活。

そんなある日、彼は自転車での通勤途中に事故に会います。そのときに突きつけられた治療費の請求書を見て愕然とします。彼は歌手への夢とその努力を捨てるために、「Britain's Got Talent」のオーディションを妻に内緒で受けます。ここが彼の大きな転機でした。

冴えない携帯電話のセールスマンが舞台に登場し、その容姿から誰もが何の期待もしない中で、ジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇「トゥーランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ(Nessun Dorma)」の前奏が流れます。一度、彼が唄いだすと、聴衆も審査員たちの表情は、好奇から驚きへ、そして今何が起きているんだという戸惑いへ。いつしか涙が流れ、彼が唄い終わると感動の渦。

辛口のプロデューサー、サイモン・コーウェルが、「君はほんとに、携帯電話のセールスマンなのか?」と驚嘆し、女優のAmanda Holdenは、「あなたは磨けばダイアモンドなる原石だわ」と絶賛します。私も思わず、涙してしまいました。彼の半生はすでに映画化が決定しているようです。幸運の女神は、ポールの地道な努力をちゃんと見ていたんですね。彼がつかんだ「ワンチャンス」が花開きました。


ポール・ポッツ(Paul Potts、1970年10月13日-)は、「イギリスのオペラ歌手。イギリス・ブリストル出身。ポッツはイギリスのオーディション番組「Britain's Got Talent」(America's Got Talentの英国版)で優勝し、同番組の激辛審査員としても知られるプロデューサー、サイモン・コーウェルに認められ、一夜にして携帯電話ショップの店員から世界的オペラ歌手となる」。

「日本でも2007年夏頃から、容姿から想像し難い美声で番組を勝ち抜く姿がネット上の動画サイトなどで話題となった。デビュー作はアルバム『ワン・チャンス』。本作は2007年7月23日付全英初登場1位。米国では同年11月24日付ビルボード総合チャートで、前週115位から23位へ急上昇。特異な経歴が受け、世界中で旋風を巻き起こしている」。(ウィキペディア)

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<Rostropovich - Bach Cello Suite No.1 – Allemande>
http://www.youtube.com/watch?v=S9ZVuV8Py24&feature=related

先日、「虚業成れり〜『呼び屋』神彰の生涯」(大島幹雄著/岩波書店)という本を読みました。神彰(じん・あきら、1922年6月27日‐1998年5月28日)さんとは、北海道出身の興行師、事業家、国際芸能プロモーターで、戦後国交のなかったソ連の芸術家たちを日本に数多く招聘したことから「赤い呼び屋」と呼ばれた人です。その神さんが、1958年に初めて呼んだ交響楽団が、レニングラード交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)でした。

そのレニングラード交響楽団が連れてきた一人のチェリストが当時の日本人の胸を打ちました。当時の朝日新聞ではこのチェリストのことを次のように記しています。

「まだ31歳で、ステージに現れた時にははにかんでいるように見えたがチェロをもってザンデルリング氏と並ぶと、両氏ともかなり背が高く大きい。まずチェロのピッチをあわせると、高いピーンとした張りのある音が聞こえた。この人のチェロは上から下まで音がねれていて非常に高い技術を持っている」

このチェリストこそ、昨年亡くなってしまったムスティスラフ・ロストロポーヴィチさんです。記事では引き続き次のように評しています。

「ロストロポーヴィッチ氏は速いところで軽くきざむ右手の弓使いがまことに見事であったし、音程のむずかしいところでも技巧を感じさせない。三度もアンコールで出てきた時には、最初現れた時のようなはにかんだところがなく、ザンデルリング氏の手をひっぱってうれしそうに上を向いて出てきた。レニングラード交響楽団のおみあげのひとつであるロストロボーヴィッチ氏の独奏は大成功であった」(朝日新聞1958年4月26日)


ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ(Mstislav Leopol'dovich Rostropovich, 1927年3月27日 - 2007年4月27日)は、「アゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト・指揮者・ピアニスト。とくにチェリストとしては、20世紀後半を代表する巨匠として知られた。妻のガリーナ・ヴィシネフスカヤは声楽家」。

「チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。プロコフィエフの交響的協奏曲(チェロ協奏曲第1番の改作、1952年)、ショスタコーヴィチの2つのチェロ協奏曲(第1番 1959年、第2番 1966年)、ブリテンのチェロ交響曲(1964年)、ブリスのチェロ協奏曲(1970年)をそれぞれ初演した」。

「このほか、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、ルトスワフスキ、ジョリヴェ、デュティユー、シュニトケ、バーンスタイン、外山雄三ら、20世紀の代表的な作曲家が競ってロストロポーヴィチのために作曲しており、ロストロポーヴィチに捧げられた現代作品は170を超すといわれる。このように、ロストロポーヴィチの存在がチェロの現代レパートリーを大きく拡大したといえる」。

「主としてEMIクラシックスに数多くの録音がある。1995年にはバッハの無伴奏チェロ組曲の録音がリリースされた。室内楽では、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、アルゲリッチ、コーガン、オイストラフら世界的演奏家と共演した」。

「ロストロポーヴィチは芸術や言論の自由を擁護する立場から、さまざまな活動を繰り広げた。とりわけソビエト時代に物理学者アンドレイ・サハロフを擁護したことや、ソルジェニーツィンに別荘の車庫を仕事場として提供し、4年間かくまったことが知られる。人道的活動にも情熱を注ぎ、ガリーナ夫人とともに、子供の医療改善をめざすヴィシネフスカヤ=ロストロポーヴィチ財団を設立した。同趣旨の活動の一環として、ユネスコ親善大使にも就任した」。

「同じく反体制亡命芸術家として、映画監督のアンドレイ・タルコフスキーとも友人であり、1986年のパリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院におけるタルコフスキーの葬儀では、バッハの無伴奏チェロ組曲を捧げ、泣き崩れた」。

「これらの経歴により、世界文化賞、ドイツ勲功十字賞、イギリスの最高位勲爵士、フランスのレジオンドヌール勲章(コマンドール)、スペインのカタロニア国際賞、アメリカの自由のための大統領メダル、スウェーデン極北賞、ロイヤル・フィルハーモニー協会ゴールド・メダル、レーニン賞、人権同盟の年間賞、高松宮殿下記念世界文化賞など、30ヶ国を超える国々から130以上もの賞を授与され、音楽家としておそらく史上最も多くの勲章を受けているといわれる。このほか各国で40以上の名誉学位を与えられた」。

「親日家としても知られ、1958年に大阪国際フェスティバルで初来日して以降、たびたび来日した。指揮者小澤征爾や九重親方(元横綱千代の富士)と親しかった。寿司が大好きで、来日の際には必ず東京の築地市場を訪れたという。1980年代のソビエトから国籍が剥奪されている間は、ヤマハのジュニアオリジナルコンサートの宣伝インタビューのような仕事も、好んで受けていた。皇后美智子の古希のお祝いに来日、今上天皇夫妻臨席の下でチャリティー・コンサートを開くなど、日本の皇室との親交も深かった」。(ウィキペディア)

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<Tomomi Nishimoto - Symphony No.6 in b minor Op.74 悲愴>
http://jp.youtube.com/watch?v=qLDAOY9BRFA&feature=related

「クラシック界のオスカル」、こう呼ばれることにご本人は決して納得しておられる訳ではありません。私は見ていませんが、「テレビ番組『題名のない音楽会』でオスカルのコスプレをした一件について、後に本意ではなかったことを明かしている(このとき舞台の袖で落ち込む西本を励まし、元気づけていたのが故・羽田健太郎)」とあります。

西本さんのことは、彼女がチャイコフスキーの未完の交響曲を作曲したと報じられたことで知りました。TBSのサイトには2006年の次のような記事がありました。

「2004年の『革命』、2005年の『幻想』ツアーに引き続いて満を持してチャイコフスキーの未完交響曲『ジーズニ(人生)』に挑みます。これは国立クリン博物館(チャイコフスキーの家博物館)の監修の元で未完の交響曲を再生しようというロシアの国家的なプロジェクトであり世界的にも注目が集まっています。バレエ音楽や交響曲の数々の美しい旋律で知られる巨匠が『人生』と名づけながらついに完成できなかったこの曲にどんな思いが秘められていたのか…百年以上のときを経て明らかになるはずです」。

女性指揮者が登場してからまだ30年程度の歴史しかないそうです。私も実際タクトを振る女性指揮者としては西本さん以外に見たことはありませんが、松尾葉子(1953-)、ジョアン・ファレッタ(米1954-)、マリン・オールソップ(米1956-)、シモーネ・ヤング(豪1961-)などがいらっしゃるようです。


西本 智実(にしもと ともみ、1970年4月22日 -)は、「大阪府大阪市出身の女性指揮者。身長167.5cm。趣味は篆刻・盆栽・書道。幼少よりピアノ・クラシックバレエを学ぶ。大阪音楽大学作曲科卒業後、国立サンクトペテルブルク音楽院に留学。イリヤ・ムーシン、ヴィクトル・フェドートフに師事。28歳のデビューから37歳までロシアを拠点に活動を続け、日本人の若手指揮者としては異例ともいえるキャリアを誇る。2007年6月からはドイツ・ベルリンを拠点としている」。

「2006年にチャイコフスキー未完の交響曲を『2006年度版』として初演した際、公演の広告等では『誰も聴いたことのないチャイコフスキーが世界で初めて西本智実の手によって甦る!』などと華々しく煽られた。しかし西本自身は作品に後世の人間が補筆し発表することに強い抵抗を覚えつつも、『研究的見地から価値あるもの』と、この交響曲初演を冷静に捉えていた(とあるインタビュアーからの『これは西本さんの指揮者人生にとって大きな出来事ですね!』との趣旨の問いかけに対し、西本は苦笑と共に『まだまだです』と答えている)」。

「日本でのオーケストラのリハーサルでは、演奏者を『ヴァイオリンさん』『ホルンさん』というように『楽器』+『さん』で呼ぶ。高所恐怖症。そのため実は飛行機恐怖症。好きな動物は犬とテン。好きな音楽はクラシック以外であればジャズ。他には時々無性にジョン・レノンが聴きたくなる。カラオケで尾崎豊や松田聖子を歌うこともある。左手薬指に指輪をしたまま堂々と取材や写真撮影に応じていた時期もあったが、公式な婚約・結婚といった発表は現在のところはない」。(ウィキペディア)

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<諏訪内晶子のパガニーニヴァイオリン協奏曲第一番>
http://blog.livedoor.jp/classicandgame/archives/622726.html

1782年にイタリアでその男は、子供の頃から病弱であった。1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに、1828年頃には結核と診断され、甘汞(かんこう、塩化水銀)を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。

その後、水銀中毒が進行して、次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1926年にジェノヴァの共同墓地にようやく安置された。

シューベルト(1797-1828)は彼がウィーンに来た時、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って彼の演奏を聞き、フランツ・リスト(1811-1886)は初恋に破れ沈んでいた20歳の時に彼の演奏を聞いて「僕はピアノのパガニーニになってやる」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話があるといいます。そう、彼の名はニコロ・パガニーニ。

ニコロ・パガニーニ(Niccolò [あるいはNicolò] Paganini, 1782年10月27日-1840年5月27日)は、「イタリアのヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者、ギタリストであり、作曲家である。当時はそのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、『パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ』と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会では聴衆は本気で十字架を切ったり、本当にパガニーニの足が地に着いているか彼の足元ばかり見ていた観客もいたという」。

「彼がヴァイオリンを弾き始めたのは5歳のころからで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、そのころから自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。青年時代には、恋愛と賭博を好み、ナポレオン1世の妹のエリーズ・ボナパルトとポーリーヌ・ボナパルトと浮名を流した。賭博では、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンを博打に大負けしてとられたことがある」。(ウィキペディア)


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