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ジャズへのエントランス

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<Summertime - Ella Fitzgerald & Louis Armstrong>
http://jp.youtube.com/watch?v=1yKgAEkCKxY

<Dinah Shore & Ella Fitzgerald>
http://jp.youtube.com/watch?v=CLZxMZqqC6Y

一昨年7月17日の記事「夭逝のジャズ・ミュージシャン『ビリー・ホリデイ』と『ジョン・コルトレーン』」でビリー・ホリデイ、今年3月11日の記事で「モダン・ジャズ・シンガーの先駆者、サラ・ヴォーン」でサラ・ヴォーンを取り上げました。今日は、三大女性ジャズ・シンガーの残る一人、エラ・フィッツジェラルドを取り上げます。三人を生年別に並べると、次のようになります。

ビリー・ホリデイ(1915-1959)
エラ・フィッツジェラルド(1917-1996)
サラ・ヴォーン(1924-1990)

エラ・フィッツジェラルド、恥ずかしながら彼女の歌を今日始めて彼女として認識して聞きました。その歌声は、黒人独特の太い声質ではなく、ハイトーンの清らかな美しさであることを知りました。彼女が「Lady Ella」と呼ばれたいたこともわかるような気がします。今日は彼女の生涯をウィキペディアから引用して、辿っておきます。

麻薬常習者で、肝硬変、腎不全を患って44歳で亡くなったビリー・ホリデイ、肺がんで倒れ66歳で亡くなったサラ・ヴォーンに比べ、79歳と一番長生きしたエラ・フィッツジェラルドでしたが、晩年のエラは糖尿病により盲目となり、1993年には手術で両足を切断するという壮絶な晩年でした。


エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald 1917年4月25日 - 1996年6月15日)は、「アメリカ合衆国のジャズ・シンガー。サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイと並び称される女性ジャズ・ボーカリストの一人。13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュ大統領からは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。Lady Ella、またはThe First Lady of Jazzとも呼ばれている」。

「エラ・フィッツジェラルドはヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれ、ニューヨーク州ヨンカースで成長した。両親は彼女の誕生後間もなく離婚している。離婚後父は姿を消し、さらに14歳の時には母が交通事故で死亡し彼女は孤児となった。1934年11月21日に16歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした」。

「ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見出され、バンドへの誘いを受けた」。

「翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更しツアーなどの活動を継続した」。

「1941年からはソロでの活動を開始した。この時期はデッカ・レコードのMilt Gablerがマネージャーを務めている。1955年にデッカを離れた後は、ノーマン・グランツが興したレコード会社ヴァーヴ・レコードに所属した」。

「エラはコール・ポーターとガーシュインの作品を取り上げたアルバム、それぞれ『Ella Loves Cole』と『Nice Work If You Can Get It 』を作成した。パブロ・レコード時代にはアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を唄った『Ella Abraça Jobim』をリリース。これらのレコーディングの合間を縫ってアメリカ国内と外国へのツアーを行っている」。

「ヴァーヴ時代には幾つかのライブアルバムをリリースした。『Ella at the Opera House』、1950年代の『Ella in Rome』、1960年の『Ella in Berlin』、1964年の『Ella at Juan-Les-Pins』、1966年の『Ella and Duke at the Cote D'Azur』などはいずれも、現代に至っても高い評価を受けている」。(ウィキペディア)

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<Chick Corea at Blue Note bar>
http://jp.youtube.com/watch?v=LcDXfxcxhgM
<Chick Corea & Hiromi Uehara – Spain>
http://jp.youtube.com/watch?v=BRU1o-sCnqY

1966年のデビューから40年余り、今も光彩を放つ現役のミュージシャンとして活躍する稀有ピアニストであるチック・コリアですね。同世代の双璧としてハービー・ハンコック(1940年4月12日-)がいますが、彼がマイルス・デイヴィスのグループに先輩格のハービーの後任として参加していることが象徴的です。

チック・コリアの音楽は、「ジャズを基本に、ボサノヴァ、ロック、クラシックなどといった要素を織り交ぜた楽曲およびプレイを得意とする。イタリア系とスペイン系の血をひくためか、メロディにもリズムにもラテン色が強い」と言われます。ジャンルに拘らずに、しかも40年以上も第一線でリスナーを魅了する曲を書き、演奏するパワーは、どこから来るのでしょうか?私には少なくとも彼に与えられたgeniusというしかありません。


チック・コリア(Chick Corea、本名:Armando Anthony Corea、1941年6月12日-)は、「アメリカ出身のピアニスト、キーボーディスト、作曲家、ミュージシャンである。1941年6月12日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州にあるチェルシーにて生まれ、父はジャズ・トランペッターであった。4歳の頃よりピアノを習い始める。高校を卒業後、ニューヨークにあるジュリアード音楽院に進学する。1964年頃からブルー・ミッチェル、ハービー・マン、モンゴ・サンタマリアらとの共演からキャリアをスタートする。1966年にはデビュー・アルバム『Tones for Joan's Bones』を発表」。

「1968年後半からハービー・ハンコックに替わりマイルス・デイヴィスのグループに加入。『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』などのアルバムに参加する。この頃からマイルスの指示でエレクトリック・ピアノ(フェンダー・ローズ)を弾くようになる。当初この楽器を嫌っていたチックだが、70年代にはチックのサウンドに欠かせない楽器となっていく」。

「同じ時期チックはアバンギャルドなアプローチを見せるようになっており、マイルス・グループでもライブで聴かれるチックのソロは、かなりフリーの要素が強い。1970年、マイルス・グループを脱退した後、ベースのデイブ・ホランド、ドラムのバリー・アルトシュルとグループ『Circle』を結成。後にサックスのアンソニー・ブラクストンを加えフリー・ジャズ寄りの演奏を展開する」。

「1971年に、ベーシストのスタンリー・クラークらとクロス・オーバー/ジャズのバンド、リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return To Forever)を立ち上げ、ECMレコードからアルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を発表。カモメのジャケットで有名なこのアルバムは70年代ジャズ・フュージョン最大級のヒット作となる。革新的な音楽性と卓越した演奏技術に裏打ちされたこのバンドは数々の珠玉の名曲たちを生み出し、トップアーティストとしての地位を確立する。中でも『Light As A Feather』に収録されている"Spain"は現在でも他の演奏家にプレイされ続ける、ジャズの、また彼自身の代表曲である」。

「当初、フローラ・ピュリムやアイアート・モレイラなどブラジル系のメンバーが中心であったためラテン色の強いグループであったが、彼らの脱退後1973年にはギタリストのビル・コナーズが、1974年にはビルに替わってアル・ディ・メオラが加入し、よりロック色の濃い方向性になった。アル在籍時の『ノー・ミステリー』『Romantic Warrior』も、評価の高い作品だ」。

「78年にリターン・トゥ・フォーエヴァーを解散したチックは、『フレンズ』『スリー・カルテッツ』などエレクトリックにもストレート・アヘッドなジャズにも、時にはクラシックに挑戦したりと多彩な活動を続ける。1985年には、デイブ・ウェックル、ジョン・パティトゥッチといった若いメンバーと『エレクトリック・バンド』を結成。圧倒的なテクニックと楽曲で話題を集める。1989年には同じメンバーで『アコースティック・バンド』と名前を変え、スタンダードを中心としたアルバム『Akoustic Band』を発表した」。

「1992年にはユニバーサル・ミュージック配給の元、自己レーベルストレッチ・レコードをスタート。しかしGRPレコードとの契約上ストレッチからリリースする事が出来ず、1995年発表の『Time Warp』からとなった。2004年にはエレクトリック・バンドをオリジナルバンドで復活、『To The Stars』を発表。2006年には、かつての盟友スティーヴ・ガッドらと共にアルバム『Super Trio』を制作・発表、2007年にはリターン・トゥ・フォーエヴァーの再々結成発表、2008年には上原ひろみとのピアノ・デュオで日本武道館公演を行うなど、その活動のエネルギーと多彩さは衰えることがない」。(ウィキペディア)

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<Keith Jarrett Solo Concert>
http://jp.youtube.com/watch?v=HPqK1JJOFxw&feature=related

「自分の音楽に名前をつけることはやめた。観客でさえジャンルを気にしていない。そこには音楽があるのみだ」

1977年のヴァーモント・ソロコンサートのビデオでキース・ジャレットはこう語っています。彼はこのコメントで、絶対音楽のことを言っているのでしょうか?絶対音楽とは、「標題音楽に対する用語で、歌詞を持たない音楽の中で、物語その他文学的な何ものか(標題)を音楽で表現しようとする音楽でなく、音楽そのものを表現しようとするような音楽」。

キース・ジャレットの名は、ジャズ・ピアニストとしてあまりにも有名ですが、私は彼についてその名前以外は何も知りませんでした。キース風にいうと、彼の名前も必要ないのかもしれません。しかし名前は存在の主張です。名前がないということは存在しないことに等しい。たとえ絶対音楽といえども、モーツァルトにおけるケッヘル番号や作品(Opus)、特に音楽作品につけられる作品番号「op」がつけられています。

キースは神童と呼ばれ、十代ですでにプロとしての活動を始めていますが、クラシックの基礎をしっかり踏んだピアニストでもあります。作曲を学ぶためにパリで、伝説の音楽教師、ナディア・ブーランジェに学んでいます。彼女については昨年10月22日付の記事「『音楽の化身』と呼ばれた20世紀最高の音楽教師、ナディア・ブーランジェ」で取り上げています。


キース・ジャレット(Keith Jarrett、1945年5月8日-)は、「アメリカのジャズ/クラシックピアニスト、作曲家。ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、クラシック、現代音楽等、ジャンルを超えた音楽表現を身上とする。演奏楽器もピアノにとどまらず、ソプラノ・サックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど多岐にわたる。メロディーの美しさもさることながら、中腰の姿勢で、時折うめき声を出しながらピアノを弾く姿が印象的」。

「1960年代にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに参加して注目される。その後、チャールズ・ロイドのグループを経て1970年にマイルス・デイヴィス・グループに参加。初期はチック・コリアとのツイン・キーボード制のなかで、主にオルガンを演奏した。チック・コリアが同バンド退団後はひとりでオルガンとエレクトリック・ピアノを担当し、バンド・サウンド決定の重要な担い手となった」。

「当時のプレイが聴ける公式盤としては、「ライブ・イビル」、「マイルス・アット・フィルモア」が有名。その後のアコースティックが主体の活動に無い、電気楽器でのプレイが聴かれる。1971年には同グループ在籍中のヨーロッパ・ツアーで当時新興レーベルだったECM(Edition For Contemporary Music)のオーナー、マンフレート・アイヒャー(Manfred Eicher)と出会う」。

「その後、完全即興によるピアノ・ソロ・コンサートを数多く行い、ECMより一連のピアノ・ソロ作品をリリース。その高い完成度から名声を確立した。ソロ作品の多くはコンサート・ホールでの実況録音が多く、プログラムの一切無い完全即興によるテンションの高い神がかり的な演奏には定評がある。代表的なソロ作品に、『ザ・ケルン・コンサート』、『ステアケイス』、『サンベア・コンサート』、『パリ・コンサート』、『プレゲンツ・コンサート』、『ラ・スカラ』等がある。ECMではピアノ・ソロやリーダー作のほか、1975年にケニー・ホイーラー、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットと録音した『ヌー・ハイ(Gnu High)』などがある」。

「1983年にゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットらと結成したトリオは、20年以上にわたって活動を続けているジャズ史上でも稀有なユニット。また、1970年代には2つのカルテットを率いていたが、いずれも解散」。

「1990年代後半から2000年頃は、病気のためにその活動を中断していた。(病名は慢性疲労症候群とされる)2000年より少しずつ活動を開始し、ソロや前述のトリオでの活動を継続しているが、全盛期のようなハイ・テンションな演奏は影をひそめており、ベース・ドラムとのコラボレーションに重きを置いた演奏となっている」。

「クラシック演奏に関しては、1980年代後半から1990年代にかけてバッハやヘンデルといったバロック期の作品や、モーツァルト、ショスタコーヴィチの作品を演奏した。この際の録音や演奏活動に使用したハープシコードやクラヴィコードは、復刻作品ではなく、日本の制作家高橋辰郎の独自の音響理論による楽器を、わざわざ江戸川区の工房を探し当てて発注したことでも知られる」。(ウィキペディア)

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<Modern Jazz Quartet – Django>
http://www.youtube.com/watch?v=UmpLtYmSlvM&feature=related

「クレオール」という言葉があります。以前、このブログの昨年7/28付けの記事「ジャズの歴史」(相倉久人著/新潮新書刊)でも取り上げました。単純化して言うと、「本来別々の、あるものや人が同化して、その存在が市民権を得ること」と定義していいのでしょうか。

「クレオール言語」という場合、「意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語」を指すそうですが、「クレオール」という場合、「宗主国生まれ」に対する「植民地生まれ」を意味する形容詞だったり、黒人と白人が混血した人種のことを指すようです。

さて、相倉さんの著書では、ジャズのアイデンティティはこのクレオールだと述べられています。相倉さんによればジャズは、「対立する二つの見方、考え方がぶつかりあって、その摩擦エネルギーが活性化をうながす。それはいってみればジャズの根本原理みたいな」もの。黒人vs白人、ヨーロッパvsアメリカ、即興演奏vs編曲、コードvsモード。

もともとクレオールの上にあるジャズで、意識的に他のジャンルと融合させようとしたものにアヴァンギャルド・ジャズがあり、その中でロックとの融合を図ったのがコンフュージョン、そしてクラシックとの融合を図ったのが「サード・ストリーム」というムーブメントでした。有名なミュージシャンにアルバート・アイラーという人がいるそうですが、今回はMJQのピアノマン、ジョン・ルイスを取り上げます。

ジョン・ルイスが目論んだ「サードストリーム・ミュージック」は、後述にあるように、結局失敗に終わったようですが、そもそもクラシックの前衛部分がジャズに昇華したという識者の指摘もあることから、さらに前衛化したモダン・ジャズが先祖がえりした形になる「サードストリーム・ミュージック」には、音楽的な矛盾があったのかもしれません。

しかしながら、音楽の進化を考えるとき、ジョン・ルイスの挑戦のような気概には評価が与えられてもいいと思うのです。音楽の進化とは何かということが問題ですが、それはテクノロジーの進化と同様に、音楽がもっと人間にゆとりとやすらぎを与えるものに進化するということでしょう。もちろんテクノロジー同様、進化には功罪がつきまといますが、それは扱う側の人間の問題です。

ジョン・ルイス(John Lewis, 1920年5月3日-2001年3月29日)は、「アメリカのジャズミュージシャンピアノ奏者。イリノイ州生まれ。ディジー・ガレスピーの楽団でデビュー。以降チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスなどと共演」。

「1952年に、ガレスピー楽団出身者を集めてモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)を結成した。以後、終生にわたってMJQのリーダー格として活動、ビーバップに影響を受けながらも、クラシックの室内楽を思わせる端正かつユニークな音楽性を確立した」。

「一方、ガンサー・シュラーらとともに、ジャズとクラシックの融合を目指した『サードストリーム・ミュージック』を追求したが、この試みは実質的には失敗に終わった。作編曲家としても卓越した業績を残す」。

モダン・ジャズ・カルテット (Modern Jazz Quartet) は、」アメリカ合衆国のジャズバンドで1952年にミルト・ジャクソンらによって結成された。1951年に、結成した初期にはミルト・ジャクソン・カルテット(Milt Jackson Quartet)と名乗っていた。略称は両方ともMJQである」。

ミルト・ジャクソン(ビブラフォン)、ジョン・アーロン・ルイス(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、ケニー・クラーク(ドラム)、(※1955年からはドラムをコニー・ケイが担当している)
                                   (以上、ウィキペディア)

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<Somewhere over the Rainbow Vaughan Sarah 1958>
http://musictonic.com/music/Sarah-Vaughan

<Sarah Vaughan - A Lover's Concerto>
http://jp.youtube.com/watch?v=t5kJWZYfIgA

昨日FMでサラ・ヴォーンのミニ特集をやっていました。これまで取り上げていなかったので、勉強のために彼女の生涯をウィキペディアから概観しておきたいと思います。

サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan,1924年3月27日-1990年4月3日)は、「アメリカ合衆国の黒人女性ジャズ歌手。ソプラノからコントラルトまで幅広いレンジに、美しいヴィブラートの掛かった、オペラ歌手にも匹敵する幅広い声域と、豊かな声量を兼ね備え、大胆なフェイクやスキャットを取り入れた歌唱力をも持ち味とした。ジャズ・ボーカル史上ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルドと並ぶ偉大な歌手の一人と言われている」。

「本名 Sarah Lois Vaughan。アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアーク出身。1940年代にデビュー。1947年に"It's Magic"が初めてのヒット曲となり、大型新人として注目を集めた。歌手でトランペッターのビリー・エクスタインに影響を受け、当時最先端のモダン・ジャズであったビバップのスタイルを歌唱に活かした、モダン・ジャズ・シンガーの先駆者である」。

「1950年代にはポピュラー傾向のあるものをマーキュリー・レコードに、ジャズ方面ではそのサブ・レーベルエマーシー・レコードに膨大な数の録音を残し全盛期を迎える。この頃の代表作はWith Clifford Brown、カウント・ベイシー・オーケストラと共演したNo Count Saraなど」。

「ジャズにとどまらない幅広い音楽性を持ち、ポップスにも挑戦したが、商業的に大きな成功を得るには至らなかった。中には1965年に発表したバッハの『メヌエット』を原曲としたポップなナンバー、"A Lover's Concerto"(ラヴァーズ・コンチェルト)はヒットした。この曲は彼女が創唱したものではなく、トイズのヒット曲のカバーであり、通俗性ゆえに批評家からは冷淡な扱いを受けた」。

「1960年代後半以降、レコード発売の少ない不遇な時代を迎えたが、1977年に、ジャズ界の著名なプロデューサーであるノーマン・グランツの誘いで彼の運営するパブロ・レコードに在籍、円熟した歌唱をアルバムに残す。パブロでの最後のアルバム1982年の『枯葉』(原題:Crazy & Mied Up)や1983年にグラミー賞を受賞したGershwin Live!(コロムビア)などの名盤を残し、晩年までジャズの女王の名をほしいままにした」。

「1980年代中盤以降も精力的なライブ活動を行ったが、継続的なレコード契約がなく、1987年のアルバムBrazilian Romanceが最後の作品となった。彼女は長年の喫煙者であり、1990年に末期の肺がんで倒れ、亡くなった」。(ウィキペディア)

ちなみに、YOUTUBEで唄っている「虹の彼方に」(原題:Over the Rainbow)は、「1939年のミュージカル映画『オズの魔法使い』でジュディ・ガーランドが歌った劇中歌。エドガー・イップ・ハーバーグ(en:Yip Harburg)作詞、ハロルド・アーレン(en:Harold Arlen)作曲。1939年のアカデミー歌曲賞を受賞している。スタンダード・ナンバーとして世界的に広く親しまれており、2001年に全米レコード協会等の主催で投票により選定された「20世紀の名曲」(en:Songs of the Century)では第1位に選ばれた」。


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