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ジャズへのエントランス

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Gerry Mulligan - Bernie's Tune – 1956
http://jp.youtube.com/watch?v=5k0FS3VszT4

Gerry Mulligan - Moonlight In Vermont – 1959
http://jp.youtube.com/watch?v=hpkTNa2iioE

知識薄いジャズの中で、モダン・ジャズには縁遠く、更にピアノレスになると距離を置いてしまいます。そんな訳でこれから勉強と、今日は特にコメントも差し挟まず、ジェリー・マリガンの生涯だけを辿っておきます。

ジェリー・マリガン(Gerry Mulligan、本名Gerald Joseph Mulligan、1927年4月6日 - 1996年1月20日)は「アメリカのジャズ・ミュージシャン、作曲家、編曲家。ジャズ界では少数派のバリトンサックス奏者であり、優れたジャズプレイヤーかつ作編曲者として知られる。アメリカ・ニューヨーク市クイーンズ区生まれ、エリー鉄道に勤務していた父の仕事の都合でオハイオ州マリオンに転居する」。

「1940年代後半からフィラデルフィアで活動を開始、ギル・エヴァンスとの出会いをきっかけにクロード・ソーンヒルのビッグバンドなどのためにアレンジを本格的に手がけるようになり、二十歳そこそこの若さにして、洗練されたモダンなアレンジで、ソフトなダンスバンドであったソーンヒル楽団のスタイル革新に貢献した」。

「その経験を活かし、1940年代末には、後にアルバム『クールの誕生 (Birth of Cool)』として録音がまとめられたマイルス・デイヴィスのビッグ・コンボに参加、バリトンサックスでの演奏の他、『ジェル (Jeru)』『ミロのヴィーナス (Venus De Milo)』などの作曲などを担当する。そのほか、モダン・ジャズ・ビッグバンドの代表的存在であるスタン・ケントン・オーケストラにも編曲を提供した」。

「1952年、カリフォルニア州に移り、トランペットのチェット・ベイカーらとピアノレスカルテットを結成。わずか1年間の活動であったが、リズムセクションに鍵盤楽器が必須とされていたジャズの世界に於いては画期的な出来事であり、この動きがアメリカ西海岸におけるウエストコースト・ジャズの顕在化につながっていくことになる」。

「マリガン・カルテットのデビュー・アルバムである『Gerry Mulligan Quartet』は、『バーニーズ・チューン』などの名演が収められ、大きなヒットとなった。マリガンはウエストコースト・ジャズの中心的人物として西海岸に拠点を置きつつ、ベン・ウェブスター、デイブ・ブルーベック、セロニアス・モンク、ズート・シムズらと交流を深めていった」。

「1963年にはアート・ファーマーらをメンバーに招き、リーダー作『ナイト・ライツ (Night Lights)』を発表。1950年代のプログレッシヴな作品とは異なった静謐なスタイルが貫かれており、彼の代表作となる。ちなみにタイトル曲『ナイト・ライツ』で、マリガンはバリトンサックスではなくピアノを演奏している(後にCDのボーナストラックには1965年録音版のストリングス付「ナイト・ライツ」も収録されたが、こちらでマリガンはクラリネットを演奏している)」。

「1980年代に入るとフュージョン色の強い音楽性を指向するようになり、「リトル・ビッグホーン (Little Big Horn) 」などのフュージョンアルバムを発表するようになる。この頃に世界ツアーも行っている。1996年1月20日、膝の外傷が元でコネチカット州ダリエンにて死去。享年68」。(ウィキペディア)

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「社会というのはヒエラルキーな秩序がなければ成立しない」。「対話;日本人論」の中で三島由紀夫と対談した小説家で評論家の林房雄はこのように語っています。差別と区別、格差社会。近代から現代になってもこの問題が解決されることはない、むしろ自由主義社会というものはそういうものだという主張です。資本主義を妥当するべく生まれた共産主義は結局、全体主義を生み自滅していきました。

1910年代後半、一人の化学専攻の学生は肌の色のために自分の目指す道を閉ざされました。彼は仕方なく音楽の道を選ばざるを得ませんでした。そしてニューヨークでは、1920年代の初めから半ばにかけて彼の楽団がいわゆるビッグ・バンドのスタイルを確立さることになりました。

しかし、1933年になると禁酒法が撤廃されます。これまでこの法によって栄えたキャバレー、ナイトクラブは、近場で誰もが気軽に酒を入手するようになったため客足を失うことになります。そこへラジオが一般家庭に普及するようになると、足を運んで生演奏を聞かなくても音楽を楽しむことを可能にしたレコードに次いで聴衆をクラブから遠ざけてしまいました。

クラブオーナーたちは白人のビッグ・バンドを売りの一つに目論み、ベニ―・グッドマンに目をつけますが、同時に1934年のラジオ番組「レッツ・ダンス」で彼らが演奏するテーマ曲を放送したことによって脚光を浴びることになります。当時バンドとして経営的に行き詰まっていたフレッチャー・ヘンダーソンはベニー・グッドマン率いるバンドの編曲を手がけるようになりました。

ヘンダーソンの編曲は、曲を引っ張っていくリズムからなる基礎部分と複雑なキメ、そしてバンドが自由に動き回れるだけの余裕をバランスよく取り混ぜていていました。これが「スウィング」を生むことになります。「ジャズ」という言葉が黒人音楽を連想させるため、一般家庭に普及させづらかったラジオ界は「スイング」というネーミングによって市民権を獲得させることに成功します。

「ジャズの歴史」の著者・相倉久人さんは本書の中で次のように解説しています。

「スウィングはDNAに由来する黒人専有の資質ではありません。学習によって培われる後天的な感覚です。遺伝ではなく、文化として身にまとうものです。それが黒人的なノリとして映るのは、彼らが<しゃべりコトバ>をふくめて生まれながらにそういうリズム環境に育っているのに、白人ミュージシャンはそれをあとから、いっていみれば<教養>としてとりこまなければならなかった、という落差のせいです」

白人社会から阻害されたフレッチャー・ヘンダーソンは、幾多の壁を潜り抜け、ビッグ・バンドのスタイルを確立させ、ベニー・グッドマンを通じて「スィング」という新たな形式をアメリカ社会に浸透させたのでした。ある意味でこの格差社会がなければ成り立ち得なかったのがジャズだと言えるといっても過言ではないでしょう。しかし、ヘンダーソンにとって化学の仕事に就かなかったことが幸か不幸だったか、それは彼のみぞ知ることですね。

フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson、1897年12月18日-1952年12月28日)は、「アメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト、作曲家、編曲家。バンド・リーダーとしてルイ・アームストロングやコールマン・ホーキンスなどのスター・プレイヤーを輩出した後、ベニー・グッドマン楽団の編曲を担当した、スウィング・ジャズ界の重要人物」。

「ジョージア州生まれ。アトランタ大学卒業後、ニューヨークに渡りコロンビア大学で化学を専攻。しかし、アフリカ系アメリカ人に対する差別のため、化学関係の職に就けず、ブラック・スワン・レコードに就職。同社のハウス・ピアニストとして活躍した」。

「1922年、自分の楽団を結成。1923年にはコールマン・ホーキンス(テナー・サックス)が、1924年にはルイ・アームストロング(トランペット)が加入し、アフリカ系アメリカ人の楽団としては異例の人気を博した。ビッグバンド・ジャズのブームを巻き起こした歴史的なバンドである。なお、アームストロングは数年で独立するが、ホーキンスは1930年代初頭に至るまで、ヘンダーソン楽団の看板奏者として活躍。また、1920年代には、ヘンダーソンはベッシー・スミスの伴奏ピアニストとしても活動している」。

「その後ベニー・グッドマンと出会い、グッドマンの楽団の編曲を手掛けるようになる。1939年には自分の楽団を解散し、グッドマンとの活動が中心となった。1950年、脳卒中の後遺症による麻痺のため、ピアノを断念。1952年没」。(ウィキペディア)

「ヘンダーソンのバンドは20年代後半にデューク・エリントンが登場するまではシーンで一番勢いのある存在だったが、ヘンダーソンはエリントンのようにグループを固定することがどうしてもできなかった上、30年代半ばにアレンジャーとしてベニー・グッドマンと合流するまでは、白人社会に活動の場を求めることをほとんどしなかった」。

「50年にヘンダーソンが脳梗塞で倒れると、グッドマンはその晩年の5年間、彼の世話をするための寄付を募ったりして、このしばしば見落とされがちな貢献者に対する借りを返している。純粋な歓喜に触れることが必要なら、ヘンダーソンが30年代に行ったレコーディングを聴くがいい。彼のバンドは音楽に歓びを注入したのだ」。(http://listen.jp/store/)

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先日上原ひろみさんの映像をMTVでPVを見て、昨日FMで彼女のファースト・アルバムを聞いて、やっぱり凄いなぁと思います。彼女の経歴を知ればナルホドと思いますが、世に、特に日本だけでも上手いプレイヤーはたくさんいると思うんですね。その中でオーディエンスを惹き込む何か、心を掻き立てられる何かを伝えられるプレイヤーは多くはいません。

彼女は幼いときからジャズに触れていたことが、彼女の音楽に幅を持たせたのだろうなと推測はできますが、おそらくそのような環境にいた人は少なくないでしょうし、ここまで突出した技量に到達することになるのは別の何かが作用したんだと思います。断言はできませんが、彼女の場合それは、チック・コリアに称賛されたという自信ではなかったかと思います。

上原ひろみ(1979年3月26日-)は、「静岡県出身で米国在住。米国など海外では Hiromi という名前で通している。2007年9月1日に三原康裕と結婚。6歳からピアノを始めヤマハ音楽教室で作曲を学ぶ。16歳の時にヤマハで来日公演のためのリハーサルを行っていたチック・コリアと対面。『弾いてごらん』とうながされてピアノに向かった彼女の技術に感銘を受けたチックと、その場で即興での共演となる。公演の最終日にチックから舞台に呼ばれて今度は観客の前で共演。チックから熱い称賛を受ける」。

「クラシックに関しては、14歳でチェコに行った際、チェコフィルハーモニックオーケストラと共演した経験を持つ。静岡県立浜松北高等学校時代には、ロックにものめり込んだ。長年つきあいのあるヤマハの音楽支援制度で留学奨学支援を得たのを機に、法政大学法学部を中退、20歳で渡米してマサチューセッツ州ボストン市にあるバークリー音楽大学に留学。留学の目的は、ピアノ修行ではなく作編曲技術の習得が主眼であり、作編曲科で履修した。在学中に全米各地のジャズフェスティヴァルに出演」。

「全米デビュー後のことになるが、バークリー音楽大学ジャズ作曲科とCWP(Contemporary Writing & Production)科を首席で卒業している。デビュー作 Another Mind(日本盤『アナザー・マインド』)は、テラーク(Telarc)レーベルからリリース。アーマッド・ジャマルと、その友人バークリー音楽院の指導者でジャズ・ベーシストのリチャード・エヴァンスによる共同製作作品として結実することになる。上原はデビューアルバムで、たった三人編成のピアノ・トリオで、どこまで音楽を拡張できるかを課題として追究した」。

「全米デビューし、バークリー音楽大学を卒業して日本に里帰りした時点では、上原は国内では全くの無名であった。毎日放送のテレビ番組『情熱大陸』への出演が、全国的に名を知られるきっかけとなった。11月末からの国内デビュー後初の日本四大都市公演を成功させ、最後の大阪ブルーノートでおこなった2日間の公演では、1日に2ステージをこなした。その後メディアでとりあげられることも多くなり、キリンのビール風味の清涼飲料水モルトスカッシュの広告に登場した」。

「上原は、デビュー後半年も経たぬうちに熱心なジャズ・ファンを中心に関心を持たれるようになった。アルバムの売れ行きは、年内にジャズのアルバムとしては異例の10万枚を突破。この流れを受け、翌2004年には日本レコード協会が主催する日本ゴールドディスク大賞で、ジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞した2007年2月21日には4枚目のアルバムをリリース」。(ウィキペディア)

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「トリックスター」(trickster)とは、「1 詐欺(さぎ)師。ぺてん師。2 神話や民間伝承に現れるいたずら者。秩序の破壊者でありながら一方で創造者であり、善と悪など矛盾した性格の持ち主で、対立した二項間の仲介・媒介者の役目を果たす」の意味だそうですが、ジャコの場合は、当然「2」を指しますね。

「ジャコ」の名前の由来は、「若い頃「Nelson "Jocko" Padron」という変名にて活動して「Jocko」というニックネームで呼ばれていた。これは1950年代のメジャー・リーグ名物アンパイアから取ったものだった。ある日、アパートの隣に住んでいたアレックス・ダーキィと毎日のようにジャズの練習をしていた時に、アレックスが譜面に間違えて「Jaco」と書いてしまったところジャコはこれを気に入り、それ以降自分を「ジャコ(Jaco)」と名乗るようになった」ということです。

1971年〜1986年の活動だったウェザー・リポートにジャコが在籍したのは1976年〜1982年。ウェザー・リポートの黄金期が1976年〜1981年だと言われているので、まさに黄金期を築き上げたベーシストです。私がジャコのことを知ったのは高校生の頃でしたが、ウェザー・リポートのことはあまり記憶にありませんが、ジャコのべースだけは強烈な印象があります。

ベースが別の楽器に変わったような、あるいはベースの新たな主張と感じさせるその奏法は、ベースという楽器に新たな命を与えました。

私が敬愛するベーシストは、5/5の記事「『アップライトの神』」と呼ばれるベーシスト」で取り上げたロン・カーター、そして10/8付けの記事「チョッパー(スラップ)ベースの旗手、スタンリー・クラーク」で取り上げたスタンリー・クラーク(1951年6月30日-)ですが、はジャコはスタンリーと同じ年に同じペンシルベニア州で生まれていたんですね。それにしても早すぎる生涯でした。


ジャコ・パストリアス(John Francis Anthony Pastorius III、1951年12月1日-1987年9月21日)は、「ジャズ及びフュージョンのエレクトリックベース奏者。ペンシルベニア州 ノリスタウン生まれ。1970年代に頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年、ファーストアルバム『Jaco Pastorius』でのソロ・デビュー、同年からウェザー・リポートの3代目ベーシストとして活躍」。

「エレクトリックベースの奏法に革命をもたらしたと言われ、彼が死した今においてもその信奉者は世界中に数多い。ジャズベース史上最大のトリックスターとされる。有名なベーシストは数多く居るが、ジャコはそれまでリズム楽器としての認識が強かったエレクトリックベースを花形楽器まで昇華させたイノベイターとして、エレクトリック楽器の歴史に一石を投じている」。

「ジャコの1980年代における奇行は酒やドラッグによるものと言われて来たが、ジャコの家族の証言によると躁鬱病によるものである可能性が高く、早くからジャコの状態を理解していたらあのような悲劇は避けられたかもしれない。しかしながら酒とドラッグの摂取量が常人をはるかにしのぐ量であった為、それらが症状の悪化を劇的に進ませたということも否定できない」。

「また、彼が酒などに走った一つの理由として、『トップスターでいることに対する過度のプレッシャーを感じていた』という証言も残っている。ジャコの前妻イングリッド・パストリアスによると、「1980年代に日本国内でジャコが見せた様々な奇行の数々が、日本の某ジャズ系音楽雑誌を通じてアメリカへは誇張された形で飛び火し、さらに偏見を持たれた」という事だった。そう言ったことから、今でもイングリッドは日本の某ジャズ系音楽雑誌を快く思っていないのも事実である」。(ウィキペディア)

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先日、車を運転しているときFMから流れてきた軽快なノリの曲、それがアート・ペッパーの「ペッパー・リターンズ」でした。DJの解説を聞けば、麻薬中毒のリハビリから復帰して最初のレコーディングだったそうで、それでこのタイトル。当時のジャズメンには麻薬はつきものだったようで、あのマイルスさえ手を染めていましたね。最近の日本の芸能界でも話題は尽きませんが、なかなか抜け出せない世界であることがドラッグの恐ろしいところです。

さて、写真は違いますが、このアルバムには次のような解説がありまた。思わずAmazonのウィッシュリストに追加しておきました。

「刑務所暮らしの成果かどうか、そのあたりは不明だが、出所後のペッパーの演奏はそれ以前に比べ、より深みを感じさせ説得力をもつようになった。その結果、56年から57年にかけて生涯を代表する名作を次々と録音したが、これはその先陣を切ったアルバムとしてファンに愛されている。曲はスタンダード2曲+オリジナル8曲という配分」。

「ジャック・シェルドンとの2管クインテット編成のため、アンサンブルの楽しさも満喫できるしゃれたウエスト・コースト・ジャズ。陽気なシェルドンのトランペットとナイーヴなペッパーのアルトとのコントラストも楽しい。紙ジャケットによる今回の発売はリマスタリングによる音質の向上が魅力で、艶やかなアルトの音に引き込まれる」。(市川正二)

アート・ペッパー(Art Pepper 本名:Arthur Edward Pepper, Jr. 1925年9月1日-1982年6月15日)は、「ジャズのサックス奏者。アメリカ合衆国カリフォルニア州ガーデナ生まれ。1940年代よりスタン・ケントン楽団やベニー・カーター楽団で活動を開始する。1950年代には自己のコンボを結成し、ウエスト・コースト・ジャズの中心的な人物として活躍した」。

「生涯を通じて麻薬中毒によりしばしば音楽活動が中断されている。1960年代後半を、ペッパーは薬物中毒者のためのリハビリテーション施設シナノン(en:Synanon)ですごした。1974年には音楽活動に復帰し、ふたたび精力的にライブやレコーディングをおこなった」。

「1977年に初の日本公演をおこなう。このときの日本のファンの熱狂的な歓迎にペッパー自身が非常に感動した様子が、3番目の妻ローリー・ペッパーによって筆記された自伝『ストレート・ライフ』(1980年)に記されている。それがきっかけなのか親日家であり、1980年には石黒ケイの「アドリブ」に参加した」。(ウィキペディア)

ところで、Pepperは胡椒、辛子ですが、スラングで「元気、スタミナ」の意味がありますね。また、throw pepper in a person's eyeで「〈人を〉ペテンにかける、だます」。ナルホド。

余談ですが、ピーマンの英語はgreen (sweet) pepper。ピーマンの語源「pimiento」はスペイン語だったんですね。


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