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ジャズへのエントランス

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ファンキーなヤツ、などと言うと私は陽気な男などという意味で「ファニー」と誤解して使ったりしていましたが、「ファンキー」とはそもそもスラングで、泥まみれの労働で疲れた黒人の汗のにおいに関係した表現なのだそうです。

「それを自分たちの音楽の看板にかかげたことは、『われわれは黒人である』という一種の確認作業――アイデンティティ宣言とみていいでしょう」。(「ジャズの歴史」相倉久人氏)

相倉氏は続けて次ぎのように解説します。「支配的な主流にたちむかう少数派のとるべき道は二つに一つ――と昔からいわれてきました。同化か、分離独立か、です。第二次世界大戦の終戦後、急激に勢いを加えた文化的な分離独立を求める声。それがこの時代のジャズをファンキー志向にかりたてた要因のひとつだったのは、間違いありません」

奔流バップからクールの流れへの支流として、1954年に生まれたのが「ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」であり、そのリーダーだったのがホレス・シルヴァーでした。

ホレス・シルヴァー(Horace Silver, 本名:Horace Ward Martin Tavares Silver, 1928年9月2日-)は
「コネチカット州ノーウォーク出身のジャズ・ピアニストで、ファンキー・ジャズの代表的なアーティスト。特色のあるファンキーなプレイスタイルで知られ、ハード・バップの発展に寄与する。彼はゴスペル音楽やアフリカ音楽、ラテン音楽等幅広い音楽のスタイルに影響されている」。

「アフリカ系ポルトガル人の系譜でカーボベルデ人の父にアイルランド人とアフリカの母を持つ。初期はサックス奏者であったが、後にピアノに切り替える。バド・パウエルに強く影響を受けた。コネチカット州ハートフォードのクラブでスタン・ゲッツと出会う。ニューヨークに移りアート・ブレイキーと組む」。

「1952年と1953年に自己のトリオにブレイキー等をフューチュアしたセッションを録音する。ブレイキーとの共演は4年間も続き、この間に名トランペッター、クリフォード・ブラウンを含めたカルテットで名盤"A Night at Birdland"をバードランドにて録音」。

「1956年にはブレイキーから離れ、自己のハード・バップ・クインテットを作る。ブルー・ノート・レコードに"Song For My Father"等多くのアルバムを残す。この時代に日本への印象を描いた"The Tokyo Blues"を発表している」。

「1970年代後半にブルー・ノートは活動を休止する。シルヴァーは自分の音楽性を他レーベルに理解してもらえなかった為に、1981年に短期間であったが自己レーベル、シルヴェートを作った。1990年代に入り、トミー・リピューマによりリバイバルしたインパルス!レコードに移籍、マイケル・ブレッカーやランディー・ブレッカー、ロン・カーター等と共演している」。(ウィキペディア)

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チャーリー・パーカーの初期の愛称は「Yardbird」というんだそうです。これは初年兵、刑期の長い囚人を意味するそうですが、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジらが活躍した「ヤードバーズ」はチャーリー・パーカーから取ったものなのでしょうか?

相倉久人氏の「ジャズの歴史」によれば、チャーリー・パーカーがニューヨークに行ったのは1939年。ほぼ同じ頃、ハーレムの七番街にミントンズ・プレイハウスというクラブがオープンしました。時はスウィング末期。譜面にしばられどうしの毎日に嫌気が差した連中のストレス解消にジャム・セッションがはやり始めます。それは、毎週月曜日の夜に当てられたそうです。

1945年8月、数ヶ月前のドイツに続いて日本が降伏し、第二次世界大戦が終結します。それを待っていたかのように、のちに「ザ・ストリート」と呼ばれるマンハッタンの52丁目にジャズ・クラブがつぎつぎに計七軒もオープンします。ここを舞台に、ミントンで培われた新世代のジャズ、ビー・バップが花を咲かせ、その急先鋒として疾走したのがチャーリー・パーカーでした。

チャーリー・パーカー(Charles Parker Jr, 、1920年8月29日 - 1955年3月12日)は、「ジャズのアルトサックス奏者。絶対音感の持ち主でもある。1940年代初頭から、モダン・ジャズの原型となるいわゆるビー・バップスタイルの創成に、ディジー・ガレスピーと共に携わった。これにより『モダン・ジャズ(ビ・バップ)の父』とも言われる」。

「初期の頃よりヤードバード(Yardbird)(起源は諸説あり)と呼ばれており、後に単にヤード、或いは、バードとも呼ばれ、特に後者が親しまれた。パーカー自身も"Yardbird Suite"や"Bird Feathers"といったタイトルを発表している。ニューヨークにあるバードランドはこの名称に由来し、ジョージ・シアリングの"Lullaby of Birdland" (バードランドの子守唄)やウェザー・リポートの"Birdland"といった曲もある」。

「アメリカ合衆国カンザス州カンザスシティに生まれ、ミズーリ州カンザスシティで育つ。子供の頃より、並外れた音楽の才能があった形跡はなく、父親はT.O.B.A.(アフリカ系アメリカ人によるヴォードヴィル)のピアニストやダンサー、歌手といった音楽への影響があるかもしれないと思った。しかし、彼はプルマン社(鉄道会社)のウェイターやコックになった。彼の母親は地方のウエスタンユニオンに夜勤めていた。彼の大きな影響はしかしながら、彼にインプロヴィゼーションの基本を教えた、若きトロンボーン奏者だった」。

「1945年から1948年に掛けてが活動の最盛期であり、天才的なひらめきを伴ったそのアドリブは伝説化している。1945年、若き日のマイルス・デイヴィスを自分のバンドに起用した。1947年にはマイルスの初リーダー・セッションもサポートする。若い頃から麻薬とアルコールに耽溺して心身の健康を損ない、幾度も精神病院に入院するなど破滅的な生涯を送った。1940年代末期以降は演奏に衰えが見られるようになった。衰弱により心不全で早世した」。

「作曲でも『オーニソロジー』『コンファメーション』『ナウズ・ザ・タイム』など、現在まで演奏されるユニークな作品を多く残した。ジャコ・パストリアスはデビュー作で、チャーリー作の『ドナ・リー』を、ベースとパーカッションのデュオでカヴァーした。1988年製作の映画『バード』は、チャーリー・パーカーの生涯を描いたもので、俳優としても知られるクリント・イーストウッド監督の作品である」。(ウィキペデキア)

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「カウント(Count)」は伯爵の意味。当時は、「デューク(公爵)」エリントン、「バロン(男爵)」リーのように、ジャズミュージシャンには皇族の呼称をニックネームとする事例が多かったそうです。メディアで「カンサス・シティのラジオ・アナウンサーがカウント・ベイシーと呼んだ事に発している」と伝えられますが、実際はベイシー自身がカウント・ベイシーと名付けたといいます。

「ジャズの歴史」の著書・相倉久人氏によれば、カウント・ベイシーの功績は、ドラムス、ベース、ギター、ピアノの4リズムスタイル「オール・アメリカン・リズム・セクション」を確率したことと、白人主体の編曲をベースにしたスウィングから個々のプレイヤーの自発性を重んじた「カンザス・シティー・ジャズ」を構築したことだとされます。

カンザス・シティー流とは、「スタイルの違い、ジャンルの壁を超え、やりたい者が、やりたいように集まって、やりたい音楽を、やりたいように演奏して、みんなで盛り上がること」(相倉氏)。ベイシーは「ここではどんなにブルーズとかけはなれているようにみえるジャズも、じつはブルーズなのだ」と語ったそうですが、今の我々には当然と思えることも当時では画期的なスタイルだったわけです。

ウィリアム・“カウント”・ベイシー(William "Count" Basie、1904年8月21日-1984年4月26日)は、「アメリカのジャズピアノ奏者、バンドリーダー。グレン・ミラー(1904-1944)、ベニー・グッドマン(1909-1986)、デューク・エリントン(1899-1974)等と共にスウィングジャズ、ビッグバンドの代表奏者に挙げられる。ニュージャージー州の小都市レッドバンク生まれ」。

「1936年末にシカゴのクラブを経てニューヨークへ活動拠点を移し、自身のビッグバンド“カウント・ベイシー・オーケストラ”を結成。1937年にデッカ・レーベルから発売された『ワン・オクロック・ジャンプ』をはじめ、アルバムでそのシンプルかつ絶妙なサウンドが好評を博し、一躍国際的名声を得る」。

「ポール・ホワイトマンに『オール・アメリカン・リズム・セクション』と絶賛された、強力なリズムセクションをバックに従え、『プレス』ことレスター・ヤング(T.Sax)(愛称の“プレス”はサックスの大統領という意味で、恋仲だったビリー・ホリディが名付け親)、ハーシャル・エバンス(T.Sax)、アール・ウォーレン(A.Sax)、バック・クレイトン(Tp)、ハリー・“スウィーツ”・エディソン(Tp)(スウィーツの名付け親は“プレス”ことレスター・ヤング)、ディッキー・ウェルズ(Tb)らのソリスト陣がバトルを繰り広げ、『オールド・ベイシー』と呼ばれる初期の黄金時代を築いた」。

「1940年代後半から末にかけて、第二次世界大戦後の不況でバンドの興行的経営が成り立たなくなったことやビッグバンドスタイルそのものの低迷も相まって、数々のビッグバンドが活動休止や解散に追い込まれる。カウント・ベイシー・オーケストラも例外ではなく、バンドは一時解散となり、ベイシーもジャズ・コンボでの活動を余儀なくされた」。

「しかし、1951年にオールド・ベイシー時代の盟友フレディ・グリーン(Gt)と共にビッグバンドを再結成、新たにサド・ジョーンズ(Tp)、フランク・フォスターらを迎えて活動を再開する。後にヴァーヴ・レコードと契約し、ニール・ヘフティやクインシー・ジョーンズら新進気鋭のアレンジャーを起用して数々の名盤を残す。初期の『オールド・ベイシー』に対して『ニュー・ベイシー』と呼ばれるのがこの時代である」。

「1968年には米国空軍バンドのアレンジャーであったサミー・ネスティコを迎え、カンサス・シティ・ジャズの伝統をベースにしつつモダンなアレンジが再び高い評価を得る。このころジョー・ウィリアムズやエラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラらのボーカリストなどとの競演も果たす。1984年、膵臓がんでフロリダ州の自宅にて死去。享年79」。(ウィキペディア)

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ファンキーというと、野性的で躍動感のあるようなとか、けばけばしいという意味に使われますが、もともとはファンキー・ジャズから来ている言葉ですね。「ジャズの歴史」の著書相倉久人さんによれば「ファンキーというのはスラングで、泥まみれの労働で疲れた黒人の汗のにおいに関係した表現です。それを自分たちの音楽の看板にかかげたことは、『われわれは黒人である』という一種の確認作業—アイデンティティ宣言とみていいでしょう」ということです。

そのファンキー・ジャズはハードバップジャズの中から生まれます。特に黒人的なブルースやゴスペルの影響を受けたもので、1950年代末から60年代に流行しました。アート=ブレイキー(ドラム)、ホレス=シルバー(ピアノ)などのジャズ・メッセンジャーズが代表的なアーティストだといわれていますが、マイルス・デイヴィスとともに活躍したキャノンボール・アダレイもその一人ですね。

キャノンボール・アダレイ(Julian Edwin "Cannonball" Adderley 1928年9月15日-1975年8月8日)は「フロリダ州タンパ生まれのジャズアルト・サックス奏者。マイルス・デイヴィス(1926年5月26日 - 1991年9月28日)のグループで活躍し、ソウル・ジャズ、ファンキー・ジャズの立役者の一人としても知られる。あだ名の『キャノンボール』の由来は、キャンニバル(cannibal:大食漢)に由来する。言葉が慣用化してこのように変化したという。弟にコルネット奏者のナット・アダレイがいる」。

「1928年フロリダ州タンパに生まれる。1955年にニューヨークに移り住み、ミュージシャンの間でその実力によって注目される存在となる。1957年にマイルス・デイヴィス・セクステットに参加。アダレイはマイルスのアルバム『Milestones』(1958, Corumbia)と『Kind of Blue』(1959, Corumbia)に参加。ソロ初期にマイルスの実質リーダー作として録音された『Somethin' Else』は、ジャズの名盤中の名盤ともいわれる。収録曲ではシャンソンの有名曲『Autumn Leaves』(枯葉)がヒットし、ジャズ・スタンダード化する」。

「キャノンボール・アダレイ・クインテットはアダレイのアルトサックスに弟のナット・アダレイのコルネットがフィーチュアされている。最初のカルテットは売り上げを出せなかった。しかしながらマイルス・グループを離れた後、弟とグループを組み直し、成功を収めるようになってくる」。

「ボサノバを取り入れた"Cannonball's Bossa Nova"(1962, Capitol)のヒットや、1966年にはソウル・ジャズの名盤として名高い"Mercy, Mercy, Mercy"(Capitol)を発表、タイトル曲はジョー・ザヴィヌルの作曲で、今も多くのアーティストによりカバーされている」。

「マイルスの実験作"Bitches Brew"(1970, Columbia)から派生したエレクトリック・ジャズ、アヴァンギャルド・ジャズの流行に倣いアダレイもプレイするようになる。この頃のアダレイは、ソプラノ・サックスをダブリングさせた、"The Price You Got to Pay to Be Free"(1970, Capitol)のようなアルバムも発表しており、ジョン・コルトレーンとウェイン・ショーターの流行からも見れる」。

「大食癖に起因する糖尿病と、偏頭痛に若い頃から悩まされていたが、1975年に脳梗塞で亡くなる。フロリダ州テネシーにあるサウスサイド共同墓地に埋葬されている。彼のメンバーだったジョー・ザヴィヌルが結成したウェザー・リポートのアルバム"Black Market"(1976, Columbia)にアダレイに捧げた曲"Cannon Ball"がある」。(ウィキペディア)

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昨日に引き続き映画がらみで。「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」(1989)を観て、ミシェル・ファイファーが好きになり、そして「My Funny Valentine」が好きなりました。いや、正しく言うと、ミシェル・ファイファーが唄うこの曲を好きになったというべきでしょう。この映画、ご覧になった方も多いと思いますが、前年の「テキーラ・サンライズ」と併せて、ミシェルを巡る「eternai triangle」ものと呼んでいます。

昨日取り上げた「不滅の恋」でベートーヴェンを演じたゲイリー・オールドマンのピアノ演奏でのレガートは見事でしたが、ジェフ・ブリッジズはもともとピアノが弾けるんですね。実のお兄さんとの掛け合いも私たちを愉しませてくれます。それに加えて、ピアノの上で戯れるように歌う彼女に釘付けになりました。

この曲は、1937年に初演されたブロードウエイのミュージカル『ベイブズ・イン・アームズ』(青春一座)に登場する曲で、作詞 ロレンツ・ハート 、作曲 リチャード・ロジャースのコンビによる作品なんだそうです。どんなことが歌われているのか?「Peter White web」から引用させてもらいます。

「マイ・ファニー・バレンタイン」(曲リチャード・ロジャース/詞ローレンツ・ハート)

My funny valentine, sweet comic valentine
You make me smile with my heart
Your looks are laughable, unphotographable
But you're my favourite work of art
Is your figure less than Greek ?
Is your mouth a little weak ?
When you open it to speak
Are you smart ?
Don't change a hair for me
Not if you care for me
Stay little valentine, stay
Each day is Valentine's day

私の愉快なバレンタイン 可愛くって、おかしなバレンタイン
あなたは私を笑わせてくれるわ
あなたのルックスったら笑っちゃう 写真向きじゃあないわ
でも、私好みの芸術作品なの
ギリシャ彫刻よりスタイルは良くないし
口元はちょっと締まりがないし
話し方だってそれでスマートなつもりなの
髪型も変えちゃ駄目
私を愛してるんでしょ
そのまま変わらないで
毎日がバレンタイン・デーなの

「My Funny Valentine」といえば、ジャズ通の方なら、1954年にレコーディングされた「Chet Baker Sings」の「My Funny Valentine」を想起されるかもしれません。また、この映画の音楽はデイヴ・グルーシンが担当しています。この二人については追々まとめてみたいと思います。チャット・ベーカー→ジョアン・ジルベルト→ボサノヴァ誕生。杏里→リー・リトナーデイヴ・グルーシンなんて流れでまとめてみます。


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