「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

ジャズへのエントランス

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作曲は、スウィング・ジャズの代表曲となっている「ムーンライト・セレナーデ(Moonlight Serenade)」(1939年)を書いたグレン・ミラー。実は聞いたことがなかったが、薮井竹庵(http://blogs.yahoo.co.jp/yacup)さんのブログがそれを聞かせてくれた。

この曲「チャタヌーガ・チュー・チュー」というタイトルに惹かれ、その由来を辿ってみた。「チャタヌーガ」はテネシー州の実在の都市であり、そこには悲しい歴史と環境改善成功の物語があった。テネシー州東部、ジョージア州との州境に位置するチャタヌーガ市は、テネシー川の豊かな流れに恵まれた人口15万の小さな都市。

名曲「チャタヌーガ・チューチュー」発祥の地として知られるチャタヌーガ市は、かつて深刻な河川・大気汚染に見舞われ、1969年には「全米で最も大気汚染のひどい街」という汚名をもらうほどであった。それから30年、官民一体となった街づくりへの取り組みの結果、1996年には「都市開発と環境改善を両立させた街」として国連から表彰されるなど、今では「全米で最も住みやすい街」ともいわれている。((財)自治体国際化協会ニューヨーク事務所サイトより)

アメリカ先住民チェロキー族のことばで「岩が迫ってきているところ」がその語源となった同市であるが、19世紀前半には、アパラチア山脈周辺に住んでいたチェロキー族を西部へ強制移住させる際に通った道、「Trail of Tears」(涙のトレイル)の中継地となるなど悲しい歴史の舞台でもあった。

1880年、同市とオハイオ州シンシナティを結ぶ米国初の旅客列車「チャタヌーガ・チューチュー」が運行され、グレンミラー楽団がこの名をタイトルにした曲を発表するとチャタヌーガの名は世界中に広まるところとなった。かつての鉄道ターミナルは、ホテルとショッピングモールを併せた複合コンプレックス「チャタヌーガ・チューチュー」として蘇っている。

グレン・ミラー(Glenn Miller, 1904年3月1日 - 1944年12月15日)はアメリカのジャズミュージシャン(トロンボーン奏者、作曲家、アレンジャー、バンド・リーダー)。カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ/ビッグ・バンドの代表奏者に挙げられる。

その他作品;
「イン・ザ・ムード」、「茶色の小瓶」、「真珠の首飾り」、「タキシード・ジャンクション」。

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「You ain't heard nothin' yet!(お楽しみはこれからだ!)」というセリフが、映画史上初めてのセリフとされる。その『ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer)は、1927年10月6日にアメリカのワーナー・ブラザーズが公開した映画で、世界初のトーキーと言われている。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキー(パートトーキー)だったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキーの時代の幕開けとなったという。1953年と1980年にリメイクされている。

主演のアル・ジョルソン(Al Jolson, 1886年5月26日 - 1950年10月23日)は、「リトアニア生まれのアメリカ合衆国の歌手、俳優。黒塗りの顔で黒人を演じ、大げさな演技とオペラ風の歌い方、口笛、そして聴衆に直接語りかけるスタイルを確立し、20世紀のアメリカを代表するエンターテイナーの一人となった」。

「エイサ・ヨエルソン (Asa Yoelson) としてリトアニアのセレジウスでユダヤ人の家庭に生まれる。父はハザン。一族の本来の苗字はヘッセルソン(Hesselson)である。幼い頃に家族と共に渡米し、ブロードウェイで人気歌手となった。1927年、最初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』に出演。歌手としての代表作はガーシュウィンの『スワニー』である」。(フリー百科事典)

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ジャズトランペッターとして国内ではトップの位置にある日野皓正。しかし、本場アメリカでの評判が今ひとつわからない。どこかでマイルス・デイビスの亜流と評されている記事を見たこともある。下記のフリー百科事典の記事はたった四行分しかないことが、物語っているのか。

日野 皓正(てるまさ、1942年10月25日-)は「東京生まれ。現在、アメリカ・ニューヨーク在住。父は、タップダンサーでトランペッターの日野敏。弟は、ジャズドラマーの故・日野元彦。ベーシストの日野賢二は次男。有馬記念のスタート前にトランペットをソロ演奏し、中山競馬場内、およびテレビの前の視聴者を静まり返らせたことがある」。

弟の元彦氏が1999年に亡くなっていたことは知らなかった。東京のジャズクラブで彼の演奏を聞いて、そのパフォーマンスに圧倒された記憶がある。

皓正氏のプロフィールを公式サイトから辿る。

「1942年、10月25日東京生まれ。9歳の頃よりトランペットを学び始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンス・バンドで活動を始める。1964年、白木秀雄クインテットに参加し、1965年にベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演し喝采を浴びる。1967年、初リーダー・アルバム『アローン・アローン・アンド・アローン』をリリース」。

「1969年、『ハイノロジー』をリリース後、マスコミに“ヒノテル・ブーム”と騒がれるほどの絶大な注目を集める。1972年、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。1975年、N.Y.に渡り居を構え、ジャッキー・マクリーン、ギル・エバンス、ホレス・シルバー、ラリー・コリエルなどと活動を重ねる」。

「1979年、『シティー・コネクション』、1981年『ダブル・レインボー』、とたて続けに大ヒットアルバムをリリース。1982年には『ピラミッド』をリリースし、武道館を含む全国ツアーを行う。1984年、ロサンゼルス・オリンピック・アートフェスティバルに出演。」

「1989年、ジャズの名門レーベル“ブルー・ノート”と日本人初の契約アーティストとなり、第1弾アルバム『ブルーストラック』は、日本はもとより、アメリカでも大好評を博す。1990年以降、自身の夢である『アジアを1つに』という願いを込め、アジア各国を渡り歩き、探し集めたミュージシャンたちと結成した《日野皓正&ASIAN JAZZ ALLSTARS》で、1995〜1996年に北米−アジアツアーを行う」。

「1997年、台湾での『第16回国際芸術祭』、シドニーでの『日豪友好100周年記念コンサート』に出演。2000年、大阪音楽大学短期大学部客員教授に就任。(現在に至る)」

「2001年6月、アルバム『D・N・A』をリリースし、10月にはレコーディング・メンバーにて全国ツアーを行う。東京公演はライブ・レコーディングを実施し2002年4月リリース。このD・N・Aプロジェクトが平成13年度芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。2003年9月、初めての絵画展『APPRECIATION』開催とともに初の作品集を刊行」。

「2004年、平成16年春の叙勲、紫綬褒章を受章。また、約20年ぶりに映画音楽を手掛け、〔「透光の樹」主演:秋吉久美子、監督:根岸吉太郎〕サウンド・トラックは文化庁芸術祭 レコード部門  優秀賞、毎日映画コンクール 音楽賞を受賞。2005年2月、上海レコーディングを実施し、ニューアルバム『ドラゴン〜龍〜』を5月にリリース。2006年6月、レギュラーメンバーによるニューアルバム「クリムゾン」をリリース」。

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ジャズマンたちの生涯を見ると、若い頃の薬物中毒、それからの克服、あるいは死という流れの中で生きた人たちが少なくない。それは、裕福な環境に育ったマイルスでさえ例外ではなかったようだ。音楽とドラッグはなかなか切れないものなのか。

しかし、「モダンジャズの旗手」、「ジャズ界のピカソ」と称された彼の音楽はそれを克服し、ジャズに留まらない音楽界への影響をもたらし続けた。亡くなって15年、彼の生涯をフリー百科事典から辿っておく。

マイルス・デイヴィス(Miles Davis, 1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、「ジャズのトランペット奏者。アメリカのイリノイ州アルトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。父は医者であったため、マイルス自身は他のジャズプレイヤーよりとても裕福な環境で育った。母は音楽の教師をしており、その影響で10代の頃からトランペットに興味を持ち演奏練習をしていた」。

「高校時代に地元ではジャズバンドを結成、セントルイスでは大人とのバンドで活躍していた。当時のセントルイスには黒人労働者居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた」。

「チャーリー・パーカーの元でのビー・バップからキャリアははじまり、ソロとして独立してからのクール・ジャズ、その後のハード・バップ、モード重視のアドリブプレイ(モード・ジャズ)、フリー・ジャズの分野などと、自ら築き上げた音楽スタイルを変化させながら、常にジャズ界をリードしてきた」。

「18歳のある日にマイルスは、セントルイスにチャーリー・パーカーが演奏しに来たとき偶然にもチャーリーとの演奏を果たした。彼はその後直ぐにニューヨークに上京し音楽院に入学。後パーカーのバンドに加わる事となった」。

「アルバム『Birth Of The Cool(クールの誕生)』などで知られる、モダン・ジャズの旗手。テクニックに頼らない、適材適所の感情豊かなプレイを実践した一方、その後のリーダーアルバムやステージでも、セッションメンバーにそういった演奏を常に求め、かつアンサンブルも重視した」。

「マイルスはアメリカにおける人種差別問題には常に批判的であった。しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通した。第一期クインテット時代に、一時的にビル・エバンスをバンド・メンバーに迎え入れた時に、当時の主なマイルス音楽のリスナーだった黒人層からは多くの批判が浴びせられたと伝えられているが、当時のマイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ!」と豪語したと伝えられている。ただ、ビル・エバンスは音楽的には大きな貢献をしたものの、

一年程度の在籍ののち白人バッシングに耐えきれずにバンドを去ることになったと言われている。」
「同様に、唯一のアジア系人種として、ピアニストのケイ赤城が1989年から2年間、日本人としては最初にしてただ一人レギュラーメンバーとして活躍した。その他に世界的なジャズギタリストである渡辺香津美や、日本屈指のベテランのドラマー村上ポンタ秀一も、マイルス側からオファーを受けていたという事実がある」。

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「最後はビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』だった。窓の外では雨が降り続けていた」。(「ノルウェーの森」/村上春樹)

「ビルの演奏には、いかにもピアノという感じの、静かな炎のようなものがあった」(マイルス・デイビス)

「音楽は私の人生で一番重要な、意味のあることであり、私の生活にかかわる何ものよりも私を占めている」(ビル・エヴァンス)

ビル・エヴァンス(Bill Evans, 本名:William John Evans(ウィリアム・ジョン・エヴァンス),1929年8月16日 - 1980年9月15日)。ロシア系白人ジャズピアニスト。

ジャズに大変興味はあるが、なかなかじっくり聞き込むという意欲が出てこない。入り込めば面白い世界が待っていることはわかっている。まずはその第一歩をビル・エヴァンスから始めてみたい。予習として、フリー百科事典から彼の生涯を辿ってみる。

「印象主義的な和音、伝統的なジャズの代表曲における創意に富んだ解釈、シンコペーションやポリリズムを利用したメロディラインは、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなどのピアニストにも影響を与えている他、多くの世代を下ったピアニストやジョン・マクラフリンやジーン・バートンチーニ、ジョン・アバークロンビー、ビル・フリーゼルといったギタリストにも影響を与えている」。

「幼い頃に学んだクラシック音楽の影響のあるそのスタイルはクラシック音楽ファンなどにも幅広い支持を得ている。エヴァンスのアルバムには駄作が一枚も無いとされる。中でもベースのスコット・ラファロとの競演による諸作品は人気が高い」。

「父は、兄のハリー同様に、幼い頃からビル・エヴァンスに音楽を学ばせている。1950年代のニューヨークでの活動で、伝統的ジャズといわゆるニューウェーブ・前衛的ジャズいずれのジャズバンドにおいても優秀なメンバーとして知られるようになった」。

「1956年に、作曲でも活動するジャズマンジョージ・ラッセルと共にリーダーとしての最初の録音『New Jazz Conceptions』を残している。エヴァンスは1958年にマイルス・デイヴィスのバンドに短期間加わり、録音とツアーを行っているが、ドラッグ使用など他のメンバーとの摩擦、そして彼自身がリーダーとしての活動を望んだために、バンドを離れる」。

「しかしデイヴィスの要望で、ジャズ史に大きな影響を与えた1959年の『カインド・オブ・ブルー』には参加している。モード的なものをこのアルバムで目指していたデイヴィスは、エヴァンスがそういった音楽に強いことを認めて呼んだのである」。

「1960年代始めに、エヴァンスはドラマーのポール・モチアンとベーシストのスコット・ラファロをメンバーに迎え、歴史に残るピアノトリオを結成する。このトリオで、スタンダードナンバーと自作曲を中心に据えつつ、グループ全体の即興性を伴ったメンバー間のインタープレイにも重きを置いている。特に若くて才能のあるラファロとエヴァンスのコラボレーションはレベルの高さが評価されている」。

「このトリオで、『ポートレイト・イン・ジャズ』『エクスプロレイションズ』『ワルツ・フォー・デビー』『サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード』の4枚を録音しているが、これらはリバーサイド四部作としてファンの間では特別なアルバムとされている」。

麻薬常習であったエヴァンスの音楽は、次第にその破壊的内面を見せるようになる。その頃、最初の妻とされるエレイン(一般には結婚したと考えられていたが、正式には結婚していなかったとされる)と別れるが、エレインはすぐに自殺してしまった。エヴァンスの死後に追悼版として発売された『You Must Believe in Spring』の最後のトラック『Suicide is Painless(痛みのない自殺)』は、映画『M*A*S*H』(1970年)及びTVシリーズ版『M*A*S*H』のテーマとして知られる曲である」。

「1978年にゴメスとジグムンドがエヴァンスの元を去る。何人かのメンバーを経て、ベースのマーク・ジョンソン(末期のエヴァンスに対し、病院へ行くよう懇願したエピソードが残されている)、ドラムのジョー・ラバーバラ(ラバーベラ)にメンバーが落ち着き、これがエヴァンス最後のトリオメンバーとなった」。

「このメンバーでも『ターン・アウト・ザ・スターズ』(Turn Out The Stars)など幾つかの録音を残しているが、一時ほどの内省的な音楽は見られない。これは、常用している麻薬がヘロインから、コカインに移ったこととの関係が指摘される。エヴァンスの麻薬使用は1950年代後半のマイルス・ディヴィスとの仕事の頃には問題となっていた。ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかった」。

「1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件があった。これを機にヘロインをやめることになったという」。

「1979年の『We Will Meet Again』は、ピアニストかつピアノ教師であった兄ハリーのための作品でもある。この年、録音の4ヶ月前にハリーは自殺している。エヴァンスは1980年9月9日に始まったニューヨークの『ファッツ・チューズデイ』で演奏の二日目にあたる11日、演奏を中止し自宅で親しい人達に三日間にわたり看病された。14日にジョー・ラバーバラが説得し病院に運び、翌日の月曜日に死亡。死因は肝硬変、出血性潰瘍にともなう失血性ショック死。享年51歳であった」。


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