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南米音楽

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私がボブ・マーレィという存在に気づいたのは、クラプトンの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」でした。いつ頃のことだったかとちょっと調べてみました。「1974年9月14日付のシングルチャートではボブ・マーレィのカバー曲である、『アイ・ショット・ザ・シェリフ』(I Shot The Sheriff)でナンバー1を獲得しているが現在の所、クラプトンのシングル第1位は、この1曲のみとなっている」ということです。

そして、この曲はクラプトンの代表曲の一つになると同時に、ボブ・マーレィを一躍世界に知らしめる曲になりました。

「『アイ・ショット・ザ・シェリフ』という曲をどうして書いたと思う?誰も巻き込むことなく、自分自身の内面との葛藤を表現した結果、俺はすべての保安官を撃っちまったのさ」(ボブ・マーリーのインタビューより)

彼を語るには「ザ・ウェイラーズ」のことを書かねばなりませんが、鈴木 創さんの秀逸なHP「音魂大全」(http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/index.html)に詳細な記述があります。ここではその中から1972年以降のマーレィの活動について引用します。

         <第三世界が生んだ20世紀最大のポップ・ヒーロー>

<ボブ・マーリー誕生>
「彼の父親ノーヴァル・マーリーは、ジャマイカ駐屯のイギリス軍大尉でもちろん白人ですが、母親は地元ジャマイカの黒人でした。白人と黒人との混血であり、支配者と被支配者との間に生まれた子供という彼の境遇は、彼を苦しめたと同時に、その壁を越えさせる運命を彼に与えました」。

「彼がジャマイカという小さな島国を飛び出し世界を駆けめぐることになるのも、彼の生み出したレゲエが世界中へと広がって行くのも、すべてはこの彼の生い立ちから始まったと言ってよいでしょう」。

「ボブ、歌い始めたきっかけは?」
「始まりは・・・嘆きさ。そう嘆きから始まったんだ」
(スティーブン・デイビス著「ボブ・マーリー、レゲエの伝説」より)

<レゲエ元年>
「1972年という年は、レゲエの世界進出元年とも言える年でした。ジミー・クリフが主演したレゲエの伝説的映画化『ハーダー・ゼイ・カム Harder They Come』が、この年に公開され、サントラ盤が世界的に大ヒットします。さらに、サイモン&ガーファンクルを解散したばかりのポール・サイモンが、ジャマイカでレゲエ・ナンバー『母と子の絆』を録音、世界中で大ヒットとなりました。この曲は白人によるレゲエ・ヒット第一号ということになります」。

<ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ>
「バーニーとピーターが抜けたバンドは、この後ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして活動することになり、1975年リタ・マーリー(ボブの奥さん)、ジュディー・モワット、マーシャ・グリフィスからなるアイ・スリーズがコーラス隊として加わることになりました」。

「そして、この年ロンドンで行われたライブの模様が録音され、発売されたのが彼の評価を決定づけた傑作アルバム『ライブ! Live!』です。続けてスタジオ盤の『ナッティー・ドレッド』が発売され、いよいよ彼の人気は高まります。さらに、だめ押しとなったのが、エリック・クラプトンがボブの曲をカバーした大ヒット曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」でした」。

<ボブ・マーリー狙撃事件>
「アルバム『ラスタマン・ヴァイブレーション Rastaman Vibration』を発表した1976年の12月3日、ボブは自宅で5人組の狙撃者たちに撃たれます。その2日後、彼はフリー・コンサートに出演することになっており、そのコンサートはジャマイカを二分する野党(JLP)の支援コンサートであったため、与党(PNP)の新派が企てた暗殺計画だったと言われています」。

「ボブは頭と左肩を撃たれ、マネージャーのドン・テイラーも両足を撃たれましたが、彼は怪我をおして2日後のステージに立ちました。しかし、あまりにも愚かで危険な国ジャマイカに嫌気がさし、ボブはバハマ、イギリス、アメリカへと移り住む亡命生活に入ります。(この後12月15日に行われた総選挙では、与党(PNP)が勝利し、マイケル・マンリーが首相の座につきます)」。

<死への旅の始まり>
「1977年ロンドンに移り住んだボブは、音楽活動に専念、アルバム『エクソダス Exodus』を発表します。しかし、ボブはヨーロッパ・ツアー中に足を怪我し、それが悪化、アメリカン・ツアーをキャンセルし、マイアミで手術を受けることになります。そして、この腫瘍が後に身体中に転移し、彼の早すぎる死の原因となります」。

「1978年、彼はまるで自分の死を予見していたかのような安らかさに満ちたアルバム『カヤ Kaya』を発表し、久しぶりに故郷のジャマイカに戻ります。それは、4月21日に行われようとしていた『「ワン・ラブ・ピース・コンサート』への出演が目的でした」。

「このコンサートにおいて、ボブはジャマイカの政界を二分する政党の党首マイケル・マンリー(PNO)とエドワード・シーガー(JLP)を舞台に上げ、数万人の群衆の前で握手をさせました。このシーンは、非暴力それも音楽によって平和を築いた20世紀を代表する素晴らしい場面として、今や伝説となっています」。

<心の故郷、アフリカの地へ>
「1979年、ボブは最初で最後の来日コンサートを行います。その後、ボストンで行われた南アフリカ、ジンバブエ、ナミビアのためのコンサートに出演。アフリカの統一を呼びかけたアルバム「サヴァイバル Survival」を発表します」。

「これがアフリカでも大ヒットし、彼はいよいよジャマイカ、欧米以外、第三世界のヒーローとしての地位を確立します。そして、その貢献が認められ彼はジンバブエの独立式典に出席し、そこで記念ライブを行いました。アフリカへの回帰を呼びかけるラスタマンにとって、それは夢のような出来事だったに違いありません」。

<母のもとでの静かな死>
「1980年、ボブは彼にとってのラスト・オリジナル・アルバム『アップ・ライジング Uprising』を発表します。この作品には、かつてアフリカからアメリカへと荷物のように運ばれ悲劇の人生を歩むことになった奴隷たちに捧げられた名曲『リデンプション・ソング Redemption Song』が収められるなど、彼のラストを飾るに相応しい重く且つポジティブな内容になっていました」。

「この年の9月、アメリカン・ツアーの途中で急激に容体だ悪化したボブは、ドイツの診療所に入院します。しかし、そこでの治療も効果はなく、彼は再び母親の待つアメリカのマイアミに戻り、そこで翌1981年5月11日午前11時45分静かに息をひきとりました。彼の遺体は、その後ジャマイカへと戻り、キングストンのナショナル・アリーナで国葬にふされました」。

ボブ・マーレィ(Bob Marley、1945年2月6日 - 1981年5月11日、本名ロバート・ネスタ・マーレィ Robert Nesta Marley)は、「ジャマイカを代表するレゲエ音楽家。キング・オブ・レゲエと呼ばれる。深い精神性を有するその音楽は、ラスタファリズムの思想を背景としている。今なおレゲエの神様として崇められる存在であり、熱狂的なファンも多い」。(ウィキペデア)

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1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教運動である「ラスタファリズム」、それはエチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世が『ザイオン(アフリカ)回帰よりバビロン(ジャマイカ)解放』という新しい考えを定着させ、どこか世捨て人風で厭世的なラスタ達を、社会へ参加させることになったことまでは昨日紹介しました。

1940年代後半に、ジャズやブルース、ゴスペルといった黒人音楽が発展する形で生まれたリズム・アンド・ブルースやアフロカリビアン音楽は、1960年代になるとブルースのファッツ・ドミノ、スカ、ロックステディを生み出すことになります。レゲエと言う言葉の語源には諸説あるようですが、一般にはトゥーツ&ザ・メイタルズの『Do the reggey』という曲が発祥であるとされています。

ところでロックステディとはどんな音楽なのでしょうか?

「ロックステディは音楽のジャンルの一つ。1966年から1968年の間にジャマイカで流行した。この音楽ジャンルの名前は、アルトン・エリスの曲『ロックステディ』で歌われたダンスのスタイルに由来する。ロックステディのダンスは、初期の躍動的なスカのダンスに比べて緩やかなスタイルである」。

「ロックステデイは、よりゆっくりしたテンポ、管楽器の使用の減少、ベースの役割の変容においてスカと異なっている。スカでは、ベースは均等に歩いているスタイルで四分音符をプレイする傾向があるが、ロックステディにおいては、ベース部分はしばしばギターリフで重ねられて、メロディアスで反復性のあるリフを用い、シンコペートを強調して演奏された」。(ウィキペディア)

こうした音楽がジャマイカで流行していた時代、「ルードボーイ」と呼ばれる若者がジャマイカの田舎からやって来てきました。

「(彼らは)リバートンシティやグリニッチタウン、トレンチタウンといったキングストン市郊外のゲットーに押し寄せていた。国の大部分は1962年のジャマイカ独立後の気分で満たされ楽観的だったが、これらの非常に貧しい若者たちは楽観的な感情を共有できなかった。彼らの多くは法律違反者になり、ルードボーイとして知られるようになった」。

ロックステディは一世を風靡しましたが、短命に終わり、1968年にはレゲエに取って代わられることとなります。

「このころのレゲェ・ベース奏者の先駆者として、ウェイラーズのアストン・バレットがいるが、彼のアイドルはビートルズのポールでありポールのベース・ラインの影響を色濃く反映している。案外レゲェ・ベースのルーツはビートルズかもしれない。歌詞の内容も社会問題について歌うものが多く、ジャマイカの宗教的思想であるラスタファリズムにも多大な影響を受けている」。(同上)

このアストン・バ゙レットとはどんなミュージシャンだったのでしょうか?同じくウィキペディアから引用します。

アストン・バレット(1946年11月22日生まれ。本名アストン・フランシス・バレット)は、「ジャマイカ、キングストン市生まれのレゲエベース奏者、および音楽家。ボブ・マーレィアンドザ・ウェイラーズで演奏したバレット兄弟の一人(もう一方はドラムスのカールトン・バレット)。愛称は『ファミリーマン』(Family Man)で、さまざまな女性との間に52人の子供ができたために呼ばれている」。凄いですね。

「彼は、レゲエにおけるベースの旋律の役割を確立させた第一人者である。1969年からボブ・マーレィが死ぬ1981年の間、カールトン・バレットともにレコーディングとライブ演奏で現在のレゲエに欠かせない基本的なリズムパターンを発明した。また、バーニング・スピアからポップスのジョン・デンバーまで、幅広いアーティストと一緒に演奏した」。

ようやくボブ・マーレィに辿り着きました。続きは明日。

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今日は「キング・オブ・レゲエ」ボブ・マーレィの生誕62年の記念日ということで、FMなどでは彼の曲がたくさん流れるのではないでしょうか。日本でもレゲエをベースにするミュージシャンは少なくありませんが、彼らにとってボブ・マーレィはキングではなく神様なのかもしれませんね。ところでレゲエはそもそもどのような経緯で生れたのか、私は全く知りませんのでさっそく調べてみました。

まず、「セラシエ来訪とレゲエ音楽」というウィキペディアの次の記事が目に留まりました。

「1966年、ハイレ・セラシエ1世がジャマイカに来訪。ラスタファリアン達は熱狂的にジャーを歓迎した。ここでジャーは、『ジャマイカ社会を解放するまではエチオピアへの移住を控えるように』言う内容の私信を主なラスタ指導者に送った。これによって、『ザイオン(アフリカ)回帰よりバビロン(ジャマイカ)解放』という新しい考えが定着し、どこか世捨て人風で厭世的なラスタ達を、社会へ参加させるという思わぬ効果も現れた」。

「当時の音楽産業の流れの中では、ジャズやアメリカのR&Bをカバーした音楽(スカ、ロックステディ)が主流だったが、セラシエ来訪を契機にして、ラスタの思想やメッセージを伝える手段としての音楽、すなわちレゲエに変遷していく。ボブ・マーレィを始めとしたラスタのミュージシャンやシンガーが、さまざまなラスタのメッセージを音楽に乗せ、国民の多数に支持されるようになるのだ」。

「特にボブ・マーレィは世界的にヒットし、そして持されたため、1975年にハイレ・セラシエ1世が死亡するという悲報を受けても、ラスタファリ運動のモチベーションは決して下がることはなかった。むしろ、"Jah Lives"(ジャーは生きている)と歌っていたのだ。少なくとも、1981年にボブ・マーリーが死亡するまでは、ラスタファリ運動は活発であった」。

この記事の前半部分は基礎知識がないとチンプンカンプン。少しフォローしておきましょう。

「ラスタファリズムは、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にして発生した宗教運動。ラスタファリ運動とも言う。特定の教祖や開祖は居らず、聖書を聖典としてはいるが、教義は成文化されていない」。

「基本的にはアフリカ回帰運動の要素を持ち、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世を神であるジャーの化身、もしくはそれ自身だとする。名称はハイレ・セラシエの即位以前の名前ラス・タファリ・マッコウネン(アムハラ語で『タファリ・マッコウネン皇太子』の意)に由来する」。

「主義としてはアフリカ回帰主義(またはアフリカ中心主義)を奨励した。その指向は、ラスタの生活様式全般、例えば菜食主義やドレッドヘア、ガンジャを聖なるものとして見ることなどに現れている」。 (*ガンジャ;インド麻の一種で嗜好品としての大麻。「神の草」の意)

「1970年代にレゲエ音楽や、とりわけジャマイカ生まれのシンガーソングライター、ボブ・マーレィによって全世界に波及する。現在でも世界に100万人のラスタファリアニズム運動の実践者がいると言われる。なお、ジャマイカの国教はキリスト教(プロテスタント)であって、ラスタファリズムを信仰するのは全国民の5〜10%前後である」。(ウィキペディア)

このラスタファリズムの中で盛り上がったレゲエという音楽の源流はどんなものだったのでしょうか。このことについては明日探ってみたいと思います。

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昨日取り上げた「熱帯JAZZ楽団」に続いて今日はもう一つの14人メンバーによる大編成のビッグバンド。

吉田憲司(tp,post horn)、深井克則(p)、北原実(b)、大野孝(Timbales&ds)、納見義徳(のうみよしのり/Bongos&per)、竹内信一(congas&per)、鈴木正則、依田武之、茶谷(ちゃだに)将彦(tp,flh,cho)、橋本佳明、内田日富(tb)、西田 幹(btb)、八木啓代、タイロン橋本(vo) 

「Welcome to Adobe GoLive 6」(http://djmoko.com/TBSNHK/session1_30Habatanpa.html)から彼らのポロフィールを引用します。

「このバンドは2度結成されている。第一次ハバタンパは1986年、トランペッター日野晧正をソリスト、吉田憲司を音楽監督&アレンジャーに、強力なブラス陣を擁したアフロジャズの実験的バンドとして結成。不定期の活動ながら国内外で高い評価を得たが、諸理由により1989年解散、ふたたび蘇ったのは1994年夏」。

「この年、ラテン・ミュージックの本場キューバ第二の都市サンティアゴにおいて第1回国際サルサ・フェスティバル《MATAMOROSON》が開催される。キューバの主要グループはじめ、米国・中南米諸国からも参加者を集め大規模での開催に、日本からも参加をというキューバ側からの要請に応えハバタンパが再始動した」。

「リーダーの吉田憲司を中心に、松岡直也バンド、オルケスタ・デル・ソルなどから選りすぐられた、現在の日本のラテン・ミュージックシーンを代表している実力プレイヤー達がメンバー。加えて既にメキシコやキューバを拠点にソリストとして活動していた女性歌手八木啓代をヴォーカルに迎えてMATAMOROSONに臨んだ」。

「ジャズやサルサなどのラテンミュージックの文法を用いながら随所にクラシックの技巧を取り入れ、緻密な計算に基づく大胆なオーケストレーション、超絶技巧的にして華麗さ統一性を失わないアンサンブルが特徴。硬軟取り混ぜ聴衆を飽きさせない幅広いレパートリーを持つ」。

「グループ名は、19世紀にハバナから米国フロリダ州タンパに移住したキューバ人が故国を偲んで作ったタバコに由来している。グループとしては各メンバーが多忙を極め、恒常的な活動ができずに幻の存在ともいわれていた」。

ヴォーカルの八木啓代(のぶよ、1962年1月13日 - )は、「大阪府生まれのラテン歌手、作家、エッセイスト、ジャーナリスト、音楽コーディネータ。ラテンジャズ・バンド、ハバタンパ(HAVATAMPA)のリードヴォーカル。声質はソプラノのリリコ・リジェーロ(Lirico Leggero, Soprano)」かなり多彩な女性です。

このバンドに加わることになった彼女のことは、大阪府立北野高等学校卒業生によるサイト「われら六稜人」【第16回】(http://www.rikuryo.or.jp/home/people/yagi0.html)からインタビューを抜粋します。

「ラテンのリズムに合わせて」

「94年にキューバで国際サルサフェスティバルが開催されました。日本からも代表バンドを出さないかということになり、HAVATAMPAというバンドが出場することになったのです」。
「HAVATAMPAは、もともとは日野晧正氏を中心にラテン&ジャズ系のベストメンバーを集めて結成されたインスト系バンドでした。各パート選りすぐりの一流の演奏家たちばかりを集めたバンドで、最盛期には武道館を満席にするくらいの公演をこなしていたのですが、日野氏の退団とともに解散状態になっていました。86年から89年までのことです」。

「それで、サルサフェスティバルの出場を機に、リーダーの吉田憲司さんがたまたま輸入盤で手に入れた私のCDに興味を持たれていて『ヴォーカルとして参加しないか』と誘ってくれたんです」。
「サルサというのは本来、踊りのための音楽で…昔、ペレス=プラードのマンボがありましたよね。それを洗練したものだと思って頂ければ良いかと思います。ペレス=プラードのマンボはキューバの音楽なんですが、59年にキューバ革命が起こり、アメリカとキューバの国交が断絶されました」。

「そのため、アメリカで働いているキューバ人ミュージシャンは、亡命するか帰国するかを選ばなければならない状況になったのです。アメリカ中にキューバ色がなくなった時代なんですね。そういう時代に注目されたのがプエルトリコやパナマなど…キューバの陰に隠れていたミュージシャンたちで、そういう人たちにとっても、活動の場が与えられるようになったとはいえ、白人の勝手なやり口じゃないですか。仕事ができて嬉しいんだけど、気持ちとしてはすっきりしない…政治に翻弄されているという…」。

「当時、70年代ですが…黒人解放運動とか、ネイティブアメリカンの人たちの人権運動が世界的に盛り上がっていました。そのような時代にマイノリティの人たちを中心に、マンボのような歌を中心とした新しい音楽のムーブメントが始まったのです。その1つがサルサなんですね。だから、マンボにも近いところがありますし、ビートルズの影響なども受けている」。

「ですから、ラテンジャズであればインストでも良かったのですが、サルサならヴォーカルが必要だ。ということでHAVATAMPAは、サルサフェスティバルの出場にあたって歌手を探していたんですね。それに私が声をかけられた、と…」。

「もっとも、このあと、HAVATAMPAは斬新な編曲や音楽性の高さが評価されて、オペラハウスに招かれたり、芸術祭やジャズフェスティバルなどに招待されるようになったこともあって、必然的に、内容も、オリジナリティの部分が進化して、ある種パターン化された音楽であるサルサから、ヴァラエティのあるものとなってきました」。

「いまでは、ラテンのリズムを基盤にしながらも、クラシックからジャズ、キューバ音楽などを幅広く消化して独自のものを作っていますから、もうサルサバンドとは言えなくなってしまいました。
私もきつい編曲についていかなくてはならないので、成りゆきとはいえ、大変です(笑)」。

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このブログはだんだん私の底の浅さを披瀝する公開日記となってきました。先ほど昨年11/22、NHKふれあいホールで行われたライブの再放送を観ました。ホーンセクション、キーボード、ドラムス、ベース、パーカッションで構成された17人の男たちのビッグバンドのパフォーマンスはまさしくエンターテイメントそのものでした。

「無機質な音楽が溢れている昨今、ゴージャスなサウンドを待ち望んでいるオーディエンスがいることを信じて、仲間に声を掛け、その呼びかけに応えて素晴らしいミュージシャン達が集まった。元オルケスタ・デ・ラ・ルスのリーダーカルロス菅野がプロデュースし、今の日本を代表するミュージシャンが一堂に会したラテン・ジャズ・ビッグバンド、すなわち熱帯JAZZ楽団である」。

「17人の個性溢れるメンバーが、『音楽はエンターテイメントだ!』をコンセプトに、懐かしのラテン名曲は勿論、ジャズ・ファンキー・オリジナルまでとびっきり熱いビッグバンド・サウンドを繰り広げる」。1998年のファーストアルバムから昨年の「熱帯JAZZ楽団X〜Swing con clave」まで10枚ものアルバムがリリースされていました。

【熱帯JAZZ楽団(http://www.jvcmusic.co.jp/nettai/)メンバー】
Perc/カルロス菅野 Timb/美座良彦 Conga/斉藤恵
Pf/森村献 Dr/平川象士 Bass/高橋ゲタ夫 
Tp/鈴木正則、鈴木正晃、奥村晶、松島啓之
Tb/中路英明、青木タイセイ B.Tb/西田幹 
A.Sax/近藤和彦、藤陵雅裕 T.Sax/野々田万照 B.Sax/宮本大路

2001年には熱帯JAZZ楽団から「熱帯倶楽部」「「spirit of rhythm」というユニットも生まれていました。カルロス菅野さんのインタビュー記事を見つけましたので、一部を抜粋します。

リーダー、カルロス菅野が立ち上げた新プロジェクト「熱帯倶楽部」とは?熱帯倶楽部について、そしてファースト・ユニット「spirit of rhythm」についてうかがいました。

メンバー:
カルロス菅野(Perc), 森村献(Pf), 野呂一生(Gt), 神保彰(Dr), 藤陵雅裕(Sax), 美座良彦(Perc), 菰淵樹一郎(Bass) 

Q:「熱帯倶楽部」とは?「spirit of rhythm 」とは?

説明がすごくややこしいんですけど・・・「熱帯倶楽部」というのは、僕が開いた「お店」みたいなものなんです。ミュジシャンの「遊び場倶楽部」みたいな・・・。「皆さんどうぞ!」っていうお店で、そこに遊びに来てくれた人とユニットを組む。今回はそのユニットが「spirit of rhythm」という名前なんですよ。「熱帯倶楽部」というのは、まあ1つの「空間」みたいなもの。だから僕に言わせると「熱帯ジャズ楽団」も「熱帯倶楽部」のひとつに入ってしまうような・・・僕の中ではそういうイメージなんです。

だから今後も「熱帯倶楽部」の中から、また別のユニットが誕生する可能性もあるんです。おもしろいコンセプトがあれば、「熱帯倶楽部」の中でなにかやってみる。そういう展開ができる「場所」として「熱帯倶楽部」というのを起こしたんです。また新たな"トライアルの場所"を作ってみました、という感じです。

「新たなトライアルをしていきたい」・・・熱っぽく語られるカルロスさんの中には、常に新天地を求めるエネルギーが満ち溢れているようでした。アルバム「spirit of rhythm」は、最高にカッコよく、そして感動的な「とっておきの一枚」。アルバム発売記念ライブが楽しみです!(2001.10.18)

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