「a song for you」の可能性を求めて

大切な誰かのために、自分の思いを音楽にしてプレゼント

欧州音楽

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]

イメージ 1

<Edith Piaf - Hymne à L'Amour>
http://jp.youtube.com/watch?v=NjR5xFZxZK8

これまで二度にわたって取り上げたことのあるフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフ。昨日ようやく「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」を観ました。この映画はまさに、「愛の讃歌」ができるまでを描いた作品でした。これまで結婚式でよく唄われた曲の一つであったに違いないこの曲を、この映画を観て披露宴で堂々と唄える人はいなくなるのではないでしょうか?

「バラ色の人生」(La Vie en rose)でイヴ・モンタンとの愛を書き、「愛の讃歌」(Hymne à l'amour)でプロボクサーのマルセル・セルダンへの愛を書いたピアフ。特に「愛の讃歌」は、セルダンの生前に書かれ、相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つ為に書いたということが映画で明らかにされます。

日本では、背徳的な内容とは異なった岩谷時子さんの訳詞で越路吹雪さんが歌ったのが有名なので、訳詞上は問題がないかもしれませんが、原曲に込められた想いは結婚式の賛歌としてはあまりにも悲劇的といえる内容です。比較的原詞の意味に忠実な内容として、永田文夫さんによる日本語歌詞を美川憲一さんが歌っているそうです。美輪明宏さんは自ら訳した日本語詞を台詞として吟じたあと、フランス語の原詞で歌うというスタイルを取っているそうです。

<「愛の賛歌・歌詞/永田文夫>
http://kashinavi.com/song_view.html?16724

また、映画にも登場するこの曲の作曲者、マルグリット・モノについての詳細はウィキペディアの英語版、フランス語版にあります。エデット・ピアフは47歳でなくなっていますが、モノも57歳という若くして亡くなっていました。

Marguerite Monnot (28 May 1903 - 12 October 1961) was a French songwriter and composer best known for having written many of the songs performed by Édith Piaf ("Milord," "Hymne à l'amour") and for the music in the stage musical Irma La Douce.

イメージ 1

昨年の今日、「フランスで最も偉大なシャンソン歌手『エディット・ピアフ』」というタイトルの記事で、「生涯を垣間見ると、この女性の映画ができてもおかしくないと思うがなさそうだ」と書いています。それから、一年後、彼女の映画が製作されました。すでに公開中ですが、まだ観ていません。私と同じくこれからこの映画を観るという方には昨年の記事を参考にしていただければ幸いですよ。

「『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』は、名曲『愛の讃歌』誕生の裏に、伝説的なシャンソン歌手の生涯をかけた愛があったことなどを描く。本人の死去から半世紀に満たない時点での製作に対し、観客がどのような反応を示すのかと監督自身も不安に思っていたが、本国フランスで公開されると、8週間で500万人以上を動員という見事な結果を収めた。実は、その成功の裏にはオリヴィエ・ダアン監督ならではの秘策があった」。

「脚本段階から、一人の女優に20代から47歳まで演じさせると決めていたこと。その大役にフランスの若手女優マリオン・コティヤールを起用したこと。また撮影は、『絵コンテも用意せず、リハーサルもなし。自分はピアフなのだと思うようにマリオンをトランス状態にしました』。そして最も心を注いだ歌の場面では、『口パクによる不自然さをなくすために、専門の編集者を起用して25分の1、4分の1といった単位で調整しています』と明かしてくれた」(ぴあ)

ピアフ役を勝ち取ったマリオン・コティヤールについて。

マリオン・コティヤール(Marion Cotillard、1975年9月30日-)は、「フランスの女優。近年はハリウッドでも活躍する。パリで生まれ、ロワレ県オルレアンで育つ。父親は俳優、母親は女優。弟が2人いる。オルレアンの演劇学校を首席で卒業し、18歳でテレビ映画に出演する」。

「その後、アルノー・デプレシャン監督の『そして僕は恋をする』や『TAXi』シリーズに出演して知名度を上げ、『TAXi』と『LES JOLIES CHOSES』ではセザール賞有望若手女優賞にノミネートされた。その演技力が認められ『ビッグ・フィッシュ』でハリウッドデビューを果たす。2005年には『ロング・エンゲージメント』でセザール賞助演女優賞に輝いた。2007年の『エディット・ピアフ 〜愛の讃歌〜』では数百人の中からエディット・ピアフ役に選ばれた」。(ウィキペディア)

イメージ 1

音楽は国境を越える。聞き慣れたことがではありますが、果たしてそうでしょうか?確かにクラシック音楽は多くの国境を越え、世界に渡りきっているように見えますし、中国、韓国、台湾で人気を誇る日本のミュージシャンがいることは事実です。しかしポピュラーミュージックに限ってみても国境を越え自由に羽ばたく楽曲は米英の一部のトップミュージシャンのものしかありません。

音楽はことばを介在するとき、その土地の風土、人種の上に成り立ち、非常に土着性の高いものとなります。その意味では、閉じた世界のきわめて限定的な文化です。音楽に氾濫する「愛」にも同じことが言えるのではないでしょうか?「All need is love」とビートルズが歌うときの「love」は、世界共通のものなのでしょうか?最近、そんなことを考えるようになりました。

私たちが聴いている外国のポピュラーミュージックや映画があまりにも米英に偏りすぎていることにもつまらなさを感じます。このことは何が原因となっているのでしょうか?映画では最近ヨーロッパ、アジアのものも入ってくるようになりましたね。しかし、国境を越えるはずの音楽は一向に米英からの一方通行です。

シャーリー・ナターシャ・クランプ Shirley Natasja Clamp, 1966年9月8日-)というスウェーデンの歌手をご存知でしょうか?ウィキペディアには次の記述しかありません。

・2001年、ユーロビジョン・ソング・コンテストで "Die for you" のバックコーラスで歌い3位。
・2003年、最初のソロで "Mr. Memory"という曲でユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン地区準決勝(メロディー・フェスティバル)に参加したが、6位に終わった。
・2004年、"Min karlek"という曲でメロディー・フェスティバルの決勝で2位になった。
・2005年、"Att alska dig"という曲でメロディー・フェスティバルに参加したが、決勝で4位。

年齢は41歳で、上記コンテスト、フェスティバルでの戦歴はいま一つという歌手。しかし、この中の「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」がどんなものかを知ると、ちょっと印象が変わってきます。

欧州放送連合(EBU)に加盟するおよそ50カ国が参加して行われる音楽コンテストが、「「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」。私、知りませんでした。このコンテストは1956年に始まり、毎年1回、テレビ放送され、ヨーロッパ全体および世界の一部の国のテレビとラジオで放送され、インターネットでも中継されているそうです。ウィキペディアから内容を引用します。

「コンテストの基本的な構成は、参加するそれぞれの国が事前にくじを引いて決められた順序で歌い、すべての楽曲の終了後、10分間の休憩を取ってその間に投票と集計を行うというものである。投票の結果が大きなスコアボードに掲示されると、各国は自らの投票内容を明らかにする。そして優勝した歌手はアンコールを行う」。

「この番組は10億人以上の視聴者がいるとされる。EBU(ヨーロッパ以外の国も含む)のどのメンバーもこのコンテストに参加する可能性がある。すでにヨーロッパ以外のメンバーのうち、イスラエルとモロッコが参加している。ユーロビジョン・ソング・コンテスト(とその他のユーロビジョンの放送)の前後に
流されるテーマ音楽は、マルカントワーヌ・シャルパンティエのテデウムの一節の前奏曲である」。

「なお、開催時間は伝統的に5月の土曜日の午後7時(世界標準時) 日本時間は日曜日午前4時から約3時間にわたって放送される。2004年からは前々日の木曜日にセミファイナルが行われる。また開催の前日には公開リハーサルが行われる」。

「イタリアのサンレモで行われているサンレモ音楽祭を前身としている。最初のユーロビジョン・ソング・コンテストはEBUのマーセル・ベイソンが考案した。このコンテストはまたテレビの生放送の送信技術の限界をテストする目的もあった。最初のコンテストは1956年5月24日に行われ、7か国が参加した。以後数十年間に、さらに多くの国が参加した。1990年代初頭の冷戦の終結により、多くの東欧諸国が列を作るようになり、参加国数は急速に増えるようになった。この流れは2005年現在も続き、ブルガリアとモルドバが新たに参加している」。

「ユーロビジョン・ソング・コンテストでは、本選出場国が自国以外に順位をつけ順位に応じてポイントを付加し、ポイントの合計点によって順位が決定される。イギリス、フランス、ドイツ、スペインの4か国は"Big4"と呼ばれ、前年の順位に拘らず本選出場が可能。本選優勝国は次回のコンテスト開催国の権利をもつ。ただ、次回開催国であっても、各国の事情で返上される国がある」。

歴代の優勝者を見てもほとんど知らないミュージシャンです。知っているといえば、1965年フランス・ギャル(夢見るシャンソン人形)、66年ウド・ユルゲンス、74年ABBA、88年セリーヌ・ディオンくらいです。世界で経済大国などと持てはやされ、米英中心の外国エンターテイメントに漬かりきって国内でなんとなく安心していた私ですが、世界から取り残されていたんだなと寂しくなりました。

イメージ 1

先程地元のFMで「アラベスク」の「ハロー・ミスター・モンキー」が流れました。1970年代後半、日本ではABBAより若干遅れてダンスミュージックシーンで人気を博したのが「アラベスク」でした。ダンスミュージックは8ビートでドラムのバスが8分音符を打つのが典型ですね。「アラベスク」がデビューしたのは30年前でした。

アラベスク (Arabesque)は、「1977年にデビューし、1984年頃まで活動した西ドイツ(当時)の音楽プロジェクトである。竹の子族などの支持もあり、80年代前期の日本における洋楽の人気の牽引車となり、日本発の人気は韓国・中国語圏などアジアにまで広がった。一方、本国西ドイツでは「哀愁のマリゴット」(チャート8位)しかヒットしなかった」。

「1977年、西ドイツの実業家であるヴォルフガング・メーヴェス(Wolfgang Mewes)は、当時ドイツから世界に向けてヒットを連発していたボニーMに触発されて、自らもボニーMのようなプロジェクトを作りたいと思い立ち、傘下の音楽出版社でプロジェクトチームを組み、プロトタイプとして『ハロー・ミスター・モンキー』を制作、世界各地に売り込みをかける」。

「1978年、日本のビクター音楽産業が、『ハロー・ミスター・モンキー』の日本での発売権を獲得し、大ヒットを記録。このヒットによって、それまでいろいろな人物が入れ変わり立ち変わりしていた『アラベスク』は、音楽プロデューサーにジーン・フランクファーター、シンガー・チームにサンドラ・アン・ラウアー(後にマイケル・クレトゥとともにEnigmaとして活動する)、ミシェーラ・ローズ、ジャスミン・エリザベス・フェッターという固定したメンバーによるプロジェクトとして活動することとなる」。

「特に1979年から加入しメイン・ボーカルに起用された当時17歳だったサンドラは、美貌かつ小顔で手足が長いモデル体型の美女で、この頃の日本のアイドルにはいないタイプで人気を牽引した。ちなみにサンドラは上記のように結婚しEnigmaとして活躍し、1993年にヒットした『リターン トゥ イノセンス』でボーカルをし、1995年にはマイケル氏の間に双子が誕生し、エニグマの活動は休止した」。(ウィキペデア)

ちなみに「アラベスク」は、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている装飾のことですイスラム世界の多くの人々にとって、これらの文様はまさに無限の(したがって遍在する)、唯一神アラーの創造のありのままを象徴します。

また「エニグマ(enigma)」とは、ドイツ語で謎、あるいは謎めいた人物や物事という意味です。1993年、シャロン・ストーンが主演した「硝子の塔(Sliver)」(フィリップ・ノイス監督)で楽曲を提供しています。

イメージ 1

シャンソンはかつて日本でも1970年台に一世を風靡した。石井好子、越路吹雪、岸洋子、戸川昌子、加藤登紀子、美輪明宏、芦野宏らの歌手がそうだ。アメリカ、イギリスの歌とそれっぽいJ-POPばかりが闊歩する今よりはずっと音楽がカラフルだった時代。

そういう私もエディット・ピアフのことは知らなかった。生涯を垣間見ると、この女性の映画ができてもおかしくないと思うがなさそうだ。ただ、日本では美輪明宏がピアフの生涯を「愛の讃歌」で舞台している。さすがた。ピアフは「ばら色の人生」、「愛の賛歌」の作詞者でもある。

「シャンソン (chanson)は、フランス語で歌の意味である。したがって、少なくとも現代のフランス語圏においては、シャンソンは歌全般を意味し、特定ジャンルの楽曲を指すものではない。他言語圏ではフランス語で歌われる曲という意味で使われることが多く、この場合も何らかの音楽的特徴を持つものではない。なおイタリア音楽のカンツォーネ(Canzone)とは元々の語源は同じである」。(フリー百科事典)

ピアフには俳優テオ・サラポという伴侶がいたが、彼女の死を知った友人のジャン・コクトーはその日の四時間後に亡くなっている。ピアフの生涯をフリー百科事典で辿る。

エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、「フランスのシャンソン歌手。フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった」。

「有名な曲としては、『ばら色の人生 La vie en rose』(1946年)、『愛の賛歌 Hymne à l'amour』(1949年)、『ミロール Milord』(1959年)、『水に流して Non, je ne regrette rien』(1960年)などがある」。

「彼女の代表曲『ばら色の人生』(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦のドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る」。

「それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンスへの貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた」。

「戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパとアメリカ合衆国、南アメリカで公演旅行を行った。彼女のアメリカでの人気は『エド・サリバン・ショー』へ8度も出演するほどのものであった。1947年のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリッヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。フランス語を話せたディートリッヒは、ピアフの『ばら色の人生』を自らの持ち歌に加えて歌っている」。

「彼女はシャルル・アズナブールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イブ・モンタン、ジルベール・ベコーなどピアフに才能を見出された歌手は多い」。

「ピアフの生涯の大恋愛はボクサーのマルセル・セルダンとのものであるが、セルダンは1949年に飛行機事故死している。ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した」。

「2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカス(Theophanis Lamboukas,『テオ・サラポ』の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はマレーネ・ディートリッヒの介添えのもと1962年に結婚した。サラポはピアフの死後、彼女の残した多額の借金を独力ですべて返済した」。

「47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌で死去する。死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された」。

「彼女はそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している」。

「彼女はフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている。フランスではいまだに彼女のレコードが売れ続けている。彼女の生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして現れたものであった」。

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]


.
aso**otoh
aso**otoh
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

最新の画像つき記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事