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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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《やるのは、「資本主義をつくるのをやめること」なんだって。でも、この人の考える「資本主義」って何? どっかにおっかない資本家や権力があって、それが無理矢理人を働かせている、というのがこの人の幼稚なイメージ》
 
ジョン・ホロウェイの『革命――資本主義に亀裂を入れる――』(原著2009、邦訳2010)についての山形浩生大先生のいい加減な決めつけに対して、
 
《ホロウェイの資本主義理解の要諦は、資本主義は、労働する諸個人が自分で、繰り返し作り出している物だということ。/「どっかにおっかない資本家や権力があって、それが無理矢理人を働かせている、というのがこの人の幼稚なイメージ」なんてぇのは、事実無根の言いがかり。》
 
と衷心よりお諫め申し上げたところ、ある方から以下のコメントいただいた。
 
《それ誤読。「諸個人が自分で、繰り返し作り出している物」なのは資本主義の一部分であって(資本主義に内包される亀裂はまさにその典型)、資本主義そのものとは違う。資本主義そのものについては、はっきりとは書いていないので山形氏のようなイメージが正しいとは言えないが、逆に違うとも言えない結果になっている。》
 
ホロウェイは、すでに『権力を取らずに世界を変える』(原著は、20022005。翻訳は2009)で次のように書いている。
 
《認識とは、主体が客体を自分のものにし直すこと、「する」力を取り戻すことなのです。客体は、私たちから離れたもの、私たちの外にあるものとして、こちらに立ち向かってきます。ですから、認識の過程は、批判という形をとるのです。私たちは、客体が「外にあるということ」を拒み、私たちすなわち主体がそれをどのように創り出したのか、を示そうと努めます。たとえば、貨幣を見ると、貨幣は外にある力として私たちに立ち向かってきますが、そのような貨幣を理解するためには、貨幣が私たちの「外にあるということ」を批判して、私たち自身が実際にどのようにして貨幣を作り出したのかを示そうとするわけです。》(邦訳[大窪、四茂野:同時代社]222頁。下線による強調は、阿蘇地)
 
もちろん、これは、山形大先生がお取り上げ下さった『革命』とは別の書物でのことだ。原著でみると少なくとも4年の開きがあるから、ホロウェイ自身の考えも変わった可能性だってある。
 
ただ、僕としては、『革命』の結論部分といえる32章のタイトルのように、「資本主義をつくるのをやめよ!」といえるためには、呼びかけの対象である「私たち」が「資本主義をつくっている」ことが前提になるはずだと考える。『権力』と『革命』の間には、基本的な事柄において「亀裂」は存在しないと思えるのだ(とここまで書いて、空恐ろしい危惧が芽生えてしまった。ひょっとしたら山形大先生は、ホロウェイが呼びかける対象が彼自身を含む「私たち」であることに気づいていないのではないのか!資本主義を作る「おっかないおっさん」たちに「そんなことやめろ!」と抗議しているとでも思ったのでは?しかし、そうだとするとこの御仁は、作者がだれに語りかけているのかを理解しないまま、“書評”なさっていたことになるのだが…)
 
確認すべきは次の2点となる。
 
1)山形浩生大先生のおっしゃるところの「イメージ」に対応するような記述が『革命』に見いだされるのかどうか?
→これは、一つでも見つかれば、山形流の読み方をされても仕方ないし、当然その責任も書いたほうにあるということになるだろう。
 
2)コメント氏のいうように、上に掲げた『権力』からの引用と同趣旨の記述は、『革命』にはないのか?
 →コメント氏の“読み”には、極めて重大な論点が含まれている。彼は、「亀裂」については、諸個人自身が作り出したものだと書かれていると指摘している。もし、その通りだとすると、ホロウェイは、資本主義に動揺をもたらす否定性の契機についてだけ、「私たちが作り出す」と書いていることになる。否定性の契機の労働する諸個人による産出を強調する立場といえば、それは自動崩壊論に対する批判としての主体性論だろう。ホロウェイが前者に与するものではないのは明らかがだが、後者についての彼の評価はどのようなものなのだろうか。
 
1)について。
どこをどう読んでも山形大先生がおっしゃるような「イメージ」につながる記述は出てこない。唯一可能性があるのは、先ほども指摘したように、大先生が目次だけを見て、資本主義をつくる「おっかないおっさん」に「やめよ!」と命じていると勘違いしたということぐらいだろう。
 
2)について。
 
《われわれが自らの主人を作り出すのは、外化された労働をつうじてである。マルクスは、外化された労働を実行する労働者について語っている。
 
[以下、『経哲草稿』からの引用―阿蘇地―]
 自分の生産活動が自分を現実から遠ざける刑罰となり、自分の生産物が奪わ れて自分のものでなくなる、というだけではない。その活動は、生産に従事しな
 いものが生産活動と生産物を支配する、という事態をも作り出す。彼は自分の 活動を自分から疎外するだけでなく、疎遠な他人のために、その人のものでは
 ない活動をその人のものにしてやるのだ……労働者と労働との関係が資本家
 (あるいは労働の主人)と労働との関係を生み出すのだ。
[『経哲草稿』からの引用終り] 》(『革命』邦訳116-117頁)
 
明らかに、資本主義の根幹である労働に対する資本の支配が労働者自身によって、労働者が行う、自分の労働に対する関係行為によって「生み出される」ことが、マルクスからの引用を用いて指摘されている。指摘されているのは、資本主義にとっての否定性の契機、資本主義を動揺せしめる「亀裂」のことではなく、反対に資本主義を存立せしめる契機のことである。
 
それでも、コメント氏は、なお主張できるだろう、「いや、資本主義自体を労働者が作るなんて書いていない」と。
 
しかし、先の引用元である『革命』の12章に続く13章に次のような記述がある。
 
《労働は資本を創出し、労働に依拠して構造化された世界である資本主義を創出する。》(『革命』137頁)
 
そして、その直前では、
 
《資本に対する闘争はそれを生産するものに対する闘争、労働に対する闘争である。》
 
とも書かれている。「無理矢理人を働かせている」者(「権力」「おっさん」)との闘争ではなく、働いている自分自身の、その働くという行為そのものとの闘争だとホロウェイは言っているのだ。
 
以上の考察により、山形氏の“書評”が目次だけ眺めて書いた言いがかりにすぎない可能性が極めて高いこと、また、山形氏の理解を支持することはできないが否定できる材料もないとするコメント氏の見解も説得的でないことが明らかになった。
 
さて、コメント氏の言及にかかわるもう一つの論点についてだが、いわゆる「主体性論」的発想とホロウェイの親近性は、疑うべくもないだろう。どう贔屓目に見てもホロウェイが、〈労働〉を〈為すこと〉へと転化させうるような具体的契機を明らかにしているといい難い以上、彼の「私たち」への呼びかけも「決断」「覚悟」のような主体的態度決定の呼びかけにとどまらざるを得ない。
 
この点が、ホロウェイに影響を与えたと思われるポストンと、ホロウェイとの違いだろう。ポストンは、ホロウェイとは逆に「歴史の《主体》とは、資本主義的編成を構成する社会的媒介の、疎外された構造なのである」(『時間・労働・支配』144)と指摘し、さらに、この構造は、「プロレタリアートや人類ではなく、資本」なのだと主張し(同141頁)、自我や自己意識を持たない歴史の主体としての資本について語っている(同137頁)。革命は、プロレタリアートの自己実現として遂行されるのではなく、資本の自己否定としてなされるという理解がポストンにはあるといってよいだろう。このような見解は、少なくとも表面的には、ホーリズム、すなわち構造主義や関係主義に通じるものに見え、主体性論よりは、自動崩壊論と親和的であるように見える。
 
この二人の関係は、引き続き検討を要する重大な問題をはらんでいる。この点に思いを致す機会を与えてくださったコメント氏に感謝したい。
 
 

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