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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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《所有権と環境問題との関連で,ハーディンの論文「コモンズの悲劇」(G.Hardin,Sience,162,1968)は,所有権を特定の個人に帰属できない財(大気や放牧地など)は,すべて劣化し,枯渇する運命にあるという衝撃的な議論を展開し,注目を集めた。ハーディンはその理由を「合理的な牛飼い」のアナロジーで説明した。それは,社会が平和で戦争や疫病による人口の減少が起こらないと,共有地ではその収容能力以上の牛が放たれることになり「悲劇」を生むとする。つまり,共有資源からの消費を拡大することによってもたらされる利益は,すべて個人に占有されるのに対し,共有資源の荒廃・減少というコストは資源の利用者全員で分割して負担される。したがって,個々人にとっては消費を拡大し続けることが,常に合理的な選択になるというジレンマが生ずるのであるという。この「悲劇」論は,漁業,森林,地下水など,あらゆる種類の公共的資源管理の分析に援用され,「共有」という管理形態は,公害や資源の過剰消費,貧困,技術的停滞など,多くの社会悪の元凶であると目されるようになった。政策的にもこの「悲劇」論は,ますます希少化した森林を政府が囲い込む科学的根拠として利用された。》
 
 ハーディンのモデルでは,共有の放牧地で自由に個人が自分の牛を放してよい場合,共有地の管理コストは,全員が平等に負担しながら,その土地からの利益は,自由に取得できるので,皆が競って利益を得ようとして多数の牛を放牧地に放そうとする結果,牧草地は急激に枯れると,結論される。

 ところがその後,ハーディンのモデルは,「コモンズ」(共有地,共有資源)の実際の在り方とかけ離れたものであることが指摘されるようになった。実際の伝統的なコモンズでは,上の例でいえば,放牧者は自由に牛を放すことはできず,一軒の農家が放せる牛の数や,放せる期間の長さが必ずルール化されており,利用は管理されていたのである。ハーディンが想定しているのは,そうしたコモンズではなく,むしろ,所有者がまだいない資源(無主物)の競争的利用(オープンアクセス)に他ならない。

 ハーディンの議論は,むしろ環境保全に役立ってきた伝統的コモンズに対する過小評価をもたらす点で問題がある。伝統的コモンズを資源利用の適正な管理システムとして再評価して,現代的に活かしていく視点が必要である。マルクスは,『資本論』第1部の「本源的蓄積」や第3部の「地代論」でコモンズの解体によって「市場経済」が拡大していく様子を詳細に論じ、第1部の「歴史的傾向論」では,「個人的所有[1]の再建」という言葉で,コモンズのバージョンアップされた内容での復活・再建の必要性を論じている。バージョンアップとは、科学化された労働過程や社会化された生産過程という生産力発展の諸成果を踏まえたコモンズの展開を意味する。また,伝統的コモンズの解体は過去の出来事ではなく,現在も進行中であることを忘れてはならない。


[1] マルクスの〈個人的所有〉概念は,私的所有を意味するものではなく,私有であるかどうかにかかわりなく,労働主体が自分が労働するうえで利用する生産諸手段を自分の身体の延長(非有機的身体)として取り扱うことを指す。






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