ここから本文です
自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

書庫全体表示

 『経哲草稿』でマルクスは,自然と人間の関係について次のように指摘している。《人間の普遍性は、実践的にはまさに、(1)自然が直接的な生活手段であるかぎりにおいて、また[(2)]自然が人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において全自然を彼の非有機的身体とするという普遍性[1]のなかに現れる。自然、すなわちそれ自体が人間の肉体でないかぎりでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の交流過程のなかに留まらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的精神的生活が自然と連関しているということは,自然が己自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも,人間は自然の一部だからである》[2]。《歴史そのものが自然史の,人間への自然の生成の,現実的な一部分である》[3]

このように,人間が自然の一部であり,自然から派生したものであり,したがって人間の自然に対するかかわりが,自然(人間化した)が自然自身(本来の自然)にかかわっていることに他ならないのなら,このかかわりが敵対的なものであるとすれば,それは,自然自身の自己分裂,自分自身に対する敵対的な振舞い,そのような意味で自己疎外,自己破壊を意味するだろう。

以上のことを踏まえたうえで,さらに議論は展開される。《社会的な,すなわち人間的な人間としての人間の,いままでの発展の全成果の内部で意識的になされた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然のあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であ》[4]る。《社会は、人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であ》る。自然が人間よりも根源的なもので,人間が自然からの派生物である事実を踏まえるなら,人間と自然のあいだの抗争の解決は,人間による自然の支配・制服では決してありえない。それは,人間がその生産活動の及ぶ範囲の全自然に対して,自然の本性に即した振舞いをなしうるということに他ならない。

 以上の議論は,『資本論』以下のように彫琢を加えられることになる。

 まず,自然の根源性について。

《人間は彼の生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。それだけではない。この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力に支えられている。だから、労働はそれによって生産される使用価値の、素材的富の、ただ一つの源泉なのではない。ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である》。

 次いで自然からの疎外とその揚棄としての自然の本性に即した生産。
《資本主義的生産様式は、それが大中心地に集積させる都市人口がますます優勢になるに従って、一方では、社会の歴史的動力を集積するが、他方では、人間と土地とのあいだの物質代謝を撹乱する。すなわち、人間が食糧や衣料の形で消費する土壌成分の土地へ帰えることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊するこうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する(324)。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する》(資本論S.324)

自然からの疎外は,物質代謝の撹乱として具体的に把握され,この疎外の揚棄は,物質代謝の体系的再建と呼ばれるが,その内容は,土壌から流失する養分を土壌に返すこととされている。すなわち,物資循環の回復が体系的再建の核心とされているのである。

同様の議論は,第3部でも繰り返されている。

自然からの疎外の具体的な事例の一つして物質代謝の撹乱=土壌成分の都市への一方的な流出がとり上げられている。

物質代謝の領域において疎外を克服し,自由を実現するためにはどうしたらよいのかは,次のように指摘されている。

《自由はこの領域のなかでは,ただ,次のことにありうるだけである。すなわち,社会化された人間・結合された生産者たち(der Vergesellschaftete Mensch, die assoziierten Produzenten)が,盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然とのあいだの物質代謝(ihren Stoffwechsel mit der Natur) によって支配されることをやめて,この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ,すなわち,力の最小の支出によって,自分たちの人間的自然にもっともふさわしくもっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし,これはやはりまだ必然性の国である。この国の彼岸で,自己目的として認められる人間の諸力の発展が,真の自由の国が,始まるのであるが, しかし,それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ開花することができるのである。労働日の短縮こそが土台である》(資本論Ⅲ、S.828)。


 「力の最小限の支出」は,生産性の向上によって同一量の使用価値の生産に必要な労働力主䪼を減らすことであり,労働日の短縮へに通じる。「自分たちの人間的自然に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということ」という章句は,自然の根源性を踏まえて解釈しなければならない。「人間的自然」は,自然の一部としての,非有機的自然からの派生物であり,非有機的自然を自らの身体としており,非有機的自然と対立していては,持続的に生存することのできない存在としての人間を意味している。

 マルクス自身の議論においては、「人間と自然とのあいだの物質代謝」の具体的な内容は、自然と人間のあいだの物質循環に関する今日の研究水準と比べれば、きわめて限定的なものでしかない。それは、土壌に含まれる栄養成分が農作物に吸収されて、それらの作物が人間社会において、生産的・個人的に消費されて再び土壌成分として復帰しうるかどうかという問題に基本的には限定されていたといってよい。しかし、マルクスは、この事例の研究を自らの資本主義分析に導入することによって、自然的なものの取得(摂取)と排泄物の排出という生命一般に共通する自然とのあいだの物質代謝が、人間の場合、社会的な分業編成に媒介されている事実を明らかにすることに成功している。これによりわれわれは、マルクスとともに、「自然法則に規定された自然的物質代謝の社会的物質代謝との関連」を「人間的自然」にも適合するよう「体系的に確立する」という、社会変革の基本指針を手に入れることになったのである。


[1] ここでは,「全自然」や「普遍性」が開かれたものである点に留意すべきである。それは,固定されたものではなく,下線部に見るように人間の生産活動の発展に応じてその範囲が拡大していくものと捉えられている。そのような開放性を指して,「普遍性」と呼んでいるのである。
[2] MEW, Ergänzungsband, S.516.
[3] Ebd.S.544.
[4] Ebd.S.536.

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事