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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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マルクスとルソー

「新しく議員を国民の代表にしても、次のことがこの新たな代表機関の性格とならなければ、それは全く無意味なものになってしまうであろう。その性格とは、ここでは他の人間が州民に代わって行動するのではなくて、むしろ州民が自ら行動するのだと言うこと、ここでは他の人間が州民を代表するのではなくて、むしろ州民が自らを代表するのだということである。」(『マルエン全集』第1巻 p.50)
 
「もし州民が、彼らの普遍的知性を代表させる為に、verfassungsmaessig(権力構成的→立憲的)なやり方で代表を任命するとすれば、彼らはとりもなおさず、自己のあらゆる判断や分別を自ら完全に放棄した訳であって、判断や分別は、今後は専らこれらの選良に体現されるのである。」(同p.52)
 
 
「政治的人間の抽象化をルソーが次のようにえがいているのは正しい。

 『一つの人民に制度をあたえようとあえてくわだてるほどの人は、いわば人間性をかえる力があり、それ自体で一つの完全で、孤立した全体であるところの各個人を、より大きな全体の部分にかえ、その個人がいわばその生命と存在とをそこから受け取るようにすることができ、身体的にして独立的な存在に部分的にして精神的な存在をおきかえることができる、という確信をもつ人であるべきだ。立法者は、人間から彼自身の固有の力をとりあげ、彼自身にとってこれまで縁のなかった力、他の人間たちの助けをかりなければつかえないところの力をあたえなければならないのだ。』」(「ユダヤ人問題によせて」)
 
以上のようなルソー評価は、もちろん、マルクスの国家論に影響を与えたであろう。特に最初の二つの引用は、パリ・コミューンにおける拘束委任型派遣制議会の発見につながる視点が、この時すでに芽生え始めていたことを示している。それよりも、むしろ、第3の引用の延長線上にある次の一節が、ルソー吸収の成果としては、はるかに重要であると考える。
 
《独立の人間としては、労働者たちは、同じ資本と関係があるがおたがい同士ではそうでない、個々別々の人間である。彼らの協業は労働過程ではじめて始まるが、労働過程では、彼らはすでに自分自身のものではなくなっている。労働過程に入るとともに、彼らは資本に合体されている。協業する者としては、活動する一有機体の諸分肢としては、彼ら自身は資本の一つの特殊な存在様式であるにすぎない。したがって、労働者が社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者たちが一定の諸条件のもとにおかれるやいなや無償で展開されるのであり、そして資本は、労働者たちをこのような諸条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は資本にとって何の費用も要しないのであるから、また他方、労働者の労働そのものが資本のものとなる前は労働者によっては展開されないのであるから、この生産力は、資本が生まれながらに持っている生産力として、資本の内在的な生産力として、現れる。》(『資本論』第1部 マニュファクチュアと分業)
 
一方に個々バラバラの諸個人(アトミズム)、他方に、彼らの社会的結合から生まれる力。しかし、現状において諸個人は、彼自身の個別具体的な日常生活態度のおいてバラバラなままだから、社会的力は、彼ら個々人に対して、疎遠なもの、敵対的なものとならざるを得ない[だからこそ、ルソーは、「立法者」はその状況を超えて社会的力と全体としての諸個人との統合を実現すべきだという]
 
マルクスは、ルソーの現状理解・問題把握、すなわち個々人の力が個々人から自立化した社会的力となって個々人に敵対する事態についての認識を高く評価しつつ、その解決案のホリスティック(全体主義的)側面への批判へと進んだ。ルソーは、平板な全体主義者などではなく、全ての個人が個人として社会的力を我が物とすることを望んだが、彼が提示した解決案は、その意図に反して全体主義化の危険をはらむものだったのである。
 
ある意味マルクスのその後の作業は、ルソーのこの限界を超えるための努力でもあったのである。
 

 

転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意)

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