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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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知識のあり方,役割について:大きな変化.
自然としての人間の働き.哲学の現世での実現
 →科学の役割:自然を対象にすることによる人間認識
 →自然を有用物にする,生産を科学的にする役割.その結果としての機械
 →自然を生産力に利用する手段.テクノロジー発展との強いかかわり

有用性,実学としての科学へ.技術との区別がつきにくくなっている
 
人間の意識の発達:人間自身の変化や発展が対象化されているという点で共通
 知の進歩,現実との関係における哲学の矛盾,認識論レベルでの変化
 
→人間のセンスの発達.それは社会的である.力動原理としての共産主義.
 →欲求とそれを満たす力の発達.一定の生産力がそれ以後の前提条件になる
 →物質代謝を共同的統制に置くという目標に向かう共産主義
社会化された人間の意識的計画のもとにおくことが目指される. 
 
自然との(内部的)一体性から,資源利用のための自然観への変化.
学問が自然を捉える((それによって人間自身も捉える)ための認識枠組みから,資本の論理に利用される資本としての知へ. 
 [1]

歴史の動態認識から,目標設定へ.
[2]
この変化は資本主義生産様式への視野の限定によるものか.マルクス自身の自然観が変化したものか.  [3]


加戸友佳子氏の唯研協報告「マルクスにおける自然認識と知識論」.学位論文から資本論までの〈自然認識と知識〉についてのマルクスの見解の変遷を追跡している。そのまとめの部分が上掲のものである。ざっくり言えば、初期の人間的自然による全自然の自己認識としての〈知〉から、後期の自然法則の生産への意識的適用のための〈知〉への変化という総括だろう。これに対する僕の評価を、体系的ではないが、注釈の形で以下に記しておく。


 [1]理解が一面的、二つの観点は対立しない。資本主義段階では、「資本の知」として人間が自分と自然を認識しているということ。

 [2]加戸氏自身が認めているようにこれは、あくまでも中間目標。自己目的としての人間の力の発展がこの後に始まるのであり、それにはゴールはない。

 [3]「視野の限定」という捉え方も問題含みである。資本主義分析へ深く分け入ることは、必ずしも将来社会への展望が後景に退くことを意味しない。マルクスにとって現状分析こそが、将来社会の可能性の探求そのものだったからである。


やはりこれだけでは、そっけないので補足。

グルントリッセ(『経済学批判要綱』)以降では‟人間的自然による全自然の自己認識としての〈知〉„が‟自然法則の生産への意識適応のための〈知〉„という特殊資本主義的形態をとるという事実が解明されているのであり、二つの〈知〉(=自然認識)は、本質的に対立するような関係にあるわけではない。

後者を前者の具体的形態としてとらえることが重要であり、後者もまた人間による人間と環境との関係の自己認識であり、しかもその中には、資本主義的な自然認識と自然への働きかけを批判する意識が胚胎されざるを得ないという点を見落としてはならない。

加戸氏のような理解では、資本論におけるリービヒの議論の位置づけやその後のフラースらに対するマルクスの姿勢を説明することはできない。






莽崛起(The Rising Multitude )

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