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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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P.41
《それでは、現在私達はどのような到達点にいるのか。現状の中心的テーマから言って、何を倫理として集団的に合意し形成しなければならないのか。そしてそのことは生活様式批判としてどのような新しい論点を提供しているのか。そこからどのような運動形態が展望できるだろうか。》

  市原氏の言う“倫理についての集団的合意”を〈公共性についての社会的承認〉と捉え返して、私たちの問題意識と結びつけることは、とりあえず可能ではある。 
同上、P.44

《日本の消費者のエコロジー・ブームが、「“倫理”な消費」の倫理っぽさをこえ、地球に対するだけでなく世界(他者)に対する具体的な倫理の形成に踏み出すためには、どのような問題に対する自覚的な検討と態度決定が必要なのだろうか。そしてその条件を満たしたとき、倫理な消費者はどのように資本主義的に制約された消費者から自立するのか。》
  検討と態度決定だけでは一面的である。生産過程において労働する諸個人は、社会関係の物質的諸条件に直接働きかけることのできる地位にあるのだから、QWLをめぐる実践のように、消費者としてではなく、労働者としての取り組みが必要である。 「倫理な消費者」は、消費者である以上、資本主義の制約から自立することはできない。言われるところの消費者は、実際には、使用価値を享受する主体ではなく、商品購入者であるにすぎない。 
同上、P.48

《アメリカ的生活様式は、大量生産−大量消費という独占資本の資本蓄積様式を構成する。いわゆる北側の先進資本主義諸国は第二次大戦後の経済復興にともなって、この生活様式を取り込み広げていった。この過程の中で公害・環境破壊は、労働者・農民・漁民が被害者となる古典的形態だけでなく、これらの諸階級の消費行為が媒介となっておこる消費者公害という新しい形態をも持つようになった。そしてまた、この消費行為が発展途上国の搾取と収奪を媒介し前提する事態に立ち至っている。これらの点は今みた通りである。


こうして先進国の労働者は、被害者としてのみの自己規定ではすまない時代を生きている。労働者は「消費者」として資本主義システムにおける「市民権」をもち、資本の再生産の担い手となっている。異常に増大する生産カを無反省な欲望のままに享受する消費者は単なるシステム内的存在にすぎず、資本との一種の共犯関係にあるといえよう。》
  市原氏の指摘は事実ではあるけれど、私たちはむしろ、労働者がたんなる共犯どころかこの資本の生みの親であるという点に労働者の変革主体としての積極的な可能性を認めるのである。  
Mercy Mercy Me The Strokes,Eddie Vedder & Josh Homme(Marvin Gaye cover)  




莽崛起(The Rising Multitude )

転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意)

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