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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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我々は、粗雑で素朴な荒木の妄言を、まったくもってそれに相応しくない丁重さでここまで丹念に検討してきたが、この後、荒木のたわごとはさらに常軌を逸したものになっていく。


《冒頭にも述べたように,マルクス「共産主義」論の前提となる「人間性」=「共同本性」という把握は,カント以来のドイツ古典哲学の問題意識を継承するものであるとともに,後段で別の視角から究明することになるが,生命にとって本来的である独自の「利己性」という自然的契機・属性が消捨された,極めて非現実的・観念的な形而上学的な思弁の上にたつものであったと言わなければならない。》


なんとしてもマルクスを個々人の自立性を否定する全体主義者として描き出したくて仕方がない荒木は、マルクスが批判的に継承したドイツ古典哲学を丸ごと全体主義の哲学だと決めつけようとする。しかし、ヘーゲルの「欲求の体系」についての議論を一つ取り上げるだけで、荒木の妄言に何の根拠もないことが明らかになる。


《特殊性それ自体が, 理念にしたがって, 特殊性の内在的な利害関心に存するところのこの普遍をその意志と活動性の目的と対象とすることによって,人倫的なものが内在的なものとして市民社会に還帰する,コルポラツィオーンの本分がこのことを形づくる。》(G.W.F.へーゲル『法の哲学綱要』,473―474ページ。)


「共同性」や「普遍性」と「利己性」や「特殊性の内在的利害関心」を機械的に対立させて、それらがトレードオフの関係にあって、どちらか一方を選び他方を捨てざるを得ないものと、何の根拠もなく決めつけているのは荒木自身なのである。ヘーゲルもミルもマルクスも、荒木の言うところの「利己性」が実現されるためには、その時々の特殊歴史的な社会関係によって媒介されなければならないことを捉えているのであって、荒木のように抽象的に「利己性」一般について、その否定や肯定について放言しているのではない。

さて、ドイツ古典哲学とマルクスに対する歪曲・改ざんの作業を終えた荒木は、次のように述べて、彼の手慰みに過ぎない落書きの総仕上げにとりかかろうとする。


《以下では,上述マルクスの「人間性」把握を批判的に検討すべく,その一つのアプローチとして,現代生物学における生命の進化と動態,そこにおける「利己性」という問題がどのように説明され解答を与えられているかについて,考察していきたい。》


 
荒木が、マルクスへの難癖として投げつけた《経験的事実にもとづく分析を超越した,普遍的次元・人類史全体を表象する,「類的存在」=「共同本姓」[ママ――引用者]という観念的把握があるだけ》という言葉の中の、「経験的事実に基づく分析」の内実が以下で明らかになる。結論を先回りしていえば、それは、生物学的決定論以外の何物でもない。われわれは、荒木自身が「普遍的次元・人類史全体を表象する」「利己性」の観念と戯れている姿を見であろう。ご笑覧あれ!(つづく)


Rolling Stones The Last Time




莽崛起(The Rising Multitude )

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