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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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《経済学を学ぶと、限りある資源をどのような方法で分配したらよいのか、どのようにすれば我々の社会を豊かにできるかが、わかります》(鶴田大輔)
 
資源→より具体化して、生産手段と労働力。生産手段は、さらに労働の炎に鞣された人工物が大部を占めるがその大元は、環境的自然である。
 
分配→範囲を拡張して分配された資源を用いて行う生産や消費の中身についても検討が必要。分配のみに限定するのは一面的。市場が知や情報の革新的なシナジーを創出する手段だというのなら、そうした創発性の追求は企業内部においても行われるべきである。
 
《経済学は、消費者や生産者が効率的に市場で取引するためには、どのような制度が国全体を豊かにするかを解明することを目的としています》(同上)。
 
これは、日本語として未整理。制度設計の目的が、(1)効率的な市場取引と(2)国全体を豊かにすることの二つであることはわかるが、両者の関係が不明だ。忖度するに、“制度設計→効率的な市場取引→国の豊かさ”という構図、つまり市場の効率化を通じて豊を実現するということなのだろう。しかし、「効率的市場取引」がある種の信仰心に基づいて無理やりねじ込まれたものなので、まったく座りの悪いものになっているww
 
どうして、“経済学は、どのような制度が国全体を豊かにするかを解明することを目的としています”ではいけないのだろうか?
 
《経済学は、個人が幸福になるため、あるいは企業が利益を拡大するための処方箋を示すものではありません。むしろ、そのような個人や企業の行動を理解すると同時に、そのうえで、経済社会で起こる現象を分析し、社会が幸福になるための処方箋を示します。例えば、環境はなぜ汚染されるのだろうか?
このことは社会にとって望ましいことなのか? ではどのようなシステムを構築する必要があるのか? ということを考えます。》(藤本盪)
 
藤本の場合、鶴田のような、市場に対する根拠薄弱な信仰的態度はない。まず、そこがよい。
 
そして、個人の幸福ではなく、「社会の幸福」だという。これは、ポイントをそれなりについた言葉だが、やはりまだわかり難い。「社会の幸福」とは何ぞ?
 
問われているのは、システムの在り方であり、この点、鶴田の「制度」と同じといってよい。社会にとって望ましい事態をもたらす制度・システム、あるいは望ましくない事態をもたらし難い制度・システムの模索(「望ましい事態とは何か」も含めて)が課題だというのだ。
 
ここまで、理解するのはそう困難ではない。残る問題は、個人と社会の関係だろう。個人の幸福や個別企業の利益ではない、「社会の幸福」という場合、個々の利害得失は、「社会の幸福」とどうかかわるのか?個人や個別企業とは別物として、〈社会〉なる主体が存在するのか?
 
最後の問いについては、藤本も否定するだろう。〈社会〉は独自の主体と考えられているわけではなく、個人や個別企業といった主体の活動の成否を左右する環境条件としての制度・システムの「望ましい」(と合意される)あり方を「社会の幸福」と言っているのである。
 
ひとまず、この問題設定は受け入れてよいだろう。我々は、当然ブルジョア社会の「合意」の欺瞞性を批判するが、それは、この「合意」の深さと広さ(時間的射程を含む)の問題と読み替えることもできる。
 
経済学は、個々の主体の活動の成否を左右する制度・システム(社会)の望ましい在り方を模索する学である。もちろん、同じ一つの問題に対しても経済学の「解」は、往々にしてひとつではなく、社会的意思決定が純粋に学的な方法で導かれるケースはほとんどない。しかし、経済学は、意思決定において無視することのできない原理・論理・メカニズムを摘出することができる。社会の制度やシステムをデザインするための社会的意思決定において無視できない原理・論理・メカニズム、これが経済学を学ぶとわかる(はず)のことである。



転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意)

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