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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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石原の著書『環境問題の理論』(光陽出版社、1996年)は、副題が「環境生産論の提唱」となっている。

本書の第6章”「環境の生産」を示唆するマルクス・エンゲルスの哲学的・予見的論説”で、エンゲルス『サルが人間化するにあたっての労働の役割』の次の叙述を取り上げている。

《実際にわれわれは日ごとに自然の法則をいっそう正しく理解し、自然の昔ながらの歩みにわれわれが干渉することから起こる近い将来また遠い将来の結果を認識してゆくことをまなびつつある。ことに今世紀に入って自然科学が長足の進歩をとげてからというもの、われわれは、しだいに、すくなくとわれわれの最も日常的な生産行動については、そこから当然生じてくるはずの遠い将来の自然的結果をも知ってこれを支配することを習得する立場になってきている。しかし、そうなればなるほど、人間はますますまたもや自分が自然と一体であることを感じるばかりか知るようにもなるであろう。》

エンゲルスのこの叙述に石原次のようなコメントを加えている。

《ここに示されているエンゲルスの見解は、生産活動がもたらしている今日的な環境問題を予見しているかのごとく、そしてその対処は、まず環境の持つ自然法則を認識し、それにのとった予測をもって、社会的には、生産の規制、自然に対しては、積極的で適切な環境の再生が求められることを示唆するがごとくである。》[石原;1996、110頁]

エンゲルスの「支配」や石原の「積極的」にある種の〈不遜さ〉を感じ懸念を抱く方もあるかもしれない。確かに、エンゲルスには、人間を「自然の主人」としたり、自然に対する人間の支配を語るという、危うい側面がある。より理論的に言えば、彼自身が、社会法則が人間の自由に対して持つ意味と、自然法則のそれとを明確に区別できていないため、社会法則に対しても、自然法則全く同じように、それの意識的適用によって人間の自由が実現するとするかのような理解が見受けられる(この点の理解については、松井暁の「マルクスと自由」専修経済学論集,46(1),2011-07-15が参考になる) 。

しかし、注意しなければならないのは、この文脈においては、エンゲルスの「支配」の対象は、自然ではないという事実である。エンゲルスが、上記引用において支配するといっているのは、「われわれの生産行動」の「自然的結果」である。言い換えれば、われわれの生産活動が自然に及ぼす作用を制御・規制・管理するということに他ならない。

そうとなれば、エンゲルス自身にそこまでの考えがあったかどうかは兎も角、「自然的結果」の制御のために「われわれの生産行動」を厳しく制限・抑制することも、状況次第では必要となる可能性が論理必然的に含まれることになる。

エンゲルスの主観的認識は別にしても、彼の論理の客観的な帰結は、自然の恣意的な改造を一方的に促進することを一面的に主張するような議論とはならないのである。

石原も基本的に、これと同じ観点から、エンゲルスの一文を取り上げていることは、二つ目の引用に《社会的には、生産の規制》とあることからも明らかだろう。したがって、石原の「積極的」な「環境の再生」や、さらに「環境の生産」についてもこのような観点を前提にして理解する必要がある。

石原は、上掲引用箇所の次の節で、今度マルクスの『経哲草稿』を取り上げて検討を加えている。その中で、資本主義時代の「生産行動」について次のように指摘している。

《生産の発展のそれほど進んでいない段階では、「自然的作用」もまたそれほど反人間的とはならないが、今日的資本主義的生産の発展、その高度な発展においては放置できないものとなり、身体的に適応しえないほどの自然環境の悪化をもたらしている。しかし資本主義は、その利潤追求の本性から、そのためにのみ「生産行動」の発展、科学技術革新を求め、自然に対しては基本的に放置主義である。「自然的作用」の進行は、まさに「身体的生存手段」の破壊といえる。》[石原;1996、114頁]

つまり、資本主義においては、われわれの「生産活動」の「自然的作用」によって生じる環境破壊は、「基本的に放置」されているという認識が石原にはある。このような破壊の放置に対置されるのが「積極的な環境再生」なのである。

石原、『経哲草稿』での「人間は普遍的に生産する」「人間は全自然を再生産する」という指摘に着目し、さらに以下の叙述に関心を向ける。

《共産主義は成就された自然主義として人間主義に等しく、成就された人間主義として自然主義に等しい》
《社会は人間と自然との本質的一体性の成就、自然の真の復活、人間の自然主義の貫徹、また自然の人間主義の貫徹である。》

*なお、石原本人はHumanismusにはヒューマニズム、Naturalismusにはナチュラリズムという訳語を当てている。
石原自身の叙述には、《自然諸法則が全面的に人間化される》《自然は人間化によって「真の復活となる」》という表現が散見されるが、これも人間が本来的に自然の一部でしかないことを前提にして解釈すべきものである。つまり、人間自身の自然への復帰、全自然の復活の過程で人間の独自性が活用されることがマルクスの言う、人間主義の貫徹であることは、石原にあっても基本的には了解されていると思われる。

全自然の復活の過程で人間の独自性が生かされるとは、一体どういうことか。人間の独自性とは、諸対象の本性に即して生産ですることを言う。したがって、人間が全自然を対象とすることができるようになるとすれば、その時、彼らは、直接に生産活動や消費生活に役立つようなものの生産ばかりではなく、「経済資源」としての有用性を持たない生物の保存など、環境的自然総体の生産を行うことになる。

そのためには、環境的自然のある部分に対しては、あえて放置する(ウィルダネスの保全)という方法も取られるであろう。しかし、その範囲をどう設定するかは、人間自身が決める他はない。そうした方法を含む「環境の生産」が、人間と自然との間の物質代謝の意識的制御としての〈労働〉であり、人間の独自性の発露なのである。

このようにマルクス、そして石原にあっては、人間が環境的自然の総体を自覚的・意識的に、すなわち”積極的に”生産することが目指されている。しかし、それはあくまでも、環境的自然総体が持つ本性に即して、それを再生することであり、それを恣意的に改変することではない。





莽崛起(The Rising Multitude )

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