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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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一般的知性が固定資本として現存するということは、それは資本のための手段となっているということである。そしてこの一般的知性を各々の労働者が身体知として再び「自分のもの」にするということは、すなわち、資本のための手段に自らを一体化させるということである。この身体知ーー資本のための一般的知性の身体知化したものーーは、各々の労働者の「自分の知」でありながら資本のための労働者の「知」なのであり、労働者たちが資本に対抗して自分たち自身のために用いられるべきでないものとして資本は、これを労働者に「与える」。しかし、それが実際に労働者に与えれることによって資本の意図に反して、それは資本に対抗して用いられる可能性を持ってしまう。

資本の形成する一般的知性は、この意味において矛盾をはらんでいる。資本はそれを労働者に「与え」なければならないし、しかし、決して本当の意味でそれを与えてはならない。労働者は、それを「自分のもの」とすることを資本から求められているが、それを本当に自分のものとすることは、決して許されてはいない。しかし、それにもかかわらず、労働者は、資本による禁制を振りほどいて、この「知」を自分たちのために、用いることも不可能ではない。いうまでもなく、それは、単に彼らがそう決断すれば直ちに実行できるというほど簡単なことではないのではあるが。

なお、野中郁次郎の「知識創造企業論 」に対する大崎正瑠の次の指摘は、まさしく正鵠を射たものである。野中の議論は、興味深い現象を取り上げてはいるがマイケル・ポランニー解釈としては正確でなく、取り扱いには注意が必要である。

《ポラニーの「暗黙知」と野中の「暗黙知」は別物である。ポラニーの「暗黙知」も野中の「暗黙知」も「経験知」「身体知」であることが共通点であるが,ポラニーの「暗黙知」は表出伝達不可能であり,野中の「暗黙知」は表出伝達可能である。筆者は,野中の「暗黙知」を「暗黙知」と呼ぶことに非常に懐疑的である。「暗黙知」が「暗黙知」であるのは,文字通り表出も伝達もできないからである。ともかく野中の「暗黙知」は,誤解を招くので「暗黙知」ではなく他の呼び方に変えるべきである。》

大崎正瑠「暗黙知を理解する」(東京経済大学 人文自然科学論集 第127号)



Tacit Blessing - (instrumental)




莽崛起(The Rising Multitude )

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