ここから本文です
自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

書庫全体表示

《社会に問題があると感じているとすれば、それは、自分自身の問題を投影しているということでしょうね。

そのことに気づけば、自分自身を、すべての問題、混乱から、解放していくのではないでしょうか。》
 
 
「悟り」といえば、「身土不二」とか「色身不二」といった仏教の御教えが想起されます。これなどまさにヘーゲルの《〈他なるもの〉は〈自己〉である》という認識と殆ど合致していると言えそうな気さえします。

実際ヘーゲルは、自分の理論の半面、あるいは、その終局的な結論においては、自他の同一性の認識が自他の調和的統一を保証すると主張しました。

といえ、ヘーゲルがこの自分の結論に寸毫ほどの懐疑も持たなかったというわけではないでしょう。よく知られているように彼は、〈矛盾〉の思想家です。統一に調和的な統一ばかりでなく、不調和的な統一があることを強く指摘した人でもあります。

正に、我々は、自分自身の問題を社会や環境に投影してしまうことがあります。他者との調和・不調和の以前に、投影前の核としての自分自身においてすらある種の不調和を抱えてしまうことがあり得るということでしょう。

況や、そんな自分を〈他なるもの〉として展開・対象化していったとき、〈他なるもの〉が自分自身に他ならないにもかかわらず、それとの間に不調和が生まれることはもはや避けがたいことと言わざるを得ないのかもしれません。

ここまで考えてわかることは、〈身土不二〉、〈色身不二〉、〈自他不二〉という志操、即ち《〈他なるもの〉は〈自己〉である》という自他の同一性の自覚、そういう意味での「悟り」の境地と、〈他なるもの〉への囚われから〈自己〉を解き放つこととの間には、まだ依然として幾何かの隔たりがあるということです。

とはいえ、“環境、社会、物質とは、他ならぬ自分自身なのだ”という自覚、この「悟り」の境地こそは、あらゆる自己変革の礎石であり、それなしではいかなる自己変革も不可能です。

自分がそれに囚われ、固執し、支配されている対象は、自分自身が生み出し、引きよせ、その魔的な力を吹き込んでしまっている、自分自身の分身に他ならないのだという自覚こそ、囚われからの解放のための自己変革に欠くことのできないだ一歩だということです。
 

転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意)

この記事に

  • 顔アイコン

    訂正です。

    色身不二の「身」はご変換。

    「色心不二」が正しい表記です。

    [ 阿蘇地☆曳人 ]

    2018/2/8(木) 午後 6:18

    返信する

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事