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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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革命の手法についてのレーニン自身の主張は、こうです。

「革命的暴力が、革命の発展の一定の時機にだけ、一定の特殊な条件があるばあいにだけ、必要かつ正当な革命の手段であるということ。これに反してプロレタリア大衆の組織、勤労者の組織は、この革命のはるかに根ぶかい、恒常的な本性であり、この革命の勝利の条件であったし、今でもやはりそうである、ということもまた疑いない。」(レーニン;スヴェルドロフの追悼演説、全集二十八巻七十八頁)

「革命的暴力が、…一定の特殊な条件があるばあいにだけ、必要かつ正当な革命の手段である.」

つまり「議会主義が発達した今日では、暴力革命は不必要だ」という見解にも条件次第で妥当だと認められる余地はあるわけです。

しかし、「平和革命」、「暴力革命」のいずれにしても、具体的条件と切り離してあらかじめどちらで行くべきかを定めておくことはできません。

さらに、スヴェルドロフ追悼演説におけるレーニンの指摘のポイントは、武力革命の適応条件の問題よりもむしろ、革命の本質的要素は「プロレタリア大衆の組織、勤労者の組織」なのだという点にあります。

なお、この「組織」から「党」は排除されてはいないものの、「プロレタリア大衆」とあるように重点は、大衆的な労働運動の組織におかれています。

マルクスは、次のように言っています。

「新しい労働の組織をうちたてるためには、労働者はやがては政治権力をにぎらなければならないが、われわれは、この目標に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない。われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そしてもしわれわれがあなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に強力にうったえるほかはないのである。」(「ハーグ大会についての演説」1872年9月 マルクス・エンゲルス全集(18) 158ページ)

この問題に関しては、両者の間に決定的な違いはないと考えますが、いかがでしょうか。


※なお、「暴力革命」という表現自体かなり不正確なものであると考えます。武力は装備されても、行使されないことがあり得ますが、行使しない暴力というものは概念的に存在しません。そして実際の歴史を見ても、ロシアの10月革命は武力革命でありながら、事実上の無血革命でした。また、ポルトガルのリスボンの春も軍の決起による武力革命ですが、ほとんど無血革命でした。「暴力革命」という言葉では、こうした歴史的事実を表現することができません。

両者の決定的な差異は、むしろ、企業ガヴァナンスについての考え方において顕著です。僕のブログ記事から引用します。

”レーニンは、「ソビエト権力の当面の任務」の中で次のように述べている。


《いま、ソビエトの代議員を「国会議員」に変えようとするか、あるいは官僚に変えようとする小ブルジョア的な傾向が存在している。このような傾向とは、ソビエトのすべての代議員を実際の管理活動に参加させることによって、たたかわなければならない。多くの地方では、ソビエトの各部局が、しだいに人民委員部と合体しつつあるような機関に変わってきている。われわれの目的は貧民をひとりのこらず実際の管理活動に参加させることである。そしてこれを実現するためのあらゆる方策 ―それは多様であればあるほどよい― は詳細に記録され、研究され、体系化され、より広はんな経験によって点検され、法制化されなければならない。われわれの目的は、勤労者のひとりひとりに八時間の生産的労働の『日課』をおえたあと、さらに無償で国家的義務を遂行させることにある。このような制度に移行するのはとくに因難であるが、この移行を実現しないかぎり、社会主義の最終的確立を保障することはできないのである》

工場委員会による労働者管理は、「貧民」が「管理活動に参加」する「多様」な「方策」のひとつに他ならないはずであり、ВСНХの決定「国有化企業の管理について」による任命制の導入は、そしてВСНХ決定を理論的に強く支持する当面の課題達成のための二つの要件(ブルジョア専門家の導入と単一意志への大衆の服従)は、労働者管理を否定するものにほかならず、上に引用した部分の内容と明らかに矛盾している。

しかし、レーニンの主観においては、両者はまったく矛盾しないものと考えられていたようである。そもそも彼が言う「貧民を…管理活動に参加させること」は、「単一の意志に…服従すること」への合意を可能な限り全員一致に近い形で形成することと考えられていたようである。


《およそ大規模機械制工業が――すなわち、社会主義のほかならぬ物質的、生産的源泉であり基礎であるものが――、幾百、幾千、幾万もの人々の共同作業を指揮する意志の無条件的で厳格な統一を要求するのだ、と言わなければならない。技術的にも、経済的にも、歴史的にも、この必要性は明白であり、社会主義について考えたすべての人が、つねにそれを社会主義の条件として認めてきた。だが、きわめて厳格な意志の統一はどうすれば確保できるだろうか? それは、幾千人もの意志を一人の人間に従わせることによってである。・・・嵐のような、春の大水のように湧きでる、あらゆる岸からあふれだすような、勤労大衆の集会民主主義を、作業時における鉄の規律に、作業時における一人の人間の意志、ソビエト指揮者の意志への絶対的服従に、結びつけることを習得することが必要である》

勤労大衆が、その集会民主主義を通じて自分たちが絶対的に服従するにふさわしい、鉄の規律の体現者を選ぶ術を「習得する」ことが求められている。我々は、レーニンのこの考え方の内にあのルソーの全体主義的側面とほとんど共通のものを認めざるを得ない。レーニンのこの考えは、マルクスのそれとは相容れない。マルクスは、指揮・管理労働が一般作業者とは区別された人格によって担われることが必然事ではないことを明白に述べることには、成功していないが、指揮・監督労働の「専制的形式」が価値増殖過程としての生産過程の性格に由来することを明らかにしている。つまり、管理の専制的形式とは、管理の特殊資本主義的な性格であり、資本主義とともに滅びるべき形式なのである。

レーニンが管理の専制的形式を大工業もそこに包括される協業一般の不可避的形態と捉えているとすれば、彼は、マルクスとまったく対立しているのであって、彼が間違っているか、マルクスが間違っているか、さもなければ両者がともに間違っているのである。 ”


以上です。


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