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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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人間が人間である限り社会の仕組みに関係なく持ち続けるであろう性質、普遍的人間本質をマルクスは類的本質と呼んだ。

その内容は、他の人間や自然と関わることなしには生きていけないという点にまず求められる。しかし、自然との関わりなしに生きられないのは、全ての生物についていえることであり、仲間との協力を必要としているという点も蟻、蜂、サル、狼など群れとしての生活を基本とする生物に共通して見られるもので、人間だけの特徴とはいえない。

人間の場合、以上のことに、次の点が加わっているところに特徴がある。それは、人間には、他人や自然との関係を意識的に調整・コントロールする能力、つまり、社会関係や環境を自分の目的に応じて改善・変更する能力が備わっているという点である。労働は、まさしくこの能力の発揮であるし、協業が生み出す個人の限界を超えた力も類的本質の現れといってよい。

これは、人類の一員である以上どの人にも備わっている能力だが、一人だけではその能力を発揮することはできない。やはり他人との協力が必要である。要するに、それがうまく発揮できるかどうかは、他人との関係次第で変わってくる。類的本質は社会関係がどう変わろうとなくなるものではないが、それがどれほど発揮できるかは社会関係次第で変わるのである。人間は、類的本質をよりよく発揮できるような社会の仕組みを求めて社会関係の変革を積みかねてきたといえる。
 
しかし、資本主義社会では、労働者たちは、資本の自己増殖運動を実現するために資本家が立てる目的と計画をその通りに実行しなければならない。

本来労働は、本能的ではない、目的意識的活動であるところに特徴があった。他人や自然環境との関係を自分の意図・構想・目的によって制御しようとすることが人間の人間らしさ(類的本質)であった。

しかし、資本主義社会の労働者は自分で作業場全体の目的や運営構想を立てることが出来ないという意味では、人間らしさを失っているのである。

こんにちは。
オレは左翼でも右翼でもないが、あなたの主張には関心がある。こんなオレでも、くつろいでいいかな。(敬語は苦手はお許しくだされ。)

なるほどな。たしかにオレも、やりたくない仕事をさせられたりするときは、オレも人間なんだぞって思いたくなる。あなたは、自分の意図で制御できる人間らしさを、国家においてどんな形で実現させようとしているのかが気になるな。 削除

2011/4/7(木) 午後 4:0

ご訪問有難うございます。歓迎いたします。

自分の意図で制御できる人間らしさ…これが実現できる集団の規模は、そんなに大きくないのではないか?

これは、僕自身も抱いている疑問です。とりあえずは、協同組合企業や社会運動の諸団体の実際の経験を通じて推し量っていくと同時に、可能なら制御しうる集団の規模を大きくするとか(それがいいかどうかも検討が必要かもしれませんが)、小集団を基本単位としてそれらの連携を図るとか、していくしかないのかなと考えています。 削除

2011/4/7(木) 午後 6:33

 



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